陳腐になんかならない(1)

 翌日、昼を過ぎたころに家を出た名前は、同じ村にある姉の家へと赴いていた。名前にその気はなかったのだが、母親から姉の家に届けてほしいものがあるのだと、無理にお遣いを言いつけられてしまったのだから仕方がない。実際には名前に姉の家に顔を出よう、お遣いをわざわざ拵えたといった方がより事実に近いのだが、いずれにせよ帰省中で畑に出るくらいしかすることのない身である。母に行けと言われれば、嫌でもそれに従うしかない。
 姉の家の玄関をくぐるなり、よちよち歩きのこどもが名前を出迎える。それに続いて、赤ん坊をおぶった姉が家の奥から姿を現した。
「久し振りだねえ、名前」
「久し振り。母さんから、野菜預かってきたよ」
「ありがとうねえ。まだまだ身体動かすのもやっとで。あっ、こら! そんなところ這ったら落っこちるよ!」
 名前の方に近付いてきたよちよち歩きの子供が、うっかり上がりかまちの縁をよろよろと歩いている。落っこちる前に名前が抱え上げ、ともに部屋へと上がった。
 名前がこの家にやってくるのは久し振りである。とはいえ家のつくりは実家とそう大差なく、物の配置もほとんど同じようなものだ。赤ん坊をおぶったままの姉を座らせ、名前は二人分のお茶を淹れてから姉のもとへと戻った。名前が戻ると、姉の背から降ろされた赤ん坊と子どもがふたり、板ばりの床の上をころころと転がっていた。
「お茶ありがとうね、えーと……あんたに会うのいつぶりだっけ」
「えーと、三年、かな」
 問われ、名前は答える。最後に会ったのは、まだ名前がくノ一教室の二年生だった頃である。それ以降は、そもそも実家にすらそうそう寄り付いていなかった名前である。姉や、姉の子どもと会うのも実に久し振りのことだった。
「そうかいそうかい。いや本当に久し振り。三年っていうとこの子が生まれる前じゃないの」
「この子どころか、そっちの子もはじめて会うよ。上の子は?」
「さあね、遊びに行ってるんじゃないの」
 何とも適当なことだが、このあたりには小さな子どもも多い。それなりに放っておいても大きくなるということは、実際そのようにして育てられた名前自身がよく分かっていることだった。
 名前の姉には、三人の子がいる。うち一人はつい先日生まれたばかりの赤ん坊で、今まさに姉の背からおろされたばかりの子。ようやく腹ばいになることができるようになったばかりである。その上が先ほど上がり框から落ちかけた子で、遊びに行っているという男の子が長男だった。名前が会ったことのあるのはこの長男だけで、下のふたりとは今日はじめて顔を合わす。
 名前も何度か赤ん坊の子守りのアルバイトをしたことがあるから、子どもを前にしてもまごつくこともない。しかしそれが自分の姪にあたる子どもなのだと思うと、何とも複雑な心境だった。
 日の当たる縁側を、小さな子どもがふたり、干した布団と並んで転がっている。きゃあきゃあと声を上げる子どもたちをぼんやりと眺める姉の目はやさしく、名前は何とも言えない感慨を胸に感じた。
 ──忍術学園にいると、こういう感じとは無縁だからなあ……。
 下級生の面倒を見ることがあるといったって、一年生でも十にはなっている子たちである。どちらかといえば年の近い妹の世話を焼くのに近い。その上、教育機関である以上は学年差が歴然として存在し、そこには上下関係が否応なく付き纏う。疑似家族のような真似ができたところで、結局それはままごと遊びでしかなかった。
 事実、そうした疑似家族のような遣り取りは、卒業や実家の事情でいともたやすく終了する。今は良好な関係を築いている名前と同室の松ですら、年度の終わりには名前より一足早く松が忍学園を去るのだ。そしてきっと、もう生涯で二度と顔を合わせることはない。何人もの友人や後輩たちが退学するところを見てきた名前にとっては、その事実はずんと胸に重かった。
 ──忍術学園を退学していった子たちはきっと、こういう幸せを当たり前のように掴んでいるんだろう。
 縁側から赤ん坊が落ちないよう、姉はそっと赤ん坊を屋内の側へ引き寄せる。三度の出産を経て、かつては名前と同じように華奢な体つきをしていた姉も、相応にふっくらとして母親らしい丸みを帯びた体型になっていた。ふくよかな胸元がはだけ、白い乳が着物の合わせから覗く。赤ん坊がそちらへと小さな手を伸ばす様を、名前は見るともなく眺めた。
 暫く、姉が赤ん坊の相手をするのをお茶を啜りながらぼんやり見ていた。やがて子どもが縁側で眠りに落ち、赤ん坊もまた姉の腕の中で寝息を立て始めると、ようやく姉は名前のもとへと戻ってきた。子どもふたりは揃って、縁側の日陰になった場所に敷かれた布団に転がされている。
 名前の前に戻ってきた姉は、先ほどまでよりやや声を低くして、しかしずいっと名前に詰め寄った。
「そんなことより母さんから聞いたよ。あんた、あの利吉くんをものにしたんだって?」
 唐突な話題の転換に名前はぎょっとする。いくら姉の家が実家とほど近い場所にあるとはいえ、産後で家にこもっている姉が、まさか利吉と名前が共にいるところを見ていたはずはない。
「待って、待って。姉さんなんでそんなに耳が早いの」
「言ったでしょ、母さんから聞いたんだって。母さんとは昨日ちょうど会ったからね。夕方に魚持ってきてくれたんだよ」
 そう言われれば、昨日の夕方名前が利吉を見送ったあとに家に戻ると、母は家の中には不在であった。てっきり畑に忘れ物でもしたのかと思っていたが、何の事はない。わざわざ姉の家まで出向き、本題もそこそこに利吉の話をしていったのだった。名前はがくりと脱力する。しかし姉は、うきうきと声を弾ませて言った。
「もう母さんったら大はしゃぎだよ。利吉くんって言ったら、ここいらでは一番の美丈夫だったからねえ。今も物凄いんでしょう」
「物凄いって何……? まあ、たしかにお顔立ちは整っていらっしゃるけど……」
「うんうん、そうだろうねえ。おまけに、なんだかやり手で仕事もできるんでしょう。母さんがそう言ってたよ。何の仕事してるかは教えてくれなかったけど」
「まあ、うん……そうだね。間違いではない」
 さすがに売れっ子の忍びだなどとは言えないので、名前は曖昧に笑ってごまかした。身内である名前が忍術学園の生徒であるとはいえ、忍者というものはけして大っぴらにするような職業でもない。特にこうした田舎では、その存在は怪しげな妖術や幻術を操る呪術師のようなものだと思われていることも少なくはなかった。
 名前の姉も、どちらかといえば忍者というものに対しては懐疑的である。名前が忍術学園に入学することにも良い顔はしなかったし、今もやはり「行儀見習い」として通っているものだと思い込んでいる節がある。そういう事情もあって名前は実家以上にこの家に寄りつこうとしないのだが、当の姉の方はそのことにはまったく思い至らないようだった。
 ──母さんと一緒で、悪い人ではないのだけど。
 と、名前が胸中でそっと溜息をついていると、姉が「それで?」とさらに名前に尋ねる。
「それでって、何が?」
「いつ祝言をあげるのよ」
「しゅっ!?」
 そのあまりにも荒唐無稽な発想に、名前は再びぎょっとした。母親ですらそこまでの話には踏み込んでこなかったというのに、この姉はいきなりずかずかととんでもないことを言いだす。名前はこの場に利吉がいないことに心底ほっとした。まさか利吉にこんな突拍子もない話を聞かせるわけにもいかない。
「ちょっと、姉さん気が早い。好きだと言われたのだってほんのこの間のことなんだよ。まだ全然そんな話はしてないよ」
「って言っても、あんたも、それに利吉くんももういつ夫婦になってもおかしくない年でしょう。あんたはともかく利吉くんなんて引く手あまたなんだろうし、逃げられる前にさっさと自分とこに繋いでおいた方がいいと思うけどねえ」
 言いざまはひどいものだが、しかし姉の言うことも一理ある。十四の名前も十八の利吉も、けして婚期を逃しているというほどではなくとも、すでに適齢期にさしかかりつつあった。特に利吉は、本来ならばとっくに嫁をとっていてもおかしくない年ごろである。なまじすぐそばに半助という前例がいるだけに、どうにもその手の話は半助に回りがちではあるものの、利吉も利吉でいい年であることはたしかだった。
 この年頃で恋仲になるというのだ。当然、身内が考えることはその先のことになる。名前だって、まったくそういうことを考えないわけではない。
 しかし、いくら何でも現実的な日取りを考えるのは時期尚早と言わざるを得ない。何せふたりはまだ手すら繋いでいない。
「というかね、わたし、まだ五年生だから。あと一年以上は卒業まであるし」
 あくまでその気はないことをやんわり伝えるが、姉は当然聞く耳を持たない。
「そんなの、いつ辞めたっていいんでしょう。なんでも忍者の学校といっても、おなごの方では輿入れで退学する子がほとんどだって話じゃないか」
 知ったようなことを言われ、名前は思わず眉をひそめる。忍者や忍術学園に関して懐疑的な姉は、忍術学園のことをあまり知りたがらない。名前の方でも余計なことは言うまいとしてきたから、まさか姉がそこまでの事情を知っているとは思わなかったのだ。
「誰から聞いたの、そんなこと」
「母さんよ。母さんはおじさんから聞いたって。ほら、忍者の学校の卒業生とかいう」
 内心で舌打ちをする。件(くだん)のおじは忍術学園を卒業しているものの、その成績は芳しくなく、結局忍者にはならずに郷に戻ってきた。今は家業を継いでいる。
 名前に忍術学園の存在を教えてくれたおじのことを、名前はそれなりに好いている。半面、誰彼構わず忍術学園の存在を話してしまう口の軽さにはこれまでも度々閉口していたのだが、まさか名前の母にまでそのように込み入った事情を話していたとは、さすがに思いもしなかった。
 特におじが在籍していた数年前は、まだくノ一教室が開講したばかりの頃である。今名前たちが学んでいるくノ一教室での授業と比較しても、当時はまだゆったりとした手習いのような授業内容が多かった。その頃を基準にあたかも現状そうであるように話されては、今のくノたまである名前としては堪ったものではない。
 たしかにくノ一教室が上等な子女の養成塾のようになっていることは否定できない。私立である以上、本来はある程度の富裕層を相手にした学校でもある。そうした層により受け容れられやすいよう授業内容にも工夫を凝らし、より子女教育として汎用的な内容を取り入れることになるのも無理はない。
 だからといって、くノ一教室で教えている内容が生半なものであるかと言えば、けしてそういうわけではない。きちんと授業に取りくんで鍛錬を続ければ、やがては一端のくノ一になれるような授業がちゃんと組まれている。だからこそ、学年が上がるにつれて退学する者が増えるのだ。上級生になればなるほど、くノ一として身を立てるのに必要な、より高度で専門的な教育になる。手習いのつもりの娘たちには不要な授業内容は、裏を返せばそこいらの女子が身に着けているはずもない特殊技能を教えているということでもある。
 姉の言い分は、ともすればそんな真摯な教育を施そうとしているくノ一教室への冒涜ですらあった。
「……おじさんが忍術学園を卒業したのは、もう何年も前のことでしょう。今はそんなこともないよ」
 声をひそめて名前は言う。しかし姉は名前の言い分に耳も貸さず、ただただ物憂げに溜息を吐くばかりである。
「でもねえ……」
「姉さんに心配されなくても大丈夫だから。わたしはわたしで、ちゃんと色々考えているから」
「考えてるって……女忍者になるってことだろう? あんたまだそんなことを、本気で言ってるのかい?」
「当たり前でしょう。冗談で何年も学校に通ったりしないよ」
「やめておいた方がいいと思うけどねえ……。昔っからあんた、とろいんだし……。さっさと見切りつけて、結婚して戻ってきたらどう」
「はいはい、小言は結構」
 このまま話を続けていても、どちらも引かずに平行線をたどるであろうことは明白だった。名前は腰を上げる。これ以上の長居は無用であった。
「とにかく、私は今すぐ退学して結婚するつもりもないし、ましてこっちに戻ってくる予定なんて全然ないから!」
 帰り際、捨て台詞のようにそう言い残すと、憤然として姉の家を出た。名前の背中に向けて姉が何か言う声が聞こえたが、その声も聞こえなかったことにした。


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