瞼をやさしく透かす温度(2)

 松を送り出した名前は、さてどうしたものかと思案する。
 新学期を目前にして、すでに学園にはほとんどの生徒が帰省から戻ってきているが、下級生から上級生まで軒並み出掛けてしまうこの日ばかりは、普段は騒がしい忍術学園の中もすっかりと静まり返るのだ。まるで夏休みの静けさが一日だけふらりと戻ってきたかのようである。
 ──医務室にでも行こうか。
 先ほどまでは重かった腰を上げながら、名前は考えるともなく考える。医務室ならばきっと新野先生が詰めている。教員の中にも見回りをかねて祭りに繰り出す者はいるが、新野先生はこういう日にわざわざ生徒を当番に任ずるような人ではない。むしろ祭りで不慮の事態──有体に言えば喧嘩などをして帰ってきた者の手当をするべく、万全の準備をして控えているのが新野先生という人だった。
 普段から暇さえあれば医務室に通う習慣のある名前には、卒業までに新野先生から教わりたいことが山のようにある。しかしくノ一教室の裏方仕事で忙しいくノたま上級生は、原則として委員会活動には参加することができない決まりになっている。そのため、どうしたって普段から医務室に出入りしている保健委員会の面々のような指導を受けることはできないのが、名前──というよりもくノたまの現状だった。
 しかし今日は保健委員会だって祭りに行っているだろう。であれば、この好機を逃す手はない。
 そうと決まれば善は急げである。静まり返ったくノたま長屋を抜け、そのまま医務室の方へとすたすたと足を向ける。廊下の床板が軋む音ばかりが聞こえるような静けさに何となく落ち着かないものを感じていると、ふと前方に、見知ったふたつの顔を見つけた。外出用の小袖姿を纏ったふたりが、名前が気付いたのと同じタイミングで名前に気付く。
「あれ、苗字」「げ、苗字」
 声を揃えたのは、まったく同じ顔をしたふたりの少年──五年ろ組不破雷蔵と、同じく五年ろ組の鉢屋三郎であった。そっくりそのまま同じ顔はしていても、しかし浮かべている表情はまったく違う。いつもと変わりない柔和な笑みを浮かべる不破の隣には、さも不機嫌そうな顔の鉢屋。着物までまったく同じ柄のものを着ているというのに、その表情の差からどちらがどちらであるか見極めることはいとも容易いことだった。
「あら、不破に鉢屋。こんなところにいるなんて、ふたりも今からお祭りに行くの?」
 鉢屋の嫌そうな顔もものともせず、名前はあくまでも不破の方を向いて尋ねた。
 今名前たち三人が顔を合わせているのは、医務室にほど近い廊下である。ここから進んでゆくと医務室があり、さらにその先には正門が続いている。祭りの日にわざわざ外出をするというのだから、今まさにふたりで祭りに出掛けようというところだと考えるのは当然の思考である。
 名前の何のことない質問に、しかし鉢屋は大袈裟に顔を顰めて見せた。
「何だお前、もしかして二年連続で私と雷蔵についてくる気か?」
「こらこら三郎、そんな言い方しなくてもいいだろ?」
 鉢屋の物言いをすぐに不破がたしなめる。しかし不破の言葉には咎めるような響きはなく、それが形だけのものであることは誰の耳にも明らかだった。何せ不破は名前相手に限らず、くノたまであれば大抵同じような反応を示すこの鉢屋に、五年間も同じようなことを言い続けているのだ。いい加減その言葉の中身が虚ろになるのも仕方がない。
 鉢屋もまた、不破の言葉が本気で咎めるつもりで発されたものではないことを分かっている。だから、
「いいんだよ、雷蔵。こいつはこのくらいでいちいちへこたれたりしないんだから」
 と嫌味を付け足し、名前を見た。
 名前もまた、この手の遣り取りには慣れている。にっこりと笑うと、その笑顔を鉢屋に向け、「お褒めいただき恐悦至極です」とすらりと返す。
「はー、可愛くない。だからお局くノたまは嫌なんだ」
「だって、ねえ。鉢屋に可愛さを見せてどうするの」
 売り言葉に買い言葉──当然のこととばかりに言い返せば、今度は鉢屋の方がにやりと笑う。
「そうだな。お前の可愛さとやらは、どうせ利吉さんに全部明け渡しているんだろ」
 うっかり反撃を喰らってしまい、名前は素直に顔を顰めた。ここぞとばかりに鉢屋が笑うのがまた憎たらしい。
「……ほんっと、鉢屋ってひねくれてる」
「おっと、どうやら図星らしいな」
 鉢屋の横では不破が、いまいち事態の成り行きを読めないままにうろうろと、視線を名前と鉢屋の間を行ったり来たりさせている。そんな不破の様子を見て、名前は苦い気持ちになりながらも、鉢屋が不破に名前と利吉のことを何も話していないことを知る。一応、その辺りの線引きはしているらしい。
 だからといって名前が鉢屋に感謝などすることもないのだが、とはいえ誰彼かまわず吹聴されたいことでもない。話さないでいてくれるのならばその方がいいに決まっている。
「その分だと色々と自覚したらしいな」
 苦々し気に顔を顰めた名前に、鉢屋がにやにやと笑って言う。
「何かあったの?」
 そう尋ねる不破には、鉢屋が余計なことを言わないうちにと名前が「まあ、色々とね」と答える。それがまた面白いのか、鉢屋は一層にやにや笑いを深くした。
 鉢屋は他人の色恋に興味などみじんもない。誰と誰がくっつき離れようが、そんなことは鉢屋の人生にはまったく関係のないことだからである。とはいえ、情報の取り扱いこそを本分とする忍びの道を修めるにあたり、常日頃から情報収集をしておくことが肝要であることは理解しており、また常に実践しようという姿勢も持っていた。
 とりわけ何かにつけて反目するすることの多いくノたまの弱みを握ることは、学園内でより優位な立ち位置を保ったまま生活するのに重要なことだった。今回の場合、ただくノたまの弱みというだけでなく、相手があの利吉だというのだから、鉢屋といえど多少興味をそそられる。
 夏休み前の一件から、名前と利吉の件に関して鉢屋はすでに一枚噛んでいる。そんな経緯もあって、鉢屋は事の成り行きを面白がりながら気に掛けているのだった。
「私に感謝してもいいんだぞ。じれったく『いい子』してる苗字の、賢しらに分別ありげなところに一石投じてやったんだから」
「ああいうのをショック療法っていうんだよ。おかげで三日三晩うなされたんだから」
「三郎、君一体何したんだよ……」
「善行さ」
 不破の声にも白々しく答え、鉢屋は目を細めた。名前は不機嫌そうに眉をひそめた。
 いつも通りの遣り取りではあるものの、基本的には鉢屋との会話は不毛である。建設的な意見が出ないことは言うまでもなく、そもそも何かを得たり授けたりしようなどという意志は、会話をしている両者いずれにも皆無だ。
 相変わらずぽかんとしている不破を見て、名前はひらひらと手を振った。
「安心してよ、今年はふたりについていく気はないから」
 途端に鉢屋が口を出す。
「へえ。こんなところをひとりでぶらぶらしているのに?」
「医務室に行く途中だったんだよ。その途中にたまたま不破たちがいただけ」
「医務室って、苗字どこか悪いのかい?」
「そういうわけじゃないんだけどね。ほら、みんな出払っていれば、新野先生を独占しても誰からも文句を言われないでしょ」
「ふうん、寂しいやつ」
「余計なお世話です」
 軽口を叩き合っていると、ふいに鐘の音がカァンとひとつ、学園中に響き渡るように大きく鳴った。その音に、名前は「あ」と発する。
 授業は休みであっても、忍術学園自体は普段と変わらず回っている。区切りとなる時刻になれば鐘も鳴る。今の鐘は授業終了を告げる時間の鐘の音であった。
「ほら、もう放課後の時間になっちゃったよ。遅くなる前にね、さっさと行った行った」
 途端にぞんざいになる名前の物言いに、鉢屋が呆れたように名前を見た。
「苗字、前から言おうと思ってたんだけど、お前私たち五年生に対してだけやけに態度が悪くないか?」
「そう? 同学年なんてこんなものだと思うけれど……。大体、不破にはもう少し親切にしてるよ。ねえ、不破」
「そうなのか、雷蔵」
「うーん、まあ多少は……?」
 ふたりに問われ、不破は苦笑まじりに首肯する。
「カーッ、贔屓だ。そりゃあ別にお前になんか親切にされたいわけじゃないけど、雷蔵と私への対応に差があるのには納得ができない」
「日ごろの行いだね。文句があるのなら鉢屋も『善行』を積んでから出直してください」
「可愛くないやつめ」
 ケッ、と言わんばかりに名前を睨む鉢屋と、やはりそんな鉢屋を宥めすかす不破である。ふたりが正門の方へと歩いていくのを見送って、名前も再び先を急いだ。

 途中に思いがけず体力を消耗しながらも辿り着いた医務室であったが、結局名前は医務室に入ってすぐに長屋の自室へと引き返すことになった。
 名前の予想通り医務室には新野先生がひとりで詰めていたのだが、新学期に向けての準備なのか何なのか新野先生は絶えず忙しく働いており、とてもではないが声を掛けられるような状況ではなかったのだ。
 無論菩薩のような新野先生であるから、それでも教えてほしいことがあると言えば付き合ってくれるだろうとは思う。しかし今回は授業や課題の一環ではない。あくまで名前の個人的な用事に、新野先生を付き合わせて仕事の邪魔をする気にはなれなかった。
 ──そんなわけで、結局医務室では本を何冊か借り、名前はすごすごと長屋の自室に戻ることになったのだった。
 学内は相変わらず、恐ろしいほどに静かである。夏休みのはじめ、ほとんどの生徒が学園から郷里へと戻った頃もたしかに静かではあったのだが、その頃にはまだ教職員が多く残っていた。蝉の音もうるさく、今よりはもっと活気──生き物の気配が濃厚だったように思う。今はもっと、寂しい静けさが満ちている。
 ──利吉さんは今頃どうされているんだろう。
 ひとりきりの部屋に戻ると、ふとそんな思いが胸を過ぎった。この夏の間はそれなりに一緒にいる時間も長かった利吉と名前だが、ここから先は当然そういうわけにはいかない。利吉も多少の努力はするつもりでいるが、それでも仕事が第一優先であることには変わりない。何週間も、もしかすると何か月も音沙汰がないということだって十分に在りうることだった。
 ──そのことを苦とは思わないけど、寂しくないと言えばそれは嘘になる。
 文机について書物を開いてみたところで、頭の中を占めるのは、やはり利吉のことである。
 利吉が忍務に就いていることまでは分かっても、何処でどのような仕事をしているかまでは名前には知ることはできない。だから、思い、考えるしかない。今頃どうしているか。誰といて、何をしているか。思考を巡らせることだけが、何も聞くことを許されない名前に許された、たった一つの行為であった。
 唐突に、松から聞いた祭りにまつわる噂話を思い出す。利吉が一緒でなくとも神社のお詣りには御利益があるという、あの噂。
 ──だけど、わたしがひとりで行くわけにもいかないし。まして、不破や鉢屋と一緒にも行くつもりはないのだし。
 ぐるぐると取り留めもなく考えて、思考は行き着く先も見失う。落ち込むことは何もなくても、ふつふつと勝手に沸き上がる靄(もや)までは名前にはどうすることもできない。
 せめてそんな感情を少しでも散らそうと思い、ことさら大きな溜息をつくと、ふいに部屋の前の廊下が軋む音がした。その音に、はっとする。
 くノたま長屋は原則として忍たまの立ち入りを禁止しているから、廊下を軋ませるのは身軽なくノたまの女子だけである。しかし今の音は、妙齢の女子が立てる音よりも重い、ギィと重く低い音だった。
 名前の視線が、廊下に面した障子に釘付けになる。やがてゆっくりと開いた障子の向こうに立っていたのは、つい最前まで名前の思考のほとんどを占めていた人物──誰あろう、山田利吉その人であった。
「あんまり溜息をつくと幸せが逃げていくよ」
 まるで今の今までしていた会話を続けるような、そんな気さくな調子で声を掛け入室してくる利吉に、名前は目を見開いて茫然とする。
「り、利吉さん」
「やあ、お待たせ」
「お待たせって、お仕事は」
「急いで片付けてきた。久し振りに無理したよ」
 そう言う割には涼しい顔をしている。何だか狐狸の類にでも化かされているような気分になって、名前はただ茫然と利吉を見つめていた。
 開いた障子からの隙間から見える空の色は、着々と茜色に近づいている。祭りは昼前から始まり、宵が深まる前に終わるのが毎年のことだった。この日の昼過ぎになっても利吉から何の連絡もなかった時点で、名前は利吉と祭りに行きたいという世の恋人たちにはささやかで、しかし名前にとっては途方もなく贅沢な願いは、叶わないものだと思い諦めていた。だからこそ、何の準備もせずにこうして部屋にいる。
 まさか利吉が、こうして迎えにきてくれるとは思わなかった──好きなひとと祭りに行きたいという子どものような思いを、律儀に聞き入れてくれるとは思わなかったのだ。
「名前がほかの誰かと祭りに行ってしまわないうちにと思ったんだけど、間に合ってよかったよ。今年も鉢屋くんと不破くんに先を越されたらどうしようかと思った」
 そう言って笑う利吉に、名前はぼうっと視線を向けている。名前の目から見ても、そこにいて笑っている利吉は紛れもなく本物の利吉だった。化かされてなどいない、正真正銘の山田利吉がそこにいる。
 ──絶対来られないだろうって思ってたのに。
 思っていたから、期待しないようにしていた。祭りに行きたいなんて一言も口にせず、笑顔で松を、不破と鉢屋を送り出した。
「鉢屋と不破ならさっきふたりで出掛けていきました」
 依然として夢見心地のままで名前が言うと、利吉が少しだけ驚いたように目を見開いた。
「出掛けてって、一緒に行かなかったのかい?」
「まあ……鉢屋に嫌がられますから」
 へらりと笑って名前が答えた。利吉もまた、その答えに眉を下げる。いずれにせよ、鉢屋たちと一緒に行かなかったことでこうしてすれ違いにならず利吉に会えたのだ。学園に残っている理由など、今はどうだっていい話だった。
 利吉がそっと名前に手を伸ばす。利吉のあたたかな手のひらが、開いたままの書物に掛けられた名前の手に、遠慮がちに触れた。名前よりも少しだけひやりとしたその温度を感じ、名前はようやく利吉が今ここにいるということを現実のものとして受け容れ始める。
「それで、名前」
 利吉が微笑み、切り出す。
「はい」
「私と一緒に祭りに行ってくれる?」
 その問いの答えは決まっている。にっこりと笑い返した名前は、
「もちろんです」
 はっきりと、そう答えた。


prev - index - next
- ナノ -