手を振る幽霊

 夏の暑さもようやく和らぎ始めた初秋──といっても旧暦でいえば秋の終わりの頃。利吉はここのところ取り掛かっていた仕事の報告のため、とある城を訪れていた。
 雇い主はその城の城主。しかしその仕事内容も、そもそも城外のフリーの忍びに仕事を依頼したということも、城内の人間はごく一部の側近を除いて聞かされていない隠密の仕事である。ゆえに利吉が仕事の報告ひとつするにしても、「城主にゆかりのある人物の、さらにその縁者」と身分を偽って謁見する必要があった。城主とは事前にそのように身分を偽るよう取り決めてあるため、事情を知っている者が聞けばそう苦労することもなく取り次いでもらえるという寸法である。
 忍びの仕事をこなす際、時には夜闇に乗じて目的の城内に忍び込むこともある。しかし基本的には、忍者隊を組織しているような守備の堅牢な城に、必要もないのに無暗に忍び込むのはリスクが大きい。忍び込む側の利吉にとってもそうだが、また利吉に依頼する側としても、利吉が捕縛されるのは避けたいことである。できれば内部の者にすら秘密裏に──というのは、仕事を受ける際に利吉が大抵言われることであった。
 となれば、こうして雇用関係で結ばれている際には極力穏便な方法をとる方が利吉にとっても、また利吉を雇う城主にとっても何かと都合がよかった。
 恙(つつが)なく城主への報告を終え、報酬を受け取り城を後にする。これでこの城との仕事は終了だが、城主からは是非うちの城にと就職の勧誘を受けてしまった。往々にしてそういうことはあるものの、今のところ利吉にはひとところに落ち着くつもりもない。フリーで仕事を受けるのは性に合っていると、利吉自身つくづく実感しているからだ。
 ──まあ、城付きにはそれはそれで利点も多いんだろうけど。
 その最たるものが安定した収入と福利厚生だろうことは言うまでもない。
 利吉のように優秀な忍びを使うとなれば、当然その報酬は高くつく。だからどこの城主も、有事の際以外は利吉に声を掛けることは少ない。
 しかしながら、これもまた当然のこととして世の趨勢は常に変動している。人もものも、すべては流転し続けているのだ。泰平と戦乱は慌ただしく巡るものであり、それに合わせて利吉の仕事にも繁忙期と閑散期があるのは自明の理と言える。
 一見平和に治まっているように見える土地でも、水面下では他国との探り合いや情報戦が繰り広げられていることも珍しくなく、そうした時には当然利吉にも引っ切り無しに仕事が舞い込む。しかしひとたび戦乱が始まれば、舞台の主役は武士にとってかわる。利吉への仕事の依頼が減るのも、案外この時期だったりする。
 今はまだ、ありがたいことに仕事が続いている。大きな戦も少ない。しかしこの先、諸国各城が来たる戦国時代への準備として忍者隊を組織し動かし始めれば、フリーで仕事をとる利吉の出番はどんどん減っていくだろう。戦乱の世において、フリーの忍者ほど信用ならない者もない。
 ──そういえば、名前はどうするんだろう。
 城の城門を目指し歩きながら、利吉はふと考える。
 利吉はこの後、名前と会う約束をしている。新学期が始まり授業のある名前に合わせて、今回は忍術学園まで利吉が足を運ぶことになっていた。今まさに城を出て忍術学園に向かおうというのだから、利吉が自然と名前のことを思いだして考えてしまうのも仕方がないことだった。
 ──本人は当然くノ一になるつもりでいるんだろうけど、やっぱり私には名前にくノ一としての適性があるようには思えないんだよなぁ……。
 これまで幾度となく考えたことをまたしても考え、そして毎度同じ結論に辿り着く利吉である。けして身内贔屓をするわけでもなく、さりとて無暗に厳しい目を向けるでもない。ただ、現在忍者として一線で活動している利吉の目から見た客観的な評価として、名前はくノ一に不向きであると言わざるを得なかった。
 ──いっそ本人にやる気がなければ話は早かったんだけど。
 やる気がなければというのは、早い話がくノ一になる気がなければ、ということである。ほかの多くのくノたまがそうであるように、名前もまた手習い程度にくノ一教室に通っていてくれれば、その先卒業した後をあっさり利吉が娶れる。そのことについては一切の意思確認を名前にしていないものの、すでに利吉は名前が利吉以外を伴侶として選ぶことはないだろうと確信していた。
 もしも名前にくノ一になる気がなく、今から一年と数か月のちに郷里に帰るつもりだと言うのであれば、利吉はさっさと名前を娶る。すでに利吉は成人して手に職もあるのだから、名前を娶るに際して大きな障害はないだろう。名前の両親も、父親の方とは顔を合わせたことがないが、恐らくは諸手をあげて名前を嫁に出すに違いない。あの親はそういう親だろう、と利吉は確信に近い推察をしている。
 しかしいずれにせよ、名前がくノ一になる気だというのならば、畢竟、すべて夢物語でしかないのだろう。名前の将来の邪魔になるような真似だけはするなと、伝蔵からもしっかり釘を刺されている。
 ──まあいい。あと一年ちょっと我慢すればいいだけの話だし、その一年ちょっとも、何もまったくの禁欲生活を送れというわけではないのだし。
 いつの間にか利吉の思考は名前の将来のことから目先の色恋へと移っていた。ひと仕事終えたこともあり、今の利吉は常以上に浮かれている。仕事を頑張った後なのだから、名前からの「ご褒美」だって今日は期待できるだろう。
 名前との間にある恋人らしい行為といえば、今のところは抱擁までだ。しかしそれだって、すでに名前の方から利吉に抱き着いてくるところまでいっているわけで、はてさて次は何をしようか、何をさせてもらおうかと考えるだけで胸が躍って仕方がない。その辺りに関していえば、名うての若手売れっ子忍者の利吉とてそこいらの十八歳と大した違いはなかった。
 ──名前はこういうことに不慣れだし、さすがに口吸いはまだ早いか。
 そんな算段を頭の中でつけながら、しかしそんな不埒な思考はひと欠片すら表情に出さず、利吉はすたすたと歩いてゆく。
 前方から男女ふたり組が歩いてきたのはその時であった。
 ふたり組のうち、女の方が利吉に気付き、はっとした顔をする。利吉もまた、その女の顔に瞠目した。
 やってきたのは今まさに利吉が頭の中に思い描いていた相手、名前であった。
「あら、利…………こんにちは」
 一瞬名前を呼びかけて、名前は慌ててその名を呑み込み挨拶する。こんな場所にいるということは、利吉が仕事中であることを察したのだろう。誤魔化すように咳払いなどしているが、それが却って怪し気であることは言うまでもない。
「やあ」
 小さく利吉が返事を返すと、それに気付いた名前の供の男が怪訝な目で名前と利吉を交互に見遣った。服装からして、この城の忍びの者である。
「どうした」
「いえ、何でもござりません」
 外行きの声と笑顔で返事をすると、名前は浅く会釈をして男と連れ立って歩いてゆく。どういうわけなのかさっぱり分からず、利吉は暫し呆然とふたりの後ろ姿を見送った。
 忍術学園の実習か何かだろうか。しかし名前から聞いた話では、本格的な実習はもう少し後のはずである。それにこの後名前は利吉と会う約束をしているのだ。いくら何でも実習の類があれば約束など取りつけたりはしないだろう。
 今すぐにでも何がどういうわけなのかを説明してもらわなければ気が済まない。だからといって、今から追いかけていって名前を問い詰めるというわけにもいかない。何せ利吉は今、忍びの山田利吉ではないのである。いくら仕事が終わったとはいえ、城の敷地内で無茶苦茶なことをするわけにもいかない。
 結局どうすることもできないまま、利吉は釈然としない思いを抱えて城を出たのだった。

 ◆

 くだんの城内ですれ違ったのが名前であった以上、闇雲に急いで忍術学園に向かったところで名前が不在であることは明白だ。仕方がないので仕事に感けて後回しにしていた所用をいくつか片付け、ついでに名前への手土産に饅頭を購入する。今回は名前の同室者が出掛けていて不在であると聞いているから、自分の分と名前の分だけ買えばいいだろう。ついでに顔を出すであろう父・伝蔵と半助の分まで律儀に饅頭を購入し、若干銭袋が軽くなったところでようやく忍術学園に向かった。
 先に伝蔵のところに寄って、最近の忍術学園周辺の情勢やら、帰省の依頼をする。とはいえ夏に帰省したばかりの伝蔵だから、当然ながら当分帰るつもりもない。利吉もそれは分かっているから、そううるさくせっつくこともしない。半助は火薬委員会の集まりがあるとか何とかで席を外していた。
 一通りの話題が済んだところで、伝蔵はおもむろに「そういえば」と発する。
「名前のところにはもう寄ったのか」
 問われ、利吉は首を横に振った。
「いえ、これから顔を出すつもりですが」
「何が『顔を出す』だ。そっちが本来の目的だろうに」
 利吉の買ってきた饅頭を楊枝でつつき、伝蔵はケッと悪態をつく。利吉の考えていることくらいお見通しと言わんばかりの態度に、利吉も苦笑するしかない。普段の利吉であれば減らず口のひとつでも叩き返すところだが、今日はそれも呑み込んだ。今は伝蔵に聞きたいことがある。余計なことを言ってへそを曲げられでもしたら、それこそ堪ったものではない。
「ときに父上、伺いたいことがあるのですが」
 姿勢を正して利吉が切り出すと、伝蔵は眉根に寄せていた皺を伸ばし「なんだ」と返す。
「くノ一教室ではすでに実地実習が始まっているのでしょうか」
 思いがけない質問に、伝蔵は答えるより先に怪訝そうな表情をつくる。その表情から「なんでそんなことを」という伝蔵の疑問を感じ取った利吉は、
「先ほど所用で訪ねたとある城で、くノ一教室の生徒を見かけまして」
 と続けた。
 実際には所用というより仕事であり、くノ一教室の生徒というよりは名前と呼んだ方が正しい。しかしそのいずれかでも話題に上げれば、察しのいい伝蔵に利吉がどこの城からの仕事を受けていたのかバレないとも限らない。これといって疚しい仕事をしているわけでもない、バレたらバレたで特に困ることもないのだが、とはいえ無暗矢鱈に吹聴する話でもない。
 利吉の言葉に、伝蔵ははてと首を傾げた。伝蔵もくノ一教室には指導に行っているから、ある程度はくノ一教室の教育カリキュラムや、その進行度についても目を通している。たしかに上級生──特に六年生はすでに方々に潜入して経験を積んでいるが、五年生以下は今の時期はほとんどが忍術学園を拠点に演習をしているはずである。その過程で学外に出ることはあっても、何処かの城の内部に入ったり、夜になっても戻らないというようなことはそうそうない。
「人違い──は、ないな。お前に限って」
「ええ、見間違いでもありません」
 自信ありげに答える利吉に、伝蔵は胸中でそっと嘆息した。くノたまとはそう親しくしているわけでもない利吉が、はっきりと見間違いでないと言い切れるほどにちゃんと顔を覚えているくノたまなどそう何人もいない。その上、話を聞く限りは単身で何処かの城に乗り込んでいるというのだから、ユキやトモミなどの下級生ではないのだろう。そうなると、利吉が見たという生徒に当てはまりそうなくノたまはひとりしかいない。
 ──しかし名前……いや、五年生が、授業でそんな場所に行く用事などあっただろうか。
 該当者が名前に絞れたところで、よその城に名前がいたことの理由に思い当たることがあるわけではない。伝蔵はもう一度大きく首を傾げた。と、そこでふいに気付く。
「ああ、そういえば」
「えっ、父上何か思いあたることがおありなのですか」
 すかさず利吉が食いつく。伝蔵はううむと唸り、頷いた。思い当たる節がないわけではない。というより、五年生の名前が単身よその城を訪うことがあるとすれば、それ以外には理由など考えられない。
 しかし伝蔵は、敢えてその可能性を口にはしなかった。
「まあ、何か事件というわけではないだろう。どうせこの後名前のところに行くというなら、わしからではなく名前から直接聞けばよかろう」
「ええ? 何をそんな勿体ぶったことをおっしゃってるんですか」
「うるさい。わしは息子と教え子の色恋なんぞに巻き込まれたくない」
「こっちだって別に父上のことを巻き込みたいわけじゃないんですが」
「何だと!? 利吉お前、父親に向かって!」
 会話が面倒な方向に転がり始めたのを察し、利吉は素早く腰を上げる。これ以上ここにいても聞きたい答えが聞けるとも思えない。別れの挨拶もそこそこに、利吉は伝蔵の部屋を後にした。


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