変身の朝は晴天

 そのまま実家に二泊滞在したのち、三日目の昼、利吉はようやく山を下りた。
 山を下りる際、あまりにも家に戻らない伝蔵に痺れを切らした母が自分も下山すると言ってきかず、押して引いてのひと悶着あったりもしたのだが──それを何とか宥めすかし、母を振り切るように急いで山を下りたのが昼過ぎ頃のことである。そうして、へとへとになった利吉がようよう平野に戻ったころには、すっかり日が暮れてしまっていた。
 夜の移動自体は忍びである利吉にとっては何の障害にもならない。とはいえ母を説得してから急ぎ山を下りた疲労感はたしかに感じている。
 幸い次の仕事までにはまだ少しばかり猶予がある。今日のところはひとまず、手近な旅籠で休むことにした。
 街道沿いにいくつか建てられた旅籠の中から、それなりに手入れの行き届いていそうな小奇麗な宿を選び、急ぎ部屋をとった。夏を目前にしながらも、まだまだ旅にはうってつけの季節である。そのためか、宿もほとんどの部屋が埋まっていた。最後の一室に滑り込み、さっさと部屋に引き上げる。
 通された部屋で食事を済ませると、利吉はようやく一息ついた。開け放した窓からは生ぬるい風が時折吹き込む。その風の温度とにおいに、利吉は自分が本来あるべき場所に帰ってきたような、そんな安堵感を覚えた。
 利吉にとって、生まれ育った氷ノ山の生家は何の憂いも不安もなく心を落ち着けることのできる、数少ない場所のひとつである。ほとんど人の手の入っていない自然環境こそ過酷ではあるものの、生家にいさえすればそうそう命を狙われる危険もない。山に不慣れな者には厳しく、それでいて山を知る住民たちにとっては住まうことが困難な程の土地ではない。
 とはいえ、利吉が山を下りてからもう数年経つ。町の人間となった身としては、すでに平野での生活こそが彼の生活の主軸となっていた。
 たとえ常に刺客に警戒を払っていなければならない生活だとしても、身一つでどこにでも行ける身軽さや、何より常に仕事を抱えて忙しく過ごす充実感──それらは利吉の自立心を大いに満足させる。まだまだ若手であり、忍びとして最終的に行き着くところまでもを明確にイメージすることはないが、少なくとも伝蔵のような忍びを目指してこの道に進んだ利吉にとって、今の生活は何不自由ない満ち足りたものであると言えた。
 ──別に安定を求めているわけでもないし。
 そんなことを思いながら、窓辺に寄り掛かって外の風景を見るともなく眺める。女将から出された酒には手をつけていない。埃ひとつない窓の桟に肘をかけると、何となくうらぶれた気分になってくる。
 窓の外には街道が伸びているが、すでにとっぷりと陽は暮れていた。見るものがあるわけでもない。特に何か目立つものがあるわけでもなく、ただ通りのわきに建てられたここと同じような旅籠や飯屋から、小さな灯りがぽつぽつと洩れるのが目に入る程度だ。その心もとない灯りを見遣り、利吉は溜息をつく。
 ぼんやりと何を考えるでもなく思考を流していると、ふと、母から聞いた「ご近所」の娘のことを思い出した。
 名前という名前の昔馴染み。未だ思い出すこともできていない彼女のことを、ここ数日、利吉は利吉なりに暇さえあれば記憶の中から復元しようと試みていた。しかし元々くノたまとはあまり接点のない利吉である。くノたまの顔を思い出そうとしてみたところで、ユキやトモミのように一年は組とも縁がある、それなりに目立つ顔くらいしか思い出すことができなかった。それより上級生となると、名前はもちろん顔だって誰ひとり思い出せないような有様だ。
 ──逆に五年生という方をとっかかりにしてみるか。
 そう思って、今度は忍たまの五年生の顔を思い出してみる。こちらは顔も名前も思い出せるものの、やはり接点がそうあるわけではなかった。言葉を交わしたことはあっても、個人的な会話をしたことはほとんどない。だからやはり、これもまた手詰まりなのだった。
 溜息をひとつ吐き、利吉は窓辺から体を離すと床に敷いた布団にごろりと転がった。灯りは消すが、枕元に置いた忍び刀にはいつでも手が届くように用意がある。もはや習い性のようなものだから、考えるまでもなくそういう配置になってしまう。
 布団に寝そべると、頭の後ろで腕を組み、引き続き利吉は名前のことを考えた。
 顔を思い出せないとなっては、思考をする上でも何かと不便である。仕方がないので名前から得た印象だけで、勝手に頭の中に想像上の「苗字名前」を創り上げることにした。へのへのもへじよりは幾らかましな娘を創り上げると、その苗字名前に対し、一体どう声を掛けたものやら考える。
 母からの言いつけである以上、利吉に名前を訪ねない、無視するという選択肢は有り得ない。普段から親不孝を続けている以上、時々の頼み事くらいは聞いておかなければ後が怖い。
 ──やはり最初は「久し振り」からだろうか。
 実際、久し振りには違いない。むしろ最後に会ったのがいつだったのか覚えていないほどなのだから、それ以外に導入などないと言ってもいいだろう。自分が相手の事を全く覚えていない状態で白々しく挨拶するのもまったく抵抗がないわけではないのだが、とはいえ馬鹿正直に「君のことは母に聞くまで忘れていた」などと言う方が余程ひどい。忍びなのだから、そのような気まずい事実は隠蔽して、淡々と再会を喜ぶふりをするくらいはした方がいいだろう。利吉はそう判断した。
 ごろりと寝返りを打ち、利吉は嘆息する。考えれば考えるほど厄介なことを命じつけられたものだと、事の次第に改めてげんなりした。

 翌日は晴天だった。街道沿いで、先行きを急ぐものが多く寝泊まりする旅籠の朝は早い。
 例にもれず利吉も早くに旅籠を出ると、その足でまっすぐに忍術学園に向かうことにした。
 初夏の朝の空気はよく澄んでいて心地よい。夜の間にしっとりと湿った空気が大気中の砂塵を地に落としているためだ。風の流れが山からおりてきているのか、平野であってもどことなく緑のにおいが漂っている。
 利吉が忍術学園に向かっている一番の理由は、実家で母から預かってきた清潔な着替えを父である伝蔵に届けることだった。名前の様子を確認しに行くことも忘れてはいないが、それはあくまでもおまけに過ぎない。
 一刻ほど歩き続け、目的の忍術学園に着いた。
「あー、おはようございます、利吉さん」
「や、おはよう。小松田くん」
 門前で掃き掃除をしていた小松田から受け取った入門票に、常のとおり記入する。入門票を小松田の手に返すと、利吉はそのまままっすぐ職員室に向かって歩いていった。
 ちょうど授業が終わったところだったのか、学園内には子どもたちの楽し気な声がふわふわと満ちている。小さく鼻をすすると風に乗ってうっすらと火薬のにおいが漂ってくるのが分かった。
 ──授業で火器を使ったのか。となると、父上はまだ鍛錬場の方にいるかもな。
 伝蔵が火縄銃の名手であることはよく知られている。上級生向けのより実践的な授業であっても、火器を用いる授業となれば伝蔵が担当することはけして珍しくなかった。
 しかしそうなると、利吉の向かう先である職員室には伝蔵は不在ということになる。出入り口の門から向かうとなると、職員室と鍛錬場はまったくの反対方向にあるため、ここから伝蔵がいるかどうかも分からない鍛錬場に向かうのも面倒なことのように思えた。行って不在となると、無駄足を踏まされた感が否めない。
 ──ひとまず職員室に行くか。そこにいなければ、父上が戻ってくるまで待たせてもらえばいいだけだ。
 逡巡ののち素早く算段をつけ、再び職員室に向かって足を向ける。と、利吉が一歩足を踏み出したちょうどその先、踏み出した足のつま先にころりと何かが当たった。
 視線をつま先に向ける。質素なつくりの毬がひとつ、ころころと地面の上で小さく揺れていた。どこからか飛んできたものらしい。
 ──下級生の忍たまが遊んでいたものかな。
 利吉は以前、乱太郎たちと蹴鞠をして遊んだこともある。その時のことを思い出しながらおもむろに毬を拾い上げ、利吉は周囲に視線を配った。直後、前方から桃色の忍び装束の娘がひとり、毬が跳ねるようにぴょこぴょこと駆けてくるのが見えた。
「すみませーん! その毬、わたしたちのです」
 桃色装束の娘がにこにこと声を掛ける。まったく忍ぶ気のなさそうな派手な色の制服は、利吉も何度も見たことがあるくノ一教室の制服だった。晴天の青との対比のためか、今日は一層鮮やかに目に映る。
 利吉は毬を投げ返すこともなく、その娘が目の前までやってくるのを待っていた。やがて利吉の目の前までやってきたその娘は顎を上げ、随分上にある利吉の目と視線を合わせると、改めてにっこりと笑った。
「その毬、わたしたちのです。拾ってくださりありがとうございます」
 鈴の鳴るような声音だった。その声を耳にした途端、利吉の脳裏にちりりと何か、微かな稲妻のようなものが走る。まるで脳の底を引っ掻いたようなそんな微かな違和感に、利吉は一瞬眩しそうに目を細めた。
 ──何だ、これ。
 稲妻に追随するようにして、利吉の脳裏にふわりと浮かんだ色は──緑と茶色。その中に点在するように白や黄色や青がぽつりぽつりと滲んでいる。利吉はその色彩に覚えがあった。
 故郷氷ノ山で幼い日を過ごした、利吉の記憶の中にある風景──それは利吉にとっての原風景のようなものだ。
 一瞬、その心に浮かんだ風景に目を奪われ、呆然とした。故郷に帰省することはたびたびあれど、もう長らく、そんな風景を意識して眺めた記憶はない。忙しい日々のただ中にあっては、記憶の中の風景を思い出すことすらほとんどなかった。
 そんな記憶の風景を、なぜ今、唐突に。
 困惑する利吉の意識を呼び戻したのは、先ほどの娘の控えめな声であった。
「あの、毬を──」
「──名前」
 何を考えたわけでもない。ただ思わず、名前を呼んだ。
 確証があるわけではない。名前という名前がこの娘のものであるのかどうか、利吉には判断する術がない。何せ利吉は名前という娘の顔すら覚えていないのだ。目の前の彼女が名前かどうかなど、到底分かるはずもない。
 けれど利吉には何となく、彼女が名前であるような──そんな気がした。
 ささやかな風が利吉と、そして娘の髪をふわりと撫で揺らす。利吉に名前を呼ばれた目の前の娘は、一瞬ぽかんとした顔をして利吉を見た。茶色い瞳が利吉を覗き込むように見開かれている。
 やがて利吉の声に応えるかのように、娘の表情はゆっくりと笑顔に変わった。
「お久し振りです、利吉さん」
 娘──名前が、嬉しそうに笑った。

 苗字名前は忍術学園くノ一教室に所属する十四歳の娘である。年の割には落ち着いており、ゆったりとした雰囲気を纏っている。利吉から返された毬を胸に抱く様は、蹴鞠を楽しむ子どもというよりむしろ、子どもたちの面倒を見る良き姉といったおっとりとした様子であった。
 利吉の記憶の中に在る名前の姿は、まだほんの子どもである。今目の前にいるゆったりとした娘とは似ても似つかない。しかし目の前にいる名前の表情をよくよく探れば、目許や口もとなど顔のそこかしこに、たしかに幼子のころの面影を色濃く残していた。
 そうだと思って見てみれば、この娘はたしかに昔、利吉たちの後ろをついて回っていたあの名前である。今の今まで忘れていたことが嘘だったかのように、利吉の脳裏に古い思い出が次々と蘇りつつあった。それはまるで湧水がとめどなくあふれるように、こんこんと溢れ出しては利吉の胸を浸してゆく。
 ──何年間も忘れていたのが嘘のようだな。
 自分の記憶と感覚の曖昧さに苦笑して、利吉はそっと息を漏らした。
 立ち話も何なので、ひとまずすぐそばの木陰に落ち着くことにした。本当は職員室に向かうはずだった利吉だが、それは後回しでもいいことだ。どのみち名前を訪ねることも今回の忍術学園来訪の目的のひとつ。順番を少し入れ替えるくらい大した問題ではなかった。
「それにしても、本当にお久し振りです。お元気そうで何よりです」
 名前は心底嬉しそうな表情を満面に笑う。
「実はわたし、入学したころからずっと、一体いつになったら利吉さんに気付いていただけるのだろうと、密かにわくわくしていたんですよ。このまま卒業まで気付かれずに過ごせたら面白かったのですけど、ついに気付かれてしまいましたね」
 悪びれた様子もなくいたずらっぽく笑う名前は、なるほどくノたまらしい性格をしている。利吉は内心苦笑した。
「君も人が悪いな。知っていたなら声をかけてくれればいいものを」
「何をおっしゃるんです。だってさも昔馴染みのように話しかけて『君のことなど知らない』なんて言われたら、わたしすっごく恥ずかしいやつじゃないですか。とんだ赤っ恥ですよ」
 名前の言い分に、それもそうだと納得する。現に利吉は母から話を聞くまで、この昔馴染みの娘のことをすっかり記憶から失っていたのだ。たとえ名前の方から気を利かせて話しかけていたとて、これまでの利吉であれば思い出せずにそっけない対応をしてしまっただろうことは想像に難くない。
「それに、ただでさえ利吉さんは忙しくしていらっしゃるし……。それだったらいっそ、待ちの姿勢でじっくりいこうと思って」
「君ねえ……」
 あっけらかんと笑われて、利吉は今度ははっきりと苦笑した。
 たしかに自分の性格を思えば、話しかけられたところで適当な対応をしてしまうこともあるだろう。相手が年ごろの娘とくれば、利吉への下心まじりの声掛けだと思ってもおかしくはない。それでもやはり、話しかけてくれたらと思わずにはいられなかった。
 と、自分の不義理を棚に上げて利吉が苦笑していると、
「せんぱぁい」と、妙に間延びした子どもの声が何処からともなく聞こえてくる。程なくして名前と同じ桃色の忍び装束の娘が、息を切らせながらひとりぱたぱたと駆けてきた。見たところ、名前よりもいくらか幼いその娘は、木陰で座り込んで話をしている利吉と名前を見留めると、ほんの一瞬足を止めて、それから遠慮がちにおずおずと近づいてきた。
「名前先輩、どこまで毬を探しに行かれたのかと思ったら、こんなところで──あら、あなたは山田先生の息子さんの」
 名前の後輩と思しきくノたまの娘が、そこでようやく利吉に目を留めた。名前とふたりで並んでいるのだから利吉に気が付いていなかったはずはないのだが、利吉もその不自然さには敢えて触れず、
「やあ、こんにちは」
 と、いたって爽やかに挨拶を返す。くノたまの娘が、少しだけ怪訝な顔をしたまま小さく会釈で答えた。
「名前先輩と、それから山田利吉さんともあろう方がどうされたんですか、こんなところで……」
「たまたま通りかかった利吉さんが、追っていた毬を拾ってくださっていたのよ」
 利吉に代わって名前が答える。それから胸に抱えていた毬を彼女に手渡すと、
「ほら、わたしはもう少しここで利吉さんとお話をしてから戻るから、あなたは毬を持って先にみんなのところへ戻っていてちょうだいな」
 と、やんわり笑った。くノたまの娘が「おや」というように目を細める。身の丈からしてまだ下級生のようだが、どうやら思っていることが素直に表情に出てしまうようなたちらしい。修練不足である。
「先輩は一緒に戻られないのですか? その、私と一緒には」
「ええ、私はもう少ししたら戻ります」
「そうですか……。折角、蹴鞠にお誘いしたのに……」
 そう言ってぷっと頬を膨らませた彼女は、それでもそれ以上駄々を捏ねることもなく、渋々と毬を抱えて走り去っていった。その後ろ姿を目で追いながら利吉はひそかに口元をゆがめる。
 先輩である名前の手前何も言わなかったのだろうが、妙齢の女子と自分のような男──すなわち異性からそこそこに目を惹く男がふたりきりでいて、周囲からどのような勘違いをされるかなど想像に難くない。毬を持ち帰ったあのくノたまが仲間内でどのような話を吹聴するのか、利吉には今後のことが手に取るように理解できた。名前がそのことを察しているのかは分からないが、自分でああしてあしらったからには、自分で噂を収束させる自信があるのだろう。仲間内でのことを利吉がとやかく言うのも野暮である。名前が何も言いださない以上、利吉はそのことについてコメントするのは差し控えることにした。代わりに、別のことを考える。
 ──五年生だと聞いたが、後輩と蹴鞠をしたりするのか。
 おっとりとした名前の風貌からはそうと見えない一面を見たような気がして、利吉は少しだけ意外な心持になる。慣れた様子で後輩をあしらう名前の堂々とした様子からは、慕われることへの照れのようなものは少しも見られなかった。ああいうことは珍しくないのだろう。
「後輩と蹴鞠をしていたのか」
 まだ視線を後輩の後ろ姿に送っていた名前に尋ねる。名前は何故か少しだけ含羞み、それから頬を染めて頷いた。
「実は。というのも、どうにも下級生だけだと外で遊ぶのに人数が足らないみたいで、それで私に声を掛けるんだと思うんですけど」
「くノ一教室は下級生の方が多いんじゃないのか」
 忍術学園は男女問わず、基本的には学年が上がるほど一学年あたりの人数が減る仕組みになっている。それは単純に、学年が上がるにつれ厳しくなる授業内容についてこられなくなり脱落するものが多いというだけではなく、家庭の事情でやむを得ず退学しなければならないものも多いからだ。
 くノ一教室の場合、もともとが行儀見習いで入学するものが多い分、卒業にこだわらずに適当なところで退学を決めるものも少なくない。忍たまと比べて家の事情──嫁入りで退学するものも多く、その結果、くノ一教室の学年別生徒人数の比率は上級生が極端に少ない構成になっていた。
「たしかに下級生の方が人数は多いんですけど」名前はまた、恥ずかしそうに歯を見せて笑う。「でも蹴鞠をするような子は少ないんですよ。もっとお上品な遊びをする子の方が多くて」
「ああ、なるほどね」
 名前の言わんとするところを理解し、利吉も頷いた。
 早い話が、行儀見習いでくノ一教室に入学したものの中には、男子の遊びである蹴鞠に興じるようなお転婆は少ないということだ。くノ一教室の生徒たちには裕福な家の出身者も多く、そうした娘たちは総じて必要以上に野外に出ることを嫌った。野山を駆けまわるとまでは言わずとも、外に出て男子顔負けに遊ぶようなことをするのは所詮は庶民の遊びという考えがある。
 その理屈でいけば名前は上級生になっても蹴鞠をしている庶民の中の庶民、お転婆中のお転婆ということになる。たしかに名前が庶民であることには間違いないが、けして名前はお転婆というわけではない。しかしそこはそこ、田舎育ちのおおらかさというか奔放さのようなもので多くを気にしないのだろう──利吉はそう納得した。たとえおっとりした雰囲気であっても、山育ちで丈夫な体を持つ名前は、平野のお嬢様がたとはそもそもの身体も心の基盤も違う。そうでなければ山ではやっていけない。
「そんなことより利吉さん」
 ぼんやりと考え事をしていた利吉の腕を、名前がつんつんとつついた。
「今になってこうしてわたしに声をかけてくださったということは、わたしのことを思い出していただけたということでしょう? どうですか、びっくりしていただけましたか?」
「ああ……まあ、うん」
 きらきらした名前の視線を受け、利吉は曖昧に頷いた。利吉が自力で名前を思い出したのだと思っているだろう名前の視線を受けると、実際にはそうではない利吉の胸にはむくむくと罪悪感らしきものが湧いてくる。
 ──母からの密告のことは内緒にしておこう。
 ひっそりと心に決め、真実を胸の奥にしまいこむ。そして改めて名前を見て、
「びっくりしたよ」
 と、微笑んだ。名前がまた嬉しそうに笑む。
「ふふ、あの利吉さんを驚かすことができたのなら、わたしもくノたまとして鼻が高いです」
 そう言って名前が悪戯っぽく歯を見せて笑うと、その笑顔は利吉の記憶の奥深くに眠っていた小さな女の子の笑顔とそっくりなのだった。乳歯が抜けて穴だらけの歯並びで笑う小さな女の子は、年上の利吉たちの後ろをついて回ってはきゃあきゃあと声を上げていた。兄や姉に邪険にされても物ともしない女の子は、短い手足を一生懸命に動かして、精一杯に野山を駆けまわっていた。
 今の今まで忘れていたその眩しい笑顔を、利吉は思い出すのと同時に胸に大切にしまい込む。今の利吉にとってはすっかり縁遠くなってしまった日の光のあたたかさや、草木の放つみずみずしさを含んだ空気のにおい──それらが、穴ぼこ歯並びの女の子の笑顔とともに、じんわりと思い出されるようだった。
 その笑顔と変わらない──少しだけ大人になった名前の笑顔が、すぐ隣にある。
「変わらないな、君は」
「えっ、そうですか?」
 利吉のどこか嬉しそうな声に、名前はきょとんとして首を傾げたのだった。


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