瞼をやさしく透かす温度(1)

 利吉が仕事に本格的に復帰し、また名前の新学期が始まるまで残り数日となったある日のこと。その日利吉は、仕事の中間報告を終えると、その足で名前のアルバイト先へとやってきていた。昼過ぎでアルバイトの終わる名前と、短い時間ながらも逢瀬を楽しむためである。
「夏祭り?」
 出された砕き氷入りの抹茶をすすり、利吉が問う。問われた名前はええ、と頷いた。
 名前のアルバイトも終わり、店先の床几でふたり並んでお茶をしているところである。ふたりとも注文はしているとはいえ、本来であらば店先に長居するのもしのびなく思うところだ。しかし店主は利吉と名前を応援してくれているのか、頻りに「ゆっくりしていってくれよ」と声をかける。こうして店先でのんびりすることができるのも、場所を快く貸してくれる店主の懐のおかげであった。
 ともあれ、夏祭りである。名前が顎に手をあて、にこにこと説明を始める。
「毎年、学園からひと山先で大きなお祭りがあるんです。どういう起源でとか何のお祭りとか、そういう詳しいことはよく分からないんですけど、夏休みの終わり頃ということもあって、新学期のため早めに忍術学園に戻ってきた生徒たちが、こぞって見に行くんですよ。山車が出て屋台とかも並んで、この辺りでは一番のお祭りですからその日だけは外出許可を下級生でも取りやすくって。まあ、先生方も見回り半分楽しみ半分で顔を出されているというから甘くなるというのもありますが」
 歌うように話す名前に、利吉はへえ、と声を洩らす。
「そうなんだ。それは知らなかった」
「利吉さんはあちこち行かれますからね。この辺りのことは知らなくても無理ないですよ」
「そうやって言われると悔しいものがあるけど……」
「負けず嫌いでいらっしゃる」
 くすくすと笑われ、利吉はばつが悪そうにそっぽを向いた。
 父の勤め先が忍術学園というだけで、利吉自身は忍術学園に所縁があるわけではない。故郷も遠く離れているので、仕事とは無縁の祭事や催しについてはどうしても知識が薄くなりがちだった。
 とはいえ、利吉にも男として、年上として、そして何より名前の恋人としてのプライドというものがある。四つも年下の名前に「知らなくても無理ないですよ」などと言われて、それもそうかとへらへらとしているはずもない。
「それで?」
 利吉が短く先を促すと、
「え?」
 と、名前はきょとんとした顔をして利吉を見た。手にした茶碗の中で氷が小さく崩れて揺れる。
「祭りの話を私にするってことは、名前はその祭りに私と一緒に行きたいと思っている──そう思っていいのかな」
 年ごろの娘であれば好きな男とそうした場所に出掛けていきたいと思うのも自然なことである。斯くいう利吉も、これまで少なくない人数にそうしたお供を頼まれたことがあった。もちろん仕事で同伴してほしいというわけではなく、個人的に一緒に出掛けたいという類の頼みである。
 しかし仕事ではない以上一銭にもならない上、多忙な利吉がそんなことに割く時間などあるはずもない。ゆえにこれまではそうした頼みは当たり前のように断り続けてきたのだが、とはいえ今回は付き合い始めたばかりの恋人からのお願いである。検討する余地くらいはある。
 しかし名前は変わらずきょとんとした顔のまま、
「いえ。全然そういうつもりではなかったんですけど」
 と、利吉の予想を裏切ってゆく。拍子抜けしたのは利吉の方だった。思わず「えっ、そうなの?」と問い直す。が、名前の返事は変わらない。
「はい。だって利吉さんお仕事で忙しいでしょうし」
 聞き分けのいいその答えに、却って利吉はどうにも複雑な心境になる。利吉にとっては仕事が第一であり、また名前にとっても忍術学園での学業が最優先であることは言うまでもない。互いにそれを理解したうえで節度ある交際を、というのは、伝蔵に言われるまでもなく心掛けなければならないことだ。
 しかし、ここまであっさりと聞き分けられてしまうと、利吉としてはなんとなく物足りないような、もどかしいようなそんな気分になる。我儘を言われたいわけではなくても、まったく執着されていないのは気に入らない──そんなふたつの心境が、利吉の中で火花を散らしてせめぎ合っていた。
 利吉はちらと名前の横顔を盗み見る。茶碗に注がれた視線はぼんやりとしていて、これといって利吉に気を遣ったり、虚勢を張ったりしているようにも見えない。間違いなく、名前は「仕事ならば仕方がない」と思っているのだろうと、利吉の目にはそう映った。
 ──くノたまも五年生ともなれば、そのくらいの分別はあるということか。
 ほんの一瞬だけ寂しいような気分を感じつつ、しかしそれは名前に対しても無礼なことであると、すぐさま思考を振り払う。そもそも付き合い始めの今だからこそ利吉もそんなことを思うのであって、長い目で見ればそういった分別を最初から身に着けてくれているに越したことはない。恋人らしい期待には沿えないことの方が多い仕事であることを、利吉は父・伝蔵の背から大いに学んでいた。
「でも、もしも一緒に行けるのであれば、一緒に行きたいなぁとは、思っています」
 ぽつりと名前が発する。
「こうやってちょっとだけでも、ご都合つけば──ですけど」
 視線を逸らしたままなのは、こんな言葉を口にするだけでも十分に恥ずかしいからなのだろう。先ほど発した他ならぬ自分の言葉に、何とも情けない本音を付け足すようなものだ。その恥ずかしいと思う気持ちは、利吉にも分からなくはない。
「ちなみにだけど、私が行けないと言ったら名前はどうするの?」
 試しに利吉が尋ねてみると、名前は思案するように視線を宙へと遣った。
「ええと……ひとりで行っても仕方がないので、行かないつもりですけれども」
「ということは、相手さえいれば行くということ?」
「そうですね、昨年は不破と鉢屋がたまたま揃って祭りに行こうというところに出くわしたので、それで一緒に行きました。まあ鉢屋にはものすごく嫌がられましたけど……」
 名前が苦笑する。不破と鉢屋が揃って行動することが多いことは利吉も知っている。そこに普段から何かと敵対することの多いくノたまの名前が加わるとなれば、温厚な不破はともかく、鉢屋の方が嫌がりそうだというのは利吉にも想像がついた。そうでなくとも鉢屋はくノたまと折り合いが悪く、利吉が知る限りでも一度、名前を惑う思考のどん底に突き落としている。
 ──鉢屋くん、か。
 名前の口からたびたび上る名であるという意味では、たとえ恋愛対象としてではなくとも、利吉にとって鉢屋が気にかかる存在であることは事実である。この呑気な娘を心底悩ませることができるという時点で、鉢屋は名前にとっても並の忍たまと同じではない。
 また、忍たまでありながらも話を聞く限り名前とは良好な関係を築いていそうな不破、それに尾浜だって利吉には気にかかる存在ではある──早い話が、ちょっとでも名前が挙がろうものならば、利吉にとってはそれ即ち危険因子となりかねない存在なのだ。常に名前のそばにいられるわけではない利吉にとってみれば、そのくらいまで危機意識を高めていないと不測の事態に対応することができなくなる。
「ふうん……、なるほど」
 諸々の情報の精査、そして心情の総括を終え、利吉は一言そう発した。
「なるほどって何ですか」
「なるほどはなるほどだよ」
 と、答えにならない答えを返し、それから利吉は表情を引き締めた。
「まあ、正直一緒に行けると約束することはできないかな……。この間も話したけれど、ちょっと仕事が立て込んでるから」
「そうですよね」
 あからさまにしょげることもなく、名前は素直に首肯した。希望を一応話してみたものの、その希望を聞き入れてもらえるとは端から思っていないのだろう。それはけして諦念などではなく、忍びという仕事の端っこくらいは知り及んでいる立場の人間として当然の反応である。かつて父が仕事のためにあまり家に帰らず、母とふたり暮らしのような幼少期を過ごしたこともある利吉には覚えのある表情であり、声だった。利吉とて十四の名前が、肉親でもない恋人の利吉に、あの頃の利吉と同じような感情を抱いているとは思わない。それでもやはり、重なるものはある。
 胸の隅っこがかすかに痛んだような気がして、小さく顔をしかめた利吉に気付かず、名前は茶碗を床几に置くと、ぐっと力こぶを作って見せた。
「まあ、私もくノたまですから。忍びのお仕事の何たるかは、端っこくらいは理解しているつもりです。だから私のことはお気になさらず、利吉さんはお仕事頑張ってください」
「──そう言ってもらえると助かるよ」
「いえいえ、山田先生に偉そうなことを言った手前、甘えてもおれませんよ」
「そうか。それじゃあ、甘えず頑張る名前には『ご褒美』をあげよう」
 そう言って利吉は、自分も茶碗をわきに置くと両腕を大きく名前の方に開いた。
「利吉さん?」
「そろそろ夕刻だし、今は人通りもないから」
 その言葉に、名前がかっと顔を赤くした。すぐさま上半身をのけ反らせようとするが、それも一拍遅い。利吉から距離をとるより先に、利吉の腕が名前をしっかりと捕まえるように抱きしめた。
「はい、ご褒美」
 名前の耳元で利吉が声をわざと震わせる。普段は体格差のある名前と利吉だが、今は床几に座っているので目線の高さにもそう大差はない。首を縮こまらせて顔を俯けている名前の耳元に利吉の口があるので、利吉が言葉を発するたびにどうしても名前の背をぞくりとしてものが走る。
「こ、これはどちらかというと利吉さんへのご褒美なのでは……」
「え? 名前は嬉しくないの?」
「そういうわけではありませんけど……」
 もぞもぞと身をよじるようにしていると、ようやく利吉の腕の中から解放された。名前はほっと一息つく。
 利吉の言う「ご褒美」は、利吉にとってはほんの些細な触れあいであっても、名前にとっては一から十まですべてが真新しい経験である。ついこの間手を繋いだばかりだというのに、利吉のペースについていくのは名前にはまったく難しい。目が回るような心地に襲われながら、ぱたぱたと手で顔を扇ぎ冷ました。その様子を利吉がにこにこしながら見守っている。
「とにかく」
 まだ照れ冷めやらぬ表情で名前は言う。
「そういうわけですから。利吉さんはどうぞお仕事に励んでください」
「ああ、そうさせてもらうよ」
 名前とは打って変わって余裕たっぷりな利吉の返事に、名前はぷいと視線を逸らした。

 ◆

 祭り当日、名前は部屋で頬をぷうと膨らませた同室の松に詰め寄られていた。名前に遅れること一週間、つい昨日忍術学園に戻ってきたばかりの松は、手土産の菓子と新しい外出用の小袖を携え戻ってきた。表情は明るく、もとから整った顔が一層華やいで見える。
 その松は、持参した新しい小袖に袖を通して、先ほどから頻りに同じ言葉を繰り返している。
「先輩、本当に行かれないんですか? 年に一度のお祭りですよ? とっても楽しいこと間違いなしですよ?」
 せがむように言われても、名前は文机についたまま腰を上げようともしない。ただやんわりと笑って、松に手を振るばかりである。取り付く島もないよりも余程手ごわいその対応に、松はふうと溜息を吐いた。
「先輩は本当に、時々驚くほどに頑固でいらっしゃる」
「頑固なのは松でしょう。行かないって言ってるんだから行かないの。何度誘われたって同じです」
「でも、折角利吉さんと恋仲になれたばかりなんですから……」
 今度は一転してしょんぼりとする松に、名前は苦笑する。これもひとつの哀車の術なのだろうか──そうだとしたら、あまりにも分かりやすい。少なくともくノたまとして一学年先輩の名前に通用するレベルではなかった。
 松がここまで名前を祭りに誘いだそうとしているのには訳がある。
 名前は利吉に話さなかったのだが、実はくノたまたちの中では祭りにまつわるある噂がまことしやかに流れていた。
 何でも祭りの中心となっている神社で恋人との将来を願うと、その恋人と一生を添い遂げることができるというのだ。日頃、非科学的な事象を信じない忍びの教育を受けているとはいえ、くノ一教室の生徒たちは皆年ごろの娘である。そういう噂やまじないには敏感かつ目がなかった。
 その神社で願うのは、できれば相手の男とふたりであるのが望ましいとされている。しかし必ずしも男女一組でなければならないということはなく、相手さえいればひとりでのお詣りでもいいとも言われている。随分と寛大で適当な神さまもいたものだ、と名前などは思う。もちろんすべてが噂話なので、そんな話はいくらでも都合よく改竄することはできるのだろう。しかしそこはそこ、あくまでも娘たちの暇つぶしのような噂話である。そこまで細かなことは誰も確かめようとはしない。
 ともかく、松は名前と利吉が結ばれたことを耳にして、それで祭りに誘っているのだった。放っておくとこの手の話からどんどん遠ざかる名前に、そうした娘らしい話を持ち込むのは自分だという使命感すら持っている。ただそこに問題があるとするのなら、名前本人にはまったくその気がないということだけだった。
「松が私の分まで楽しんできてちょうだい。ほらほら、早くしないと迎えが来てしまうよ」
 名前に言われ、松ははっとした顔をする。そしてようやく、名前に詰め寄るのを諦めて障子のふちに手を掛けた。
「……本当は私が先輩のお供をできたらよかったのですけど」
「いいから松は未来の旦那様と仲良くしておいで」
 名前の言葉に、松がぽっと頬を赤らめた。この休みの間に何度か許嫁と顔を合わせていたらしい松は、忍術学園に戻った今日も、こうしてその許嫁と祭りに行く約束をしているらしい。名前のことを気にするのは、自分にだいぶ余裕ができたからでもある。
「それでは行って参りますけども……そうだ、お土産を何か買ってきますね」
「本当に気なんか遣わなくていいったら」
「それでは行ってきます」
「はいはい、行ってらっしゃい」
 上機嫌の松を何とか送り出し、名前はふうと息を吐いた。


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