名残夏(2)

 名前を帰すと、伝蔵は先ほどまで名前が腰かけていた木の幹にどかりと尻を載せた。利吉も何も言わず、木の幹に腰掛ける。下手に家に帰って母を交えた二対一になるくらいならば、ここで話を済ませていこうというのがふたりの間に共通した意見だった。何せ、利吉の母がどちらの陣営につくのかはまったく予想がつかない。その上、この手の話における母の意見力は甚大なのだ。うっかり相手に与されるよりはここで片をつけた方が早い。
「というか父上、もうお帰りになられたのですか。帰宅は明日になると仰っていたじゃないですか」
 先に口火を切ったのは利吉の方だった。いくら自分がプロの忍びとして一端のものになったとはいえ、利吉にはまだまだ父には遠く及ばないという自覚がある。うまく言いくるめられてしまうよりは、自分の方から先に話を切り出し、あくまでも自分のペースで会話を進めていきたいというのが利吉の思惑だった。まずは手始めに世間話のような話題を振る。
 伝蔵とて、その程度の思惑に気付かないはずはない。気付いたうえで、それに乗ってやることにした。
「そのつもりだったんだが、思ったよりさっさと仕事が片付いたのでな。あとは新学期前にどうにかなるだろうと、さっさと仕事を切り上げてきた」
「父上が『仕事を切り上げる』なんて珍しいこともあるもんですね」
「用もないのに学園に残っておっても仕方ないだろう」
「おまけにこんな、普段ならば通らない道を通ってくるなんて。どういう風の吹き回しですか」
「馬鹿者、ここでお前に忍術を教えたのはわしだぞ。懐かしむ気持ちで立ち寄ってみたというのに、まさかこんなところでお前、息子が女子と乳繰り合っとるとは思わんだろうが」
 思いがけず話を名前とのことに戻されてしまい、利吉は思わず咽る。しかし動揺してもいられない。隣の伝蔵からもの言いたげな視線を感じ、慌てて呼吸を整えた。
「そういう言い方やめてくれませんか。父上とその、色恋の話をするのは……」
「阿呆! こっちだって気色悪いわ!」
 今度は全力で怒鳴られてしまい、利吉は首を竦めた。
 利吉の最初の思惑から遠く離れ、あっという間に話の主導権を伝蔵が握られてしまった。いったん崩された体勢を立て直すべく、利吉は深い呼吸を二度三度ほど繰り返す。そもそも、年の功で利吉より大いに勝る伝蔵を相手に、会話の主導権を握ろうなどと思ったことが間違いであったことに利吉はようやく気が付いた。であれば、ここは伝蔵に場の仕切りを任せ、その流れの中に活路を見出すよりほかにない。
 しかし、親子の間で探り探りの会話をしているのは、伝蔵もまた同じであった。
 空はもう、だいぶ紫がかった色に変わっていた。じきに日が沈むだろう空に視線を遣ってから、伝蔵はごくりと口腔内の唾を呑み込む。果たしてこの一筋縄ではいかない息子を相手に、どのように話を切り出すべきか──そんなことを考えては、心の隅が重くなるのを感じる。
 昔から利吉は聡い子どもだった。身体を動かすことを好む反面、書にもよく親しんだ。一人っ子ゆえの多少のわがままさや甘ったれたところはあっただろうが、それも長じるにつれ、じきおさまった。
 半助という優秀な兄貴分ができてからは、より明確な目標や指標を持つようになった。父の目から見ても優秀な忍びとなった今でも、利吉は自らの業(わざ)を過信することはない。多少の不遜なところはあれど、それだってフリーでやっていくには必要な反骨心につながった。
 常に怜悧でそつなく立ち回る利吉のことを、伝蔵は常に男親としてうまく子を育てたというある種の安心と、親心に由来する心配の目で見つめていた。だから利吉のすること、選ぶものにことさら口を挟もうとは思わない。たとえ利吉のした選択に賛同できなくとも、公然と異を唱えたりはしない。それが伝蔵なりの息子への愛情表現だった。
「お前、本気なのか」
 長い沈黙ののち、伝蔵が静かに問うた。視線は利吉へとまっすぐに注がれている。利吉はその視線を真っ向から受け止めると、伝蔵と同様、静かに返事をする。
「本気──とは」
「本気で、名前のことを、その──」
「好いております」
 伝蔵の言葉を最後まで聞かず、利吉は言い切った。断ずるようなその物言いに、伝蔵はごくりと息を呑む。
「父上の目から見れば子どものままごとのように見えるかもしれませんが、これでも私は本気です。まだ名前には何も話しておりませんが、ゆくゆくは嫁にもらおうとまで思っています」
「嫁って」
 あまりにも突飛な話に、思わず伝蔵は利吉の言葉を繰り返す。現在の関係を問いただしていただけなのに、結婚とはまた随分と話が飛躍している。しかし当の利吉はいたって真剣な顔のまま続ける。
「おかしくはないでしょう。名前ももう十四ですし、あと一年半もすれば忍術学園を卒業します。さすがに付き合い始めて間もないので、そんな話はまだ名前相手にはしていませんが」
「そうだな、それがいいだろう……」
 名前だってまさか利吉がそこまでのことを考えているとは思うまい。付き合い始めて間もないこの時期にそこまでのことを言われれば、名前だってその重さに逃げ出さないとも限らない──というのは、名前が家族との間に持った結婚にまつわる会話を知らない伝蔵と利吉の想像だが。
 ともあれ、今の話で利吉がどれほど本気で名前と付き合っているのか、伝蔵も理解しないわけにはいかなかった。冗談半分で結婚などと口にできるほど、利吉は無責任でも考え無でもない。
 それに利吉の言い分にも、すべてとは言わずとも正しい部分はある。名前や利吉が伴侶を選ぶのに適した年ごろであることは事実だった。ただ、忍びという仕事柄どうしても婚期は遅れがちになる。伝蔵が利吉を授かったのも二十代半ばのことであったし、半助に至っては二十代半ばにして未だ好い相手もいないような有様である。
 だからというわけではないが、利吉がそうしたことを考えるのもまだ当分は先の事だろうと、伝蔵は漠然とそう思っていた。
「……しかし、あの利吉がなぁ」
「あのって何ですか、あのって」
 しみじみと噛みしめるように言う伝蔵に、利吉は目を眇める。そんなふうにしみじみされては、まるで利吉がへろへろとして落ち着かない風来坊のようだ。しかし伝蔵は実際、そういうつもりで「あの」などと言っている。
「お前、家を出たばかりの頃は女子をとっかえひっかえしていたというのに……」
「人聞きの悪いことをおっしゃるのはやめてください!」
 思いがけず黒歴史を引っ張り出され、利吉が思わず顔を真っ赤にして叫んだ。この場に名前がいないからいいものの、その手の話は今の利吉にとっては触れられたくない話題の筆頭である。言ってみれば若気の至りのようなものであって、今現在までそんな無茶苦茶なことしているわけではない。
「あれは何というか、ちょっと町の生活に馴染む努力をしただけじゃないですか……」
「そんな馴染み方があるか」
 利吉のささやかな言い訳も、伝蔵からの正論によって呆気なく一蹴される。こればかりは過去のこととはいえ事実でしかないので、利吉もそう強く反論するわけにもいかなかった。
「まあ、過去のことはさておき」
 と、利吉が再び口を開く。まだ冷や汗をかいてはいるが、これ以上過去の事をほじくり返されてはたまらない。そんなことになるくらいならば、利吉の方から話題を戻した方がまだしもましだ。
「これでも名前とのことは本気なんです。父上からどう見えているかは知りませんが」
「ままごととは思っておらん。そこまでお前たちを軽く見るつもりもない」
「そうですか」
「お前はともかく、名前は真面目な娘だろう。結婚云々はさておくとしても、それなりに自分の将来のことは考えて決断をしておるはずだ」
 ともすれば、その辺りのことは息子の利吉よりも名前の方が信頼がおける。何せ五年間浮いた話のない名前のことだ。そうそう浮かれて楽し気な方に流されてしまうということもないだろうというのが、教師としての伝蔵の見立てである。
 だから利吉がここまで言葉を尽くすのと同様に、名前もまた利吉との交際には真剣であることは間違いない。軽はずみな行動ではなく、自分の現状と進退を考慮したうえで、あくまで慎んだ交際をするだろうとは伝蔵だって思っている。
 利吉は伝蔵の言葉を待つ。やがて、伝蔵は何かを諦めたように溜息をひとつ吐くと、今日一番の真面目な表情を利吉に向けた。そして言う。
「利吉、ひとつだけ約束しなさい」
「何をです」
「名前が、どういう形であれ忍術学園を卒業するまで、名前に手を出すことは許さん」
 その言葉に、利吉ははっと目を見開いた。思わず伝蔵をじっと見るが、伝蔵の顔にはひと欠片も冗談めいたところはない。むしろこれ以上ないほどに真剣そのものな面持ちである。
「父上、それは──」
「意味はわかるな」
「そりゃあ分かりますけど……」
「それなら黙って聞くのだ」
 不承不承頷く。
 利吉とてすでに十八である。女の身体を知らないはずもない。そのことは最前すでに話題にしたことでもあった。
 男と女が結ばれて、その先にすべきことは当然交わりだ。そして名前はすでに十四である。はっきりとそうであるとは言われていないが、彼女はすでに男を迎えるに足る身体となっているだろうと、利吉はそう踏んでいる。名前と気持ちが通じた時点で、遠からず名前と肌を重ねるときがやってくるだろうと、利吉はひそかに確信していた。
 しかし伝蔵の言葉は、利吉のそんな浮ついた確信などいとも容易く打ち砕くものだった。
「いいか、利吉。この世の中、誰もが誰もお前の都合のために生きているわけじゃない」
「そんなことは分かっています」
「本当に分かっているのか」
 伝蔵の厳しい声音は利吉の心を問いただす。まるでその喉元に鋭く言葉を突きつけられているような気がして、利吉は背中にそら恐ろしいものが走るのを感じた。
 伝蔵の言葉は、先ほど利吉が口にした「覚悟」を明確に試している。
「よいか、名前は五年まで進級した、未来あるくノたまだぞ。そして卒業した後にはその先の人生がある。恐らくは、くノ一としての人生だろう。利吉、お前はそのことを考えたことがあるか。お前の軽はずみな行動で名前の未来を潰す可能性があるかもしれないと、そのことを一度でも考えたことがあったか」
 その言葉に、利吉はようやくはっとした。伝蔵がここまでして言わんとすることはもはや明白だった。
 男女が交われば当然、そこには当然の結果が残る。──子どもである。
 この時代には精度の高い避妊の術などなく、あくまで月のものの周期に合わせたり、現代においては推奨されないような方法でしか妊娠を避ける手立てはなかった。
 子どもは天からの授かりものである。さすれば人の営みの中ではどうにもできないことでもある。そして万一子どもができたとき、利吉と名前の人生のどちらにより大きな影響を及ぼすかなど、わざわざ考えるまでもないような自明のことだった。
「六年で卒業するまで忍術学園に在籍するくノたまは少ない。大抵は四年か五年を目途に退学していく。その先、くノ一を目指すくノたまとなればもっと少ない。だからわしら教員は、その少ない若芽を文字通り心血を注いで育成するんだ」
 くノ一教室の監督者である山本シナ先生だけではない。忍術学園の教員はおしなべて、くノ一教室の指導にも関わっている。たとえ真にくノ一となることを目指すのがその中のほんの数名だけであったとしても、その数名がいるからには彼女たちの教育に全力を投じるのが教員としての役目である。
「名前はその数少ない生徒のひとりだ。くノ一を目指し、また実際に目指すと口にするだけの努力もしている」
 そこで一度、伝蔵は瞳を伏せた。その視線の先を利吉は追う。利吉の目にはただの地面にしか見えない場所を見遣り、しかし伝蔵は何故だかほんの一瞬、表情を曇らせた。
 しかしそれもほんの一瞬のことである。次に伝蔵が視線を上げたときには、もうその視線には一点の曇りも迷いも見当たらなかった。
「たとえ名前の本心がどこにあったとしても──我々大人は、名前の意思を尊重し未来を守りたいと思う。教師として、それが我々の果たすべき役割だからな」
「本心、ですか」
 妙に引っかかったその言葉を、利吉は注意深く繰り返す。伝蔵の言い方ではまるで、名前が意に染まぬ環境に身を置いてるように聞こえる。まるで、それを、その未来を望まないように聞こえる。
 利吉の言外の疑問を察し、伝蔵は苦い顔をした。
「名前本人が何を思っているか、何にどこまで気が付いているかは分からんがな。いずれにせよ、名前が忍術学園に在籍しくノ一を目指す以上、わしらは最大限名前に手を貸してやるつもりだ。それを利吉、部外者のお前が邪魔することは許さん」
 その断固とした響きを持った声に、利吉は今更ながらに名前が自分の知らない五年間をたしかに忍術学園で学び過ごしてきたことを思い知った。利吉が軽々に扱いかけたその五年は、名前にとっても、また名前を教え導いてきた者にとっても尊い五年間なのだ。それを利吉の都合でふいにすることはけして許されていいことではない。
 ──父上のおっしゃることも尤もだ。
 名前が何をどう考えているかまでは利吉にも分からない。しかし恐らくは、今伝蔵が話したようなことまでは当の名前ですら思慮が及んでいないだろう。利吉が一端の忍びとして活動する十八の大人であるのに対し、名前はまだたかだか十四でしかない。いくら自分のことといえど、そこまでの未来を見据えているかどうかは怪しい。
 ──であれば、私が年長者として名前の足を引っ張るわけにはいかない。
 そもそも名前の利吉への好意は憧れから始まっているのだ。その憧れを裏切るような真似だけは、利吉には絶対にできない、したくないことだった。
 そんな利吉を見て、伝蔵は再び息を吐く。しかしそれは先ほどまでの重く物々しいものではなく、息子の成長を見守る父親の心情をあらわしたような、そんな優しく切ないものだった。
「たしかに、名前のこの先を見守り、一助となるのが我々の務めだ」
 ふたたび伝蔵が口を開く。
「ただし、卒業した後のことまでは我々の関与するところではない。そこから先は、名前が決めることだ」
 その言葉に利吉はいつの間にか伏せていた視線を上げ、伝蔵を見る。
 先ほどまでとは打って変わって、伝蔵の顔には照れとむず痒さのようなものがありありと浮かんでいた。わずかに赤らんだ父の顔を見て、利吉は何だかきまりが悪くて仕方がない。父からのお許しを得たという安堵感の一方で、色恋の話を肉親とすることへの気まずさのようなものがにわかにぶり返す。壮年の父が恥じらう姿など、年ごろの息子からしてみればあまり見たいものでもなかった。
 父に倣って、今度は利吉が咳払いをした。
「……名前はともかく、私ももういい大人ですから、そのくらいの分別はあるつもりです。といっても、私は別にそういうことを目的に名前と懇ろになったわけではありませんが」
「だろうな」
 即答する伝蔵を利吉はじろりと睨む。何をとは言わないが、何だか激しく名前を侮辱されたような気がした。
「ちょっと。どういう意味ですか、それ」
「やめろ、深い意味なんぞないわい」
 そう言ってようやく笑った伝蔵に、 利吉もやっと表情をゆるめた。


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