正答の扉(2)

 名前の母と鉢合わせた畑から名前の家までは、歩いてすぐである。帰省の荷物に加えて野菜がたんと入った籠まで背負わされ、ふたりはとろとろと牛歩のごとき歩みで進む。
「すみません、うちの母が強引で……」
 ほとほと困り果てたとでも言うように、名前はしゅんとしょげている。自分ひとりが迷惑を被るのであれば親子のことと諦めもつくのだが、すぐ横には自分よりもさらに重い籠を背負わされた利吉がいるのである。しょんぼりするのも無理はない。
「別に大丈夫だけど……。ただまあ意外ではあったかな。名前の母上というからには、もっとこう、君と同じような雰囲気のお母上かと思っていた」
 利吉も大してよその親子のことを知っているわけではないものの、親と子は往々にしてよく似るものである。利吉自身、自分の父親である伝蔵によく似た仕事中毒の人間である自覚がある。父の背中を見て育ち、望んで同じ道を進んでいるのだ。その上父に負けず劣らずの経歴を積み上げてきているのだから、似ていないということもないだろう。
 乱太郎の家にしてもしんべヱの家にしてもそうだ。まるきり同じではないものの、父親と息子はよく似た性質を持っている。であれば、名前が女親である母親に似ているものだと利吉が思うのもむべなるかなというものだった。
 しかし名前はやはりうんざりした顔のまま、恐ろしく深くて長い溜息を吐く。
「全然……いや、私も大概わがまま娘ではあるんですけども……」
 たしかにこれまで利吉が忍術学園やその周辺で見ていた名前の姿と比べると、母親の前での名前は年相応に子どもらしい言動がみられる。母親の言い分を聞けば、名前はけして親に従順な「よき娘」というわけでもないのだろうう。そもそも「よき娘」であれば、家を出て遠く離れた忍術学園に通いたいなどと言い出さないに違いない。
 ──まあ、家族だからといって必ずしも気が合うというわけでもないだろうしな。
 利吉の家は比較的円満な家庭だが、どこの家でもそうとは限らない。名前には名前で、色々と思うところもあるのだろう。それを余所者の利吉にどうこう言う権利はない。
 ──名前が話したいというのであれば聞くつもりだけど、それ以上踏み込んでも仕方がないことだ。
 そんなふうに自分の立ち位置を見直し、利吉は再び名前に視線を戻す。その視線に気が付いた名前が、くいっと首を傾げた。それから「ああ、でも」と言葉を続ける。
「こんな環境で育ったものですから最初は忍術学園でも苦労しましたよ」
 一体全体何が「でも」なのかは不明だが、少なくとも名前の中では話が繋がっているのだろう。その繋がりを問いただすことはやめ、利吉はただ、
「そうなの?」
 とだけ返して話の続きを促す。
「ええ、あそこはこう……、忍たまはともかく、くノたまに関しては私とは規格が違う娘が多いので」
 名前の言わんとするところを察して、利吉は頷いた。
 くノ一教室には名前のような庶民の出の娘が少ないことはすでに利吉も知っている。その数少ない庶民の家の出の娘の中でも、名前はとりわけ平凡で凡庸な農家の娘である。見た目や持ち物の差は当然のことながら、そうした出身の差は、普段の立ち居振る舞いやちょっとした所作、話し方にも如実に反映される。
 学問においても礼儀作法においても、すでにある程度のことを身に着けた状態で入学してくるのと、まるきりそうしたものに触れたことのない状態で入学してくるのでは、成績の差は歴然だ。ただでさえ成績がふるわず遅れている上に、立ち居振る舞いは田舎ものそのものとなれば、名前や名前の友人が白い目で見られるのも当たり前のことだった。
 もちろん、くノたまの中にはそんな差など意にも介さない良家の子女もいる。しかし大多数はそうではない。名前がこうして五年生まで進級し、下級生や教師からの信頼を得ているのは、忍術学園に入学してからの名前本人の努力のたまものに他ならない。
「くの一教室にいるときは、私も周りに合わせてちょっと女子っぽい話し方を心掛けていますけれど、郷では適当なものですよ」
「へえ、そうなんだ。まあたしかに、私も実家ではくつろぐけど」
「とはいえ忍術学園での生活ももう四年以上ですし、あそこでの立ち居振る舞いや生活の方が今の私には慣れていますけどね」
 そう言って笑う名前の表情には、憂いは一切滲んでいない。その表情の明るさに、利吉はひそかにほっとした。

 ほどなくして名前の家に到着した。外の井戸で手足をさっと洗い流し、ようやく部屋で人心地つく。
 名前の家は、手狭というわりにはそれなりの広さを持っていた。一時は両親と何人ものきょうだいで寝起きした家なのだろうが、すでに子どもたちが独立して家を出た今となっては、家の中も整理整頓され、どこかがらんとしている。勝手知ったるといった様子で名前がいれたお茶を啜り、利吉はそれとなく家の中を見回した。よく掃除が行き届いており、またそれほど困窮している様子もない。名前の学費を払ってもまだ余裕がありそうに見えるというのは、利吉にとっても多少意外なことだった。
 ようやく名前と名前の母も座についたところで、名前の母がにこにこと、しかし前置きもなく切り出した。
「ところで利吉くん、もしかしてあなた名前と?」
「か、母さん!」
 名前が咎めるが、名前の母はまったく気にした様子もない。にこにことしたまま、ひたすら利吉に視線を注いでいる。
 利吉とて、名前の家に招かれた以上はこうなることを予想していた。行きがかりで一緒に帰ってきただけだなどと言っても、この母親が納得するはずがないことは明らかだ。
「はい……いえ、まだそういう仲となって日は浅いのですが」
 正直にそう打ち明けると、たちまち名前の母は喜色満面になった。隣で名前が頭を抱える。
「あらあら、まあまあ……ほんの冗談のつもりだったんだけど」
「すみません、きちんとした挨拶はまた後日に」
「いい、いい! 堅苦しい挨拶なんて!」
 言うなり、名前の母は名前の背中をばしんと一度思い切り叩く。背を丸めて頭を抱えていた名前も、背中に重い衝撃をくらい「いったぁ!」と叫んで背を逸らせた。
「ちょっと! 母さん!」
「いやぁ、よかったよかった! まったく、あんた一時はどうなることかと思ったけどねぇ! まさかこーんな男前をつかまえてくるだなんて」
「ちょっと……」
「ねえ、利吉くん。この子昔っからぼんやりしているし、どこそこの倅があんたのこといいって言ってたよって話があっても全然、これっぽっちも興味示さなくてねえ。行かず後家どころか家にも戻らずひとりで町でふらふらしてたらどうしようかと思ってたところだったけど、はあ、でもまあよかった。これであんたも安泰だわ」
「母さん、やめて!」
 顔を真っ赤にして名前が叫ぶ。羞恥と怒りがない交ぜになったような、見るからに不本意そうな表情を浮かべているが、怒られている当の母親は一切気にも留めていないのだから暖簾に腕押しとはこのことである。傍から見ている利吉の方が不憫になる名前の扱いに、利吉が助け舟を出そうかと口を開きかけるも、そのタイミングで再び名前の母が口を開く。
「そうだ、折角帰ってきてるんだから姉さんのところにも顔を出していきなさい。あんた全然姉さんと会ってないでしょう。姉さん心配してたわよ、赤ん坊にも会いに来ないって」
 すっかり話題をすり替えられ、名前の胸のうちの怒りも矛先を見失う。不完全燃焼のままにいなされて、名前はむっつりと眉をひそめて湯飲みを睨んだ。
「それはそうだけど、いきなり行っても姉さんも困るだろうし」
「困りゃしないわよ、あんたがそろそろ帰ってくるって言ってあるから。ね、明日にでも行ってきなさい。ついでに子守りでも手伝ってやれば姉さん喜ぶよ」
 さくさくと明日の予定まで決められてしまい、名前はついに溜息をついて沈黙した。結局のところ、何をどう怒ったところで最後はいつも母の調子にのせられ丸め込まれてしまう。母だけでなく、名前の姉もまた母譲りの気質を持っていた。名前が家に寄り付きたがらないのはこのためである。近くにいて喧嘩をしたり嫌な思いをするくらいならば、距離をとって生活した方が互いの精神衛生を良好に保つことができる。
 名前の母が、ふたたび利吉に視線を向ける。まさか末の娘が利吉ほどの男を連れて帰るなどとは思っていなかった母親の目には、好奇の色がありありと浮かんでいる。
 その視線を察した名前が、静かに切り出した。
「……利吉さん、そろそろ出た方がよいのでは? この後山道を登らなければいけないでしょう」
 一見利吉に助け舟を出しているようにも見えるが、その実利吉を早く母から遠ざけたいだけの、名前の個人的な事情から発せられた言葉であることは利吉には分かり切っている。しかし実際、そろそろ出なければならない時間でもあった。此度の帰省は名前との二人旅ということでゆっくりと帰ってきているから、普段とは何かと勝手が違う。
「まだいいじゃないの」
「いえ、名前さんの言うとおり、私はそろそろお暇させていただきます」
 利吉が爽やかに告げると、ようやく名前の母も不承不承納得した。
「そう? それじゃあお母さんによろしくね」
「はい、伝えておきます。お茶ごちそうさまでした」
 一礼して名前の家を出ると、後を追うようにして名前も利吉と一緒に表へと出てくる。利吉の見送りなのだろうが、今の名前の疲労度を見るに、見送りの気持ち以上に家の中から逃げ出したい気持ちが勝っているのだろうことは明白だった。ぐったりと肩を落として溜息をつく名前は、帰省の道中のきらきらした表情など何処へやら、すっかりくたびれてしまっている。
 見かねて、利吉が声を掛けた。
「少し話をしようか」
 名前の家から山道の入り口までは少し距離がある。折角なのでそこまで名前と共に行くことにした。名前もこっくりと頷き、利吉の隣を歩き出す。
 太陽はすでに西の空に傾き始めていた。抜けるような青空は、端から少しずつ色を変え始めている。カラスの群れが山へと羽ばたき帰ってゆくのが見える。
 氷ノ山はそれほど険しい山ではないが、それでも山道に仕掛けられた幾多もの罠などをかいくぐりながら進まねばならない分、登るとなればそれなりに時間は食う。山頂の自宅につく時間と日の高さを計算しながら、利吉は名前の歩幅に合わせてのんびりと歩いた。名前はすっかり悄然としている。
 ──こっちから何か言ってやるべきだろうか。
 しかし、肝心の言葉を思いつかない。よその家のことに口を出すような真似は極力したくはなかったし、名前と母親の問題は利吉には関係のないことだ。流れで利吉も巻き込まれてはいるものの、あの程度ならば利吉が気分を害するほどではない。利吉自身は無礼なことを言われたわけでもない。
 ──ただ、名前が困っているのを見るのは楽しいものではなかったな。
 と、そんなことを考えながら歩いていると、ふいに名前が利吉の袖を引いた。
「なんだか面倒なことに付き合わせてしまって申し訳ありませんでした……いや本当に、お見苦しいところをお見せしてしまって、恥ずかしい限りです……」
「いや、大丈夫だよ。山登りの前の小休憩にはなったし」
「そう言っていただけると救われます」
 眉を下げて微笑む名前に、利吉は喉元までせり上がってきていた言葉を何とか飲み下した。
 やはりこのことについては、利吉から何かを言うべきではないだろう──そう判断する。そう思ったのは、ひとつには名前と母の問題であるということもそうなのだが、何より名前自身、そこにあまり触れてほしくないようにも見えたからだ。だから、寸前まで発しかけていた言葉を飲み込むんだ利吉はただ、
「しっかりしたお母上だね」
 と、微妙に話の焦点をずらした。利吉の気遣いを察してか、名前もやはり困り顔のままではあるものの、やんわりと微笑んだ。
「しっかりというか、ちゃっかりというか……まあ、昔からああいう人ですよ。悪い人ではないんですけど、今日は利吉さんがいらしていたからいつも以上に元気で」
「たしかに、名前の気性だと相性というか、まあ色々と大変かもしれないね」
 一時であれば受け流すこともできるだろうが、それを四六時中となればさすがに堪えるものがあろうことは想像に難くない。いくら名前が呑気な気質であるといったって、何事も限度がある。
 利吉の言葉に名前はふたたび溜息をついた。
「分かっていただけますか」
「多少はね」
「いや本当、普段はあそこまでではないんですけどね……。暫く帰省していなかったツケに利吉さん同伴という加速がついて、あんなことに……」
 思い出してがっくりきたのか、名前が肩を落とす。その様子を見て、利吉は「頑張りなよ」と言うよりほかになかった。


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