強慾どものつどい

 翌々日、名前と利吉は揃って忍術学園までの帰路についていた。名前の家は山の麓(ふもと)であり、山を下りた利吉が名前を拾っていったような形になる。
 利吉と並んで歩く名前の肩は、緊張のためかわずかに上がっていた。一昨日、名前を帰した後で利吉と伝蔵の間に持たれた会話の内容が気になって仕方がないのだろう。歩いている最中も、心なしかそわそわとして一歩が小さい。
 まだ朝の早い時間だが、すでに道のわきに広がる畑では午前の農作業が終わろうとしている。この後どんどんと日が昇るにつれ気温が上がっていくのを見越しているのだ。利吉もすでに、昼の間はペースが落ちることを織り込んだ上でのペース配分をしている。
 そんな利吉に、名前はただついていくばかりである。今の名前の頭の中は一昨日のことで埋め尽くされていた。
「名前」
 利吉が名を呼ぶと、名前は肩を跳ねさせ利吉を仰ぎ見た。その表情には不安の色がありありと浮かんでいる。この様子では名前の中では伝蔵からのお許しは出なかったものという予想が立っているのだろう、と利吉は推察した。恐らくは昨日一日、いや一昨日先に帰してから今に至るまで、ずっと気が気でなかったに違いない。
「その……一昨日は大丈夫でしたか?」
 名前を呼んだきり利吉が何も言いださないので、名前の方からおずおずと尋ねる。
「ああ、うん。心配をかけたね。まさか父上が早く仕事を切り上げてくるとは思わなくて、私もちょっと焦ったよ」
「本当に……」
 ふたりきりだと思っていたところに伝蔵が現れたときのことを思い出し、名前は顔を赤くしたり蒼くしたりと忙しい。もしもあの時伝蔵が現れなければどうなっていたかなど、色恋に疎い名前であっても想像がついた。
 ──利吉さんの顔、近かったなあ……。
 自らに注がれた利吉の熱っぽい視線を思い出し、名前はにわかに顔が熱くなるのを感じる。これまでの人生でついぞ向けられたことのない視線を思い出すだけで、なんだか背中がむずむずと痒くなる。
 うかうかしているとそのまま煩悩まみれの思考に流されて行きそうになることに気付き、気を取り直して名前は問うた。
「あの、利吉さん……、それで、山田先生は何と」
 名前からの問いに、利吉はただいつものような涼し気でやさしい笑みをつくると、
「お幸せに、うまくやっていきなさい──だってさ」
 とさっぱりと答えた。しかし利吉のその答えに、名前はわずかに視線を険しくする。ちくちくとささくれだった視線を向けられた利吉が苦笑した。
「何だい、その目は」
「いえ……、でもそれって本当かなあと思いまして」
「私のことを疑うの?」
「そういうわけではありませんけど、利吉さんは山田先生の大切な一人息子でいらっしゃいますから……。その、私なんかでいいのかなあ、と。たとえ利吉さんがそれでいいと仰っても、山田先生にはお許しをいただけないかもしれないとか、そういうことは私だって考えますよ」
 というより、その可能性しか考えていなかったと言っても過言ではない。男との交際について、名前には何ら後ろ暗く思うような事情はない。これまでに交際経験もない名前だから、その不慣れぶりを引け目に思うことはあっても、それだけだ。それ以外には何ら恥じるところはない。
 しかし相手はただの男ではない。誰あろう、利吉である。誰の目に見ても名前と利吉では不釣合いだと思うだろう、というのが名前の思考であり、同時に拭い難い懸念でもあった。
 帰省の道中に宿泊した旅籠の女中だってそうだ。名前と利吉が恋仲だなどとつゆも思わないような、そんなはずはないと訝しむ目をしていた。
 利吉と比較して自分が侮られるだけならば、そんなことは名前は一向に構わない。しかし自分のような平々凡々でぱっとしない女と付き合っていることで、相手である利吉が侮られることがあってはならない。また、自分の存在が利吉のお荷物になってもならない──自分よりも遥かに優れた男と恋仲になるにあたって、名前はそのように考えていた。利吉の父親である伝蔵に認められないということだって、だから十分にあり得ることだと思っていたし、その上でそうなったときには場合によっては身を引かねばならないという覚悟すらしていた。
 そんな名前の胸の内を、悲壮さすら滲む真剣な瞳からくみ取ったのか、利吉は視線を和らげると名前の頭にぽすんと手を置く。そのまま二度三度ほど頭を撫でると、子どもに言い聞かせるような落ち着いた声音で、
「大丈夫だよ、その心配は杞憂だから」
 と念を押した。名前が利吉を見上げる。
「そうでしょうか」
「うん、私が保証する」
 当事者である利吉が保証したところで、実際にはどうなるというわけでもない。しかし少なくとも、この場で名前の胸に残る不安を多少なりとも取り除くことには成功した。名前がほっと表情を和らげる。その様子を見て、利吉もまたほっと胸をなでおろした。
「父上からは、名前のことを大切にしなさいと言われたんだよ」
「……本当ですね?」
「もちろん」
 これもまったくの嘘ではない。伝蔵からは名前のことを考えるならば在学中は節度を守れとしっかり釘をさされているのだが、結局のところそれは名前のことを大切にすることと同義である、というのが利吉の解釈だ。利吉の口から出てくる言葉なのだから、多少事実とは異なり利吉の解釈した内容に沿ったものになってしまうことも当然である。
 名前は暫し考え込むように、視線を数間先へと向けていた。利吉は名前の言葉を待つ。この上さらに信用ならないというようなことを言われたら、その時は多少力業でもって話題を逸らさねばならないかもしれない、などと穏やかならざることを考える。
 やがて、名前が視線を利吉へと戻した。それから、何か吹っ切れたような笑顔でもって、
「それなら、山田先生の心配も杞憂ですね」
 と、機嫌よく発した。思いがけないことに利吉は「え?」と思わず面食らう。てっきり思案の結果、後ろ向きな言葉が出てくるとばかり思っていたのだ。
 しかし名前は、相変わらずにこにこと機嫌よく笑って言った。
「だって、利吉さんはわたしのことを大切にしてくださるって、わたし、信じていますから」
 屈託なく言われ、利吉は発するべき言葉を見失った。
 利吉が考えている以上に、名前は利吉に全幅の信頼を寄せている。再会してから共に過ごした時間の長さはまだ短くとも、名前には憧れを胸に抱き続けていた十年近い年月があるのだ。その年月が、利吉への信頼と思いを強固にしている。それこそ利吉には想像もつかないほどに、名前の思いの拠り所になっている。
「──ああ、もちろん」
 暫時の沈黙ののち、利吉はようやく口を開く。「大切にする」
 その返答に、名前は嬉しそうに大きく頷いた。

 景色の中に畑よりも民家が目立つようになった頃、おもむろに名前が切り出した。
「そういえば、一昨日の質問にまだ答えていませんでしたね」
「一昨日の?」
「利吉さんと一緒にいるとき、わたしが何を思うかって質問です」
 名前の言葉に、利吉は「ああそういえばそんなことを聞いたっけ」と自らの言葉を振り返る。
 利吉が名前に「私といて何を思う」などと尋ねたのは、些細なことを引き金に、名前との関係をぐいと推し進めようとしていた最中のことである。伝蔵に釘をさされた今となっては、まったく浅慮であったとしか言いようのない行いではあるものの、反面逸る心のままに口づけのひとつでもしておけばよかったと、利吉はそんなことを思う。
「あの時、せっかく聞いていただいたのにお答えできなかったので、今答えようと思うのですけれど」
 何とも律儀なことである。聞いた利吉自身がすでに聞いたことを忘れていたような問いなのだ。別に、わざわざ掘り起こしてこなくてもよかったことではある。
 しかし、名前の方から小っ恥ずかしいようなことを教えるというのだ。教えてくれるというのならば聞かない手はない。
「それは是非教えてもらいたい」
 そんなふうに出まかせを言うと、名前ははにかんで笑った。
「ええと……利吉さんは私と一緒にいると心が安らぐと言ってくださって、それがわたしはすごく嬉しくて……それで、わたしも利吉さんと一緒にいると、すごく心が落ち着きます。ほっとするような、懐かしいような、そんな気がして」
 そこで名前は一度言葉を切ると、視線を地面へと向けた。しかしすぐに顔を上げ、再び利吉を見据える。
「だけど、今はそれ以上に利吉さんといるとどきどきして、ふわふわして……心がときめいて華やかになります。今までの人生で感じたことないような、嬉しくて、でも胸がつぶれるみたいにぎゅっとなって……多分だけど、くノ一教室のみんなが言っていた恋をするというのは、こういう気持ちのことだったのだなあと、何となく、そんなふうに思います」
 そう言って、名前はそっと手を伸ばすと、利吉の身体の横で無造作に揺れていた手を遠慮がちに握った。利吉が目を瞠って名前を見る。此度の帰省で利吉と名前との距離は確実に縮んだが、こんなふうに名前の方から積極的に触れてくることは今まで一度もなかった。行きの道中で手を握ったときですら、利吉が差し出した手を名前が握った。
 どくんと利吉の心臓が跳ねる。たかが手を繋いだだけ。手のひらから熱を共有しただけ。
 女に困ったことのない利吉にとって、そのささやかな触れあいは本来取るに足らないような、子どものままごとのような触れあいでしかない。それなのに、たったそれだけのことに今、利吉の心は大きく乱されていた。これまで経験したどんな女との情事より、繋がれた手のひらから感じるぬくもりが利吉の胸をぎゅうと押しつぶす。
「……そんなことを聞かされて、おまけにこんなふうに可愛いことをしてくれて、今すぐにでも名前のことを抱きしめたくなってしまうんだけど」
 胸の高鳴りを誤魔化すようにふざければ、名前は笑顔のままで、
「駄目ですよ。こんな昼間の往来で」
 と、取り付く島もない。しかし利吉が再度、
「昼間の往来でなければいいってこと?」
 そう尋ねると、今度は無言で顔を赤くした。その初々しい様子に、利吉の中の熱は一層高まるばかりである。
 ──これは、もしかしたら思ったよりも厳しい条件を呑まされたのかもしれない。
 伝蔵との約束を思い出して苦い気分になるが、しかしすでに約束は済んでいる。利吉だって名前が卒業するまでは手は出さないことについては、その理由に納得した上で約束を呑んでいる。
 だから、ここは気力を振り絞ってぐっと堪えた。と、必死で雑念を振り払っていると、利吉はふと気付く。
 ──父上とはたしかに約束を交わしたけれど、要は名前の未来を摘みかねないことをしてはいけないというだけで、逆に言えばそれ以外の制約はないってことじゃないか。
 発想の転換で活路を見出し、利吉はひとりほくそ笑む。
「なるほどね、そういうことか」
「何がなるほどなんですか。何がそういうことなんですか」
 不穏な気配を察知した名前が、訝し気な視線を利吉に投げかけた。つないだ手をゆるめようとするが、利吉の方がしっかりと名前の手を握りこんでいる。ふたつの手はまったく離れようともしない。
 すでに利吉の中に生まれた煩悩との戦いは終結していた。それに伴い、利吉の表情には嬉々として晴れやかな笑顔が張り付けられている。いっそ不気味なほどの笑顔を浮かべたまま、利吉は意気揚々と言った。
「いや、これからは仕事を頑張ったらご褒美があるんだと思うと嬉しくて」
「ご褒美……? えっと、今の会話のどこからそんな発想に」
「だって名前の言い分によれば、昼間の往来でなければいいんだろ? ということは、人気(ひとけ)のない場所や日が暮れてからならいいってことになるだろ。だから、それをご褒美に今後は仕事に精を出すことにした」
 その妙に子供じみた発想に、名前は腹の底から溜息を吐く。
「ご褒美なんかなくてもお仕事頑張ってくださいよ」
「もちろん仕事は仕事でこれまで通りちゃんとやるけど、報酬上乗せと言われたら、そりゃあやる気が違うよ」
「というか何処から受けているんだか分からない仕事の出来に対して、わたしが報酬を出す理由はないのでは……」
「そこはほら、名前の胸をときめかせてあげている報酬、かな。名前は私といると胸がときめくそうだから」
「ぐう……」
 大人げない利吉の言葉に、しかし名前の言葉を持たない。まんまと「ご褒美」の話を呑まされてしまい、名前はがくりと項垂れた。


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