正答の扉(1)

 一晩を旅籠で過ごし、翌朝早くにふたりは再び出発した。朝食を旅籠でとったとき、膳を運んできた女中は利吉と名前の組み合わせを訝し気に見ていった。その視線がふたりの関係を怪しむことであることは明白だったが、名前も利吉もそんなものを気にすることはない。まだあどけなさの抜けない名前と世慣れた風貌の利吉では、世間的に見て釣り合いがとれていないことは当人たちも自覚している。そしてまた、そんなことを気にするほどふたりとも繊細な性格はしていない。
 旅籠を出て、しばらくは道なりに進んでゆく。その道中、他愛もない会話と沈黙を繰り返した。
 手こそ繋いでいないものの、昨日の昼間に比べればふたりの距離感にぎこちなさは少ない。時折腕がぶつかり、視線が絡む。利吉が視線を逸らしたかと思えば、自らの手の甲で名前の手の甲を撫ぜてゆく。
「くすぐったいですよ、利吉さん」
 頬を染め、はにかんで笑った名前が言う。利吉は笑顔のまま、
「何のことだかな」
 と、すっとぼけて見せた。
「私は普通に歩いているだけだけど」
「もう、子どもみたいなことを」
「何だって? これでも私は名前よりも四つも年上だよ」
「あら、たったの四つですよ。そう離れていませんね」
「お、なかなか言うね」
 忍術学園を離れたためか、名前の口調もいくらかくだけ、奔放になっている。利吉相手には目上の者と接する態度を崩さない名前だが、いつもと比べればそれも多少ゆるんでいる。利吉としては、その態度も距離感が近づいたようで好ましく思えた。名前の明るい声を新鮮な気持ちで聴きながら、利吉は一歩一歩踏みしめるように先を急ぐ。

 旅籠での一夜は、色めいた雰囲気にこそならなかったものの、はじめての夜としては上々だった。これまでも利吉と名前は色々な言葉を交わしてきたが、その多くは名前の学園生活についてである。名前の口から昔のこと──利吉にひそかに憧れていたこども時代のことや、それから今に至るまでどのような思いで利吉を見ていたか、そういった話を聞いたのははじめてのことだった。
「好きだとか、そんなことを明確に考えたことはあんまりなかったんですけれども……。でも、やっぱりわたしの初恋は利吉さんですし、ずっとずっと──利吉さんが私のことなんか忘れていらっしゃる間もずっと、私は利吉さんへの憧れを胸に抱いていましたから。そういう意味では、なかなか年季の入った恋心ですよ」
 照れて赤くなった名前の頬を、大きな月が照らしていた。利吉は何と言ったらいいか分からず、ただ頷く。たった十四の娘に言葉を奪われてしまうほど、その告白は利吉にとっては特別なものだった。
「本当は、周りのくノたまの子たちみたいに好い人がいたらよかったのになって思うこともあって……。だって、そういう子たちはきらきらしていて、すごく楽しそうだから。でも、わたしの胸にはいつでも利吉さんがいらしたから……、ほかの男のひとを見ても、素敵だと思うことはあっても好きだなあと思うことはありませんでした」
 年ごろの娘にとって、恋愛がどれほど興味や関心を寄せる対象であるかなど、考えるまでもないことである。そういった話題とは無縁の場所にいた名前が、同年代の娘の中で肩身の狭い思いをしたことは一度や二度のことではない。まして、名前は忍たまともそこそこに交流を持つ異端のポジションにいる。決まった相手はいないながらも、だからこそ堂々と裏表なく忍たまの前で振る舞う名前をよく思わない者だっている。
「でも、こうして利吉さんに好きだと言っていただけて……、なんだかもう、幸せでふわふわしてしまって。報われたとか、そんなことすら思っていられないといいますか。全部、今までいろいろひとりでうじうじ悩んだり、ああでもないこうでもないって考えていたこと、何もかもがどっかに飛んでいってしまったといいますか」
「そうか」
「……はい、そうなんです」
「それはよかった」
 そう返すのが精一杯だった。どんな言葉を口にしたところで、利吉の本心を丸ごと名前に伝えるに足るような言葉を、今の利吉は持っていない。それならばいっそ、余計なことは言いたくなかった。ひとまずの気休めで陳腐な言葉を口にして、自分の気持ちがその程度のものだと名前に思われたくはなかった。
「私も、名前に出会えてよかった」
 利吉の言葉に、名前は嬉しそうに笑んだ。
 その晩は、隣り合った布団に横になり、ただ互いの呼吸の音を聴きながら目を瞑った。ふたりで過ごすはじめての晩であったにも関わらず、名前も利吉も、おかしなくらいにあっさり眠りに落ち──夢も見ず、眠った。

 やがて、いよいよなだらかな山容が間近に迫ってきた。民家はだんだんと疎らになり、代わりに緑が目に付くようになる。忍術学園も山の中にあるものの、やはり香る草のにおいがわずかに違う。
「名前の家は山の麓(ふもと)だったな。とすると、そろそろか」
「そうですね。日によってはこの辺りに野菜を売りに来ていることも……」
 と、名前がきょろきょろと辺りを見回していると。
 数間先から、ぶんぶんと名前たちに向かって手を振る人影があった。その人物はどうやら近くの畑で農作業中だったらしく、籠を地面に置くとぱたぱたと小走りに駆けやってきた。あっという間にふたりのもとまで着くと、日に焼けた顔をくったりと綻ばせた。
「名前!」
「母さん」
 名前を呼ばれ、名前が返事をする。名前と同じくらいの背丈の女性が、土にまみれた手で髪をかきあげ、屈託なく笑った。その表情は、やはり名前の笑顔とよく似た面差しである。
 そして──
「おかえり、遅かったねえ! あんた、もうとっくに夏休みは始まってるんでしょ。それなのにちっとも帰らないんだから。母さんも父さんも途中で何かあったんじゃないかと、そりゃあもう心配してたんだからねっ、分かってんのかい!?」
 その笑顔とは結び付かないような勢いで、名前の母は一気にまくし立てた。名前の隣の利吉が、あんぐりと口を開けて唖然としている。しかしそれも無理からぬことだった。何せ名前とよく似た雰囲気、よく似た面差しから、名前からは聞かれないような早口のお説教が飛び出しているのだ。面食らうなと言う方が無茶な話である。
「ごめんって。アルバイトやら何やら忙しくてなかなかね」
 一方名前は慣れたもので、早速うんざりした顔をしている。こうした顔も忍術学園ではあまり見られるものではないが、今はその物珍しさよりも名前の母親の威勢に意識を奪われる利吉である。
「何かって言うとアルバイト、アルバイトって。勉強はちゃんとしてるの?」
「してるよ。というか母さん、こっちにもこっちの事情があるから」
「だったらちゃんと文のひとつでも寄越しなさい。昔っからあんたはそういうところが物臭なんだから。誰に似たんだかねぇ。まったく、そんなことで立派に女忍者になんてなれるのかね──っと、名前、そちらは?」
 と、名前の母はそこでようやく、名前の横に立つ利吉に目を留めた。利吉も慌てて姿勢を正す。溜息をひとつついてから、名前は利吉に揃えた指先を向けた。
「こちら、山頂の山田さんとこの、利吉さん」
「こんにちは。どうも、ご無沙汰しております。お久し振りです」
 名前の母と言葉を交わした記憶は利吉にはない。しかし一応は「ご近所さん」なのだから、これまでにも恐らく顔を合わせたことくらいはあるだろう。営業用の笑顔を浮かべ、いけしゃあしゃあと利吉は挨拶をした。途端に名前の母の頬がぽっと染まる。
「あらー、山田さんとこの利吉くんかねぇ。まあ、随分大きくなっちゃって、お母さんに似て男前だねえ。昔から別嬪だったけど、はー、男前になっちゃって! 利吉くんとこのお母さんとは最近一緒に陶芸教室に通っててねえ、そこの先生も男前なんだけど、利吉くんの方がもっと男前!」
「か、母さん……! 利吉さんが困っていらっしゃるから」
「誰が困ってるって? ねえ、利吉くん!」
「はあ……はい……」
「母さん!」
 初っ端から飛ばしまくる名前の母の勢いに気圧され、利吉が曖昧な返事をした。
 忍術学園、とりわけ一年は組と交流の深い利吉には、話を聞かない相手との会話も日常茶飯事のことである。しかしただ話を聞かないガキンチョを相手にするのと、凄まじい圧でもって圧倒してくるオバチャンパワーとでは似て非なるものだろう。普段そうした相手と接する機会の少ない利吉にとって、名前の母親は未知の生物にも等しい存在だった。
 一頻り利吉の顔面について捲し立てるように言及した名前の母は、やがて、はたと気が付いたように首を傾げた。
「それで、どうして利吉くんが名前と一緒に」
 その問いには名前が答える。
「利吉さんとは最近学園の方で再会して……、それで少しお付き合いがあるものだから。私が帰省するって言ったらじゃあ一緒にってここまで一緒に来てくださったんだよ」
「しっかりしたお嬢さんとはいえ、女子一人での旅は危ないでしょうから」
 名前の言葉に利吉も調子を合わせる。その紳士然とした対応に、名前の母は感心したように声を上げた。
「へえーえ。そいつはありがたいことだね。忍者のたまごなんて言っても、やっぱ年ごろの娘をひとりで旅させるのはねえ」
「仰る通りです」
「だから、そういう危険に極力あわないようにあんまり帰省しないことにしてるんだよ」
「こらっ、名前! あんたはまたそうやって揚げ足をとる!」
 名前の頭を母親が叩いた。「いたっ」と呻く名前に利吉は苦笑する。こうしていると、どこからどう見てもただの十四の娘だった。
 名前と母親がああだこうだと言い合っているのを後目に、利吉は辺りを見回した。
 この辺りには名前の家と、その祖父母、姉夫婦の畑まですべてまとめて広がっている。けして裕福な家ではないものの、山が近く土地だけは十分以上に所有している。名前の姉の家では先日こどもがうまれたばかりであり、姉はまだ畑には出られない。ゆえに、今畑に出ているのは名前の母親だけであった。父や姉の旦那は、町に収穫した野菜や山菜を売りに行っている。
 ──農作業も忙しい時期だろうし、名前に早く帰ってこいと言うのも分からないではない、か。
 すでに名前の上のきょうだいは皆家を出ているという。少しでも人の手がほしい両親が、名前のことを当てにするのも分からないことではなかった。斯くいう利吉も、実家に帰れば休息もそこそこに働かされる。家を出た子どもの宿命のようなものだろう。
 と、そんなことを考えていると、ふいに利吉の肩に手が置かれた。見るとその手は名前の母のもので、彼女はにこにこと人のよさそうな笑みを利吉に向けている。名前とそっくりのその笑顔に、利吉はうっと言葉を詰まらせた。
「利吉くん、これから山登るんでしょう。その前にうちでちょっと一服していきなさいな」
 途端に名前が横から「ちょっと」と厳しい声を飛ばす。
「いや母さん、そういうのいい、大丈夫だから。利吉さんちゃんと水分摂ってるし、のんびりしてると日が暮れるから」
 名前と利吉が揃って顔を見合わせる。利吉はもちろん、名前だってそんな予定ではなかったのだ。名前の家に大したもてなしの用意があるとも思えない。それならば後日改めて招くなり出向くなりした方が体裁がいいに決まっている。
 しかし一度こうと決めてしまった名前の母には、そんな名前たちの事情などお構いなしだった。
「大丈夫、まだそんな遅い時間じゃないんだから」
「そういうことじゃなくて!」
「狭いところだけど上がっていってちょうだい、ほら行くよ。名前、あんたそこの籠持って。利吉くんもひとつ。男の子なんだから一番大きいのを頼んだよ」
「はあ……」
 半ば無理やりに野菜の入った籠を背負わされ、名前と利吉は揃って顔を見合わせる。しかしこうなっては、もはや止める手立ても為すすべもない。名前が申し訳なさそうに頭を下げ、利吉も頷く。斯くしてふたりは意気揚々と前方を歩く名前の母に続いて、名前の生家へと向かうことにとなったのだった。


prev - index - next
- ナノ -