陳腐になんかならない(2)

 そのまま家に戻っても、母親から何を話したのか聞かれることは目に見えている。名前の忍術学園入学時から姉の言い分は一貫しており、今更先ほどの諍いを隠し立てするようなこともないのだが、とはいえさすがに頭に血が上った状態で母のもとへ戻るのも気が進まない。母は名前を応援しているものの、どちらかといえば姉と同じような価値観を持っている。心の奥では「さっさと帰ってくればいいのに」と思っているということを、名前もまた知っていた。迂闊なことを口にして、姉から聞かされたような小言をもう一度聞くのは御免である。
 日がまだ高いことを確認して、名前は気分転換がてらに辺りを散歩することにした。
 散歩といっても行先は山をのぼるか、昨日歩いてきた畑に続く道を戻るかしかない。畑の方に行けば知り合いと顔を合わせる可能性が高い。ほんの一瞬悩んだが、名前は山を登る道を選んだ。この辺りで育っているから、そう高いところまで登るつもりでなければ軽装でも問題はない。
 木々が青々と生い茂る中を、ゆったりとしたペースで踏みしめるように歩いてゆく。
 実家に戻ってまだ丸一日も経っていないというのに、すでにどっと疲労感に襲われていた。
 ──家族だし、悪い人たちじゃないし、心配してくれているのは分かる。
 胸の内にわだかまった感情を吐きだすように、長く深い溜息を吐いた。
 忍術学園に通っていても、実家に帰ってきても、結局考えることは同じある。さっさと嫁に行って家に入るか、くノ一として生きていくか。この田舎で生まれ育った名前にとっては、年ごろになれば親の探してきた相手のところに嫁ぐのが当たり前のことだった。名前も昔は、そうやって自分は生きていくのだろうと思っていた。それしか道を知らなかった。
 そうではない、そればかりではないと名前が知ったのは、おじから忍術学園の話を聞いた八つの頃のことである。曰く、忍術学園という忍者になるための学校には、くノ一教室という子女を対象にした教室が開講されているのだという。そこでは親元を離れた娘たちが、日々学問の修得や武術の鍛錬、忍術の会得に励むらしい。卒業後はくノ一としての道が拓かれ、男を恃むことなく生きていくことができる。
 その話を聞き、幼い名前は憧れた。女の身であっても自分で考え、動き、働くことができる。男と同じように学を持ち、妙計奇策を巡らせ活躍する女がいる。いや、場合によっては男をも凌ぐ働きを見せる、しなやかな女たちがいる。それは何と素敵なことだろう。それからというもの、名前は暇さえあれば忍者となった自分の姿を夢想した。強きを挫き弱きを助ける、そんな人間となった自分の姿を想像しては溜息をついた。
 今にして思えば、それは目の前に用意された定型の未来への反抗心のようなものだったのだろうと思う。ありきたりで平凡な自分に用意された、ありきたりで平凡でつまらない未来への、ささやかな抵抗。くノ一への憧れは、そんな抵抗心に後からついてきたものに過ぎない。
 ──いや、そうじゃない。
 自分の胸中にぽかりと開いた思考の底を垣間見て、名前はぎゅっと目を瞑る。足元の土が固い感触を草履越しに伝える。
 ──そうじゃなくて、私は……。
 四年以上前、自分が忍術学園の門をたたいたときの気持ちを思い出し、名前は後ろ暗い感情に襲われる。どきどきしながら門をたたいたとき、胸にあったのは輝かしい未来への希望よりも、むしろ長年取り付かれていた何かからようやく逃げ出せたというような、そんな安堵。
 と、名前の肩をふいに叩く手があった。その感覚にはっとして振り向く。目の前には夏の日差しにも負けず、爽やかな笑顔をその顔にたたえた利吉の姿があった。
 この暑いにも関わらず汗ひとつかいていない利吉は、涼し気な目許をわずかに綻ばせて名前を見る。
「やあ、名前じゃないか」
「利吉さん……どうされたんですか?」
「それはこっちの台詞だよ。どうしたんだい、こんなところで一人で。今日はお姉さんの家に行っていたんじゃなかったの?」
 問われ、名前は口ごもる。まさか姉と喧嘩をして怒って出てきたなどと子供じみたことは言いたくないが、とはいえそれ以外に言いようがないのも事実である。利吉相手に意味のない嘘や誤魔化しをしたところで、すぐに看破されてしまうことは分かり切っている。
 逡巡の後、正直に打ち明けることにした。
「いえ……少し姉と口論になったので、頭を冷やそうかと……」
 改めて言葉にすると情けないにもほどがある。話したことをすでに後悔し始めた名前であったが、しかし利吉は笑うことも呆れることもせず、意外そうな顔をして名前をしげしげと見つめた。
「へえ、口論か」
 その感心したような口ぶりに、却って名前は居心地の悪い気分になる。自分でいうのもなんだが、感心されるようなことは何ひとつしていない。
「……何でしょうか、利吉さん」
 訝しがる名前に、利吉は小さく笑った。
「いや、名前も人と衝突したりするんだなあと」
「ええ? 何ですか、それ。そりゃあ衝突くらいしますよ。きょうだいですもの」
「私には兄弟がいないから、そういう感覚はよく分からないんだよね」
「そっか、そういえば利吉さんは一人っ子でしたね」
「それで不自由をしたことはないけどね」
 にこりと笑って利吉が答えた。
 利吉にはひとりっ子として両親からの愛情を独占して生きてきた自覚がある。数年前には一時半助と同居していた時期もあり、それはそれで利吉にとっては新鮮で楽しい生活だったものの、今の性格を形成している幼少期にひとりっ子であったことが、現在の利吉の在り方にまったく無関係とはいえない。誰と徒党を組むでもなく一人きりで仕事をするのが楽だと感じるのは、そもそも利吉がそういった環境で育ったことにも大いに関係している。
「まあ、家のことなら私が口を出すのも違うだろうし、何とは聞かないでおこうと思うけど」
 その辺りの対応はさすがに如才ない。笑顔のままそう言葉を足す利吉に、名前はほっとして頭を下げた。
「そうしていただけるとありがたいです」
「うん。まあ、実際それについては私にしてあげられることも何もないしね。その代わりといっては何だけれど、名前、何か私にしてほしいことはある?」
 利吉の問いに、名前は中空に視線を彷徨わせる。利吉に何をしてもらったわけでもなく、逆に名前が利吉に何かをしたわけでもない。本来ならばここで何かしてほしいと頼むような理由は何もなかったが、とはいえ折角である。利吉からの好意と言葉を無下にするのも忍びない。
 束の間そうして悩んだ後、やがて名前は言った。
「うーんと……そうですねえ、それじゃあそばにいてください」
 名前からのささやかなお願いに、利吉はやはり笑って答えた。
「そのくらい、お安い御用だよ」

 ◆

 そこからさらに山を登ると、やがて拓けた丘のようになった場所に出る。そこに倒れていた手ごろな木の幹に並んで腰掛け、暫し話をすることにした。倒れていたのは立派な大木で、ふたりが並んで座っても軋みすらしない。
 辺りは生ぬるい風が周囲の木々の葉を揺らす音で満ちている。空は淡い青から、薄紫へと色を移そうとしている最中だった。たなびく雲をぼんやりと視界に入れつつ、名前は傍らの利吉に話しかける。
「どうですか、数か月ぶりのご実家は」
「特に何と言うこともないかな……。普段母上ひとりでは手が回らないような力仕事を言いつけられたりとか、まあいいようにこき使われているよ」
「ふふ、たまの帰省ですから。親孝行はしないと」
 楽しそうに笑う名前を、利吉がもの言いたげな目で睨む。
「君がそれを言うのか? せっかく親きょうだいのことには深く突っ込まないようにしてやっているのに」
 利吉が家族の話について触れないようにしているというのに、名前が自ら話題にしているのだから世話ないことである。利吉に言われて気付いた名前が、気まずげに苦笑して見せた。
「たしかに。これは失礼いたしました。先ほどの発言は聞かなかったことにしておいてくださいね」
「まったく……」
 利吉が溜息をつく。随分と都合がいいことを言う名前の言い分を聞いてやる、常ならぬ自分の甘さにも呆れた。付き合い始めの時期とはいえ、自分が名前に対して甘くなりすぎているという自覚はある。あるのだが、どうにもこればかりは自分で加減するのも難しいことだった。四つも年の離れた名前のことを可愛がりたい、甘やかしたいと思う気持ちは如何ともしがたい。
 そんな利吉の胸中などいざ知らず、名前はいつものように呑気な顔で空を見上げている。すでに今までしていた話など忘れたかのように、浮かべた表情と同じ呑気な声で、
「わたしはもうすでに、ちょっと忍術学園が恋しいですよ」
 と、ぽつりと呟く。
「そうなの?」
「はい。なんだか、わたしにとってはもう、あちらの方がよほど落ち着く場所のようです」
「そうか。まあでも、忍術学園には君の仕事がたくさんあるしね」
「本当に。ありがたい限りです」
 答えて、名前は笑った。
 利吉の言うとおり、忍術学園にいるときの名前は絶えず何かしらの仕事に追われている。それは個人的な都合──試験勉強やアルバイトの時もあれば、くノ一教室の運営にかかわることの時もある。上級生の少ないくノ一教室において、五年生の名前が負うべき役割は大きい。
 元来、名前は人の世話を焼いたり、下級生の面倒を見ることが嫌いではない。だからそういった仕事を任されることは苦にならず、むしろ充足感すら覚えるほどだった。名前が積極的にそうした裏方仕事を引き受けるのは、もちろん彼女が頻繁に帰省せずに頼られやすい立場にあるということもあるが、そもそも名前がそうした仕事をやりたがるからでもある。頻繁に仕事を任されれば勝手を覚え、次からも名前に頼むのが早いということになる。名前は名前で、庶民出身としての居心地の悪さを乗り越えてくノ一教室に居場所を作っている。
「君が卒業したら、山本シナ先生も残念がることだろうね」
 利吉の言葉に名前は小さく微笑む。
「どうでしょうね。下の子たちには私たちの代よりもくノ一を目指して入学してきている子も多いですから。今よりは上級生も多くなって、むしろ山本先生は楽になるかもしれません」
「へえ、そうなんだ。それじゃあ名前は下の学年の子たちの手本になるように頑張らないといけないな」
「……そうですね」
 静かに頷き、名前はふと目を細めた。しかしすぐにいつもの名前に戻ると、にこりと笑って利吉を見る。
「利吉さん、わたしは明後日にはここを発とうと思いますが」
 その言葉に、利吉も首肯する。
「そうだな。私もそのくらいのつもりでいる。父上が明日戻ってくるはずだから、一晩家族で過ごして、次の日には出る予定だった。仕事があるから忍術学園まで送るわけにはいかないけど、せっかくだから途中までは一緒に戻ろうか」
「もう少しゆっくりしなくていいのですか?」
「うん、あんまり休んでばかりいては名前を忘れられてしまうからね」
 冗談めかした利吉のセリフだが、しかしあながち冗談でもない。ただでさえ、つい最近まで体調回復を優先して仕事の量を減らしていたのだ。このまま長期で休んでしまってはあっという間に名前を忘れられてしまう。フリーの忍びでやっていく以上、常にそれなりに営業はかけていなければいつ仕事が途切れてしまうかも分からない。
「フリーの忍者は大変ですねえ」
「まあね。気楽でいいけど」
 その遣り取りを最後に、暫し会話が途切れた。木の葉がざわめく音ばかりが耳に届き、それ以外の音は何処か遠く消え去ってしまったような、まるでそんな気分になってくる。
 ふと名前は利吉の胸に視線を遣った。女装の用意のためか男にしては細身の利吉ではあるものの、名前と比べれば肩も胸もしっかりとしていて厚い。その厚い胸が、ゆったりとした利吉の呼吸に合わせて小さく上下していた。たったそれだけのことで、何故だか心がほっとする。
 ──今ここに、利吉さんがいてくれてよかった。
 先ほどまで胸に感じていたもやもやとした昏い感情は、いつの間にかどこかへと霧散していた。今胸の中に在るのは、ただ、利吉と寄り添い言葉を交わしたことによって生まれた、安心感にも似たあたたかな感情だけである。
「利吉さん」
 名前が呼ぶ。中空に向けていた視線を名前に向け、利吉が微笑む。
「何だい」
「ありがとうございます、傍にいてくれて」
 たった、それだけの言葉だった。それだけの言葉で十分だった。
 それだけで、名前には利吉に自分の心のすべてが伝わるだろうという確信があった。
 そしてたしかに、利吉は名前の心に残った感情を余すことなく受け取った。
 利吉の心に、つと熱いものが沸き上がる。そしてそれは、情動という形のないものとなって利吉の身体を突き動かす。
「名前」
 ふいに、利吉が木の幹の上に置いていた名前の手に自分の手をかぶせ、握った。名前の心臓がとくんと跳ねる。握られた指の先が、甘く痺れる。
「り、利吉さん」
 返した声はわずかにだが掠れていた。自分の声に驚いて、名前ははっと息を呑む。
 氷ノ山までの道中でも利吉の手と自分の手が触れ合うことはあった。けれどこうしてしっかりと手を握られるのは、これがはじめてのことである。否が応でも胸はときめいた。
 これまでにも肌が触れる機会はあれど、それはあくまで知り合いとしての距離感、知り合いとしての交流の中で生まれた触れあいである。今、こうして利吉の瞳に見つめられ、しっかりと手を握られているのとはまったく別ものだ。
 名前の胸が、何かを訴えかけるように我知らず小さく疼く。
「名前はさっき、忍術学園が落ち着く場所だと言っていたけれど」
 利吉は言う。声が熱を孕んでいることに気が付かないほど、名前も幼くはなかった。甘い声が名前の鼓膜を震わせる。名前は慎重に、「はい」と返事をする。
「だけど私は、名前の隣にいるときにこそ、心が安らぐよ」
「利吉さん……」
「名前は? 名前は私といて、どう思う」
「わたしは……」
 咄嗟に、返す言葉が見つからなかった。わたしも、わたしもそうなのだと言えばいいだけだというのに、言葉が胸につかえてうまく声にならない。
「名前」
 再び利吉が名前の名を呼んだ。ゆっくりと、利吉の顔が名前に近づく。
 ──触れてしまう。
 そう思ったのと同時に、名前はぎゅっと目を瞑った。手のひらは利吉に捕らわれたまま、逃げ出すことを許されていない。もとより名前にはこの状況において逃げ出すほどの度胸もない。身を乗り出した利吉の気配が、もう目と鼻の先まで迫ったその刹那──
「お、お前たちっ!」
 やにわに聞きなれたしゃがれ声が、すぐそこまで迫ったふたりの間に割って入った。思わず利吉が身体を離し、名前も瞑っていた目をぱっちりと見開く。
 ──今の声って……。
「ち、父上……」
 利吉の茫然とした声が、名前の耳にも届いた。その声につられるようにして、名前は先ほど声がした方向へと顔を向ける。
 果たして、そこには顔面蒼白の山田伝蔵が、利吉に負けず劣らずの茫然とした表情で突っ立っていた。


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