ゆれる水滴の世界

 一方、利吉はといえば、名前を無事に忍術学園まで送り届けると、その足で次なる仕事先へと向かっていた。
 今回の忍務は戦場で印をとるものだ。とはいえ昼間の戦真っただ中ではなくこうして草木も眠る丑三つ時に行動しているのは、陣の糧や武器火薬の量を探るためであった。夜の間にさっさと調べ、明け方を待たず雇い主に報告をする。これを二日か三日続けるのが、利吉に依頼された今回の忍務であった。
 もともと夜間の働きは忍びの仕事の基本であり、利吉にとってはそう苦にはならない。むしろ昼夜を問わずという仕事ではなく、昼の間はたっぷりと休みをとれるのだから、今回の仕事は楽な仕事の部類に入るだろう。
 それはともかく。
 ──まったく陣中に女を連れ込むなよ。
 そんなことを思ってうんざりとした気分になっているのは、今回の諜報対象──便宜上の「敵将」が、夜更けに女を抱き眠っていたからにほかならない。まったく警戒心が薄いことこの上ないが、そもそも戦の直前、あるいはさなかにはゲン担ぎで女を遠ざけるのが一般的である。それをこうも堂々と連れ込んでいるのだから、利吉が諜報などせずとも、戦の結果は目に見えているような気もする。
 ──こっちは涙を飲んで名前と別れてきているっていうのに、いい気なもんだよ。
 余力のある仕事であるのが災いしてか、知らず識らずのうちに、利吉の思考は色ボケ城主を腐す方向へと転がっていた。生憎とこの場には利吉の思考を止める者も、咎める者もいない。頭に巻いた頭巾からは数刻前まで共にいた名前のかおりを感じるような気がして、飛躍した思考はそのまま、さらに流れて名前との関係のことへと進んでゆく。
 ──ようやく名前も口吸いに慣れてきた頃だし、そろそろ次の段階に進みたいところではあるよなあ……。
 伝蔵との約束を守るため、あるいは名前との交際に後ろ暗いものを持ち込まないためにも、利吉は名前が卒業するまで一線を超えるつもりはない。しかしそれはうっかり名前が身ごもってしまうことを避けるというだけのことであり、逆に言えば子どもを身ごもるようなことさえしなければ、何をしてもいいということでもある。
 ──口吸いだって少しずつ慣らして、ようやく名前の方からしてくれるところまで持って行ったわけだし、そう事を急くつもりもないけど、舌突っ込むくらいはそろそろ許されるかな。
 身体の関係を持たずに女と付き合うなど、利吉にとってははじめてのことである。というより付き合う、恋仲になるということ自体が利吉にとっては新しい試みなのだ。ゆえにその関係の進め方についても、利吉は利吉で探り探りなところがあるのは否めなかった。
 ──でも舌突っ込んだらそれはそれでタガが外れそうな気もする……。今だって結構いろいろいっぱいいっぱいなところはあるし、思ったよりしっかり、名前のことを女として見てしまってるからなぁ……。
 最初こそ独占欲由来の感情で名前に好意を持った利吉だが、今となってはすっかり普通に恋仲の男女である。となれば、いくら我慢すべしと決めてはいても、年齢相応にやりたいことをやりたいとは思ってしまうのは仕方ないことだ。
 とりわけこうして見知らぬ男女の睦みあいの形跡を目の当たりにしたあとなどは、自分も名前のことを思いきり抱き締めて、好き勝手に悦ばせたい欲求にかられる。
 ──名前、早く卒業しないかな。
 考えても詮無いところに思考が行き着き、利吉はひっそりと溜息をついた。
 それから手早く諜報を済ませると、利吉はこの晩の仕事を終了としてさっさと引き上げることにした。夜明けを待つ闇の中をひた走り、雇い主のもとへと向かう。報告まで全て済ませたのは、じき夜も明けるだろうという頃になってからだった。これより先はひとまず、この近辺でよく使っている廃屋に休みに戻る予定である。雇い主からは休憩所を利用しないかとの申し出もあったが、職業柄それは固辞した。
 利吉の隠れ家までは二里ほど離れている。忍びの足ならばけして遠くはない。明け方の寒気に息を吐きだし、白み始めた山を忌々し気に睨んだその時──
「利吉さん?」
 ふいに背後から名前を呼ばれた。たちまち利吉の全身が、臨戦態勢へと移行する。
 いくら移動中とはいえ、今は忍びの仕事のまっただ中である。万が一この戦に利吉が出入りしていることが敵陣に知れれば、余計な火種となりかねない。
 周囲の気配には十分以上に気を配っていた。その利吉が察することができなかったのだから、相手もまた忍びであると考えた方が自然だろう。忍びであれば一目みて利吉の名を言い当てたのにも得心が行く。
 ──荒事は仕事のうちに含まれていないが……。
 場合によっては、荒事も辞さない。そうしなければ利吉の方がまずいことになる。懐の手裏剣にそっと手を伸ばし、利吉は振り返った先にいた男をじっと見据えた。
 そんな利吉を見て、男は「私です」と笑う。しかしその顔に、利吉は見覚えなどなかった。
「……誰だ?」
 低く唸るように問いかける。
「ああ、しまった。この顔じゃ分かりませんよね」
 利吉とは対照的にあっけらかんとした態度の男は、にやりと口角を上げ利吉に笑いかける。そしておもむろに頬へと手を遣ると、いっぺんに顔を──顔を覆っていたその仮面を、外した。
「ですが、この顔ならどうですか」
 仮面の下からあらわれたのは、柔和な青年の笑顔である。その顔には、利吉にも覚えがあった。
「君は、不破雷蔵くん──じゃないな、鉢屋三郎くんの方か」
「御名答、正解です」
 忍術学園五年ろ組の鉢屋三郎が、顔を出した朝日を背景ににんまりと笑った。

 白み始めた山際を目指し、ふたりは足早に進んでいく。
「なるほど、君たちも実習に来ていたのか」
 鉢屋と並んで歩きながらひと通りの説明を受け、利吉は納得したように声をあげた。
 名前たちくノたま五年生が本格的な実習に入ろうとしているのに先駆けて、忍たまの五年生はひと足早く臨地実習に取り掛かっていた。鉢屋たち五年ろ組が、その実習の一番手である。
「本当ならばもう少し大きな戦に潜り込む予定の実習だったらしいのですが、ここのところは何処もかしこも平和ですからね。この戦は大した規模ではないですが、五年生の実習ならばこのくらいでちょうどいいだろうということで」
「戦に大きいも小さいもないさ。実戦はどうだい、やはり座学とは違うかな」
「そうですね……。今のところはとにかく、巻き込まれないようにしながらうまく印をとるのが課題なので」
「巻き込まれないようにっていうのも案外大変だよ」
 ちなみに鉢屋が夜間まで残っていたのは、今回の実習がチームでの実習ではなく個人実習だからだ。先発の不破と竹谷が制限時間ぎりぎりめいっぱい使ったため、鉢屋の実習が後ろの時間にずれ込んでしまったのだった。
 しかし忍びの仕事は本来夜間に行われることの方が多い。ゆえに鉢屋の実習を翌日に持ちこすことはなく、そのまま一足飛びに夜間実習のようになってしまったというのが、鉢屋が今ここにいる経緯である。
 そんな話をしながら、利吉は鉢屋とともに実習の合流地点を目指す。自身の隠れ家へと戻るつもりだった利吉だが、鉢屋から合流地点には監督として伝蔵が出てきていると聞き、ひとこと挨拶を言うために鉢屋についていくことにした。
 すでに戦線からは遠く離れている。そう時を待たずして今日の戦が始まるだろうが、ふたりが巻き込まれることもないだろうから、先を急ぐとはいえふたりとも気楽なものである。
 簡単な仕事だった利吉だけでなく鉢屋まで足取りが軽いのは、実習の成果が思わしいものだったからだろう。
「利吉さんは此度の戦、どちらに分があると思われますか?」
 歩きながら鉢屋が尋ねる。暇つぶしの類の質問だろうが、利吉は眉を下げた。
「そんなこと、私に聞かなくても分かりそうなものだけど。それに私がどっちの陣営に雇われてるのかも察しがついてるんだろ?」
「そりゃあまあ、陣中で堂々と甲冑脱いで女とまぐわってるようなやつに、利吉さんのような忍びを雇おうという頭があるとは思えませんから」
「はは、ということは鉢屋くん、君も見たんだ」
「見たくなくてもあそこまで堂々とされてたら」
 うんざりした顔をする鉢屋に、利吉も苦笑する。本来は自分の雇い主がどこの誰かなど易々と明かせる情報でもないのだが、今回に限ってはわざわざ利吉が口を割らずとも丸わかりである。むしろ中途半端に隠す方が余計な勘繰りを入れられそうな気がして、利吉は鉢屋の言葉を否定することもせず、ただへらりと笑っておいた。
 ようやく合流地点のある山の入口までやってくる。忍術学園は深い山奥にあり、また利吉も山育ちであるため、ふたりとも山に足を踏み入れたくらいのことでは歩調がゆるむこともない。
「こんな山中に合流地点を設置して、夜間待機組はさぞ寒かっただろうな」
「あいつらが昼間の実習で時間食うのが悪いんです。私までさっさと順番が回って終わっていれば、せめて日を跨ぐ前に忍術学園に戻れたかもしれないのに」
 不満げに言うものの、鉢屋は大して本心でもなさそうに笑っている。利吉は鉢屋のことをそうよく知っているわけではないが、それでも多少素直じゃないだけの年齢相応の少年なのだろうと、そんな印象を抱いた。
 ──名前がよく言い負かされているという話を聞いたから、相当弁が立つのかとも思ったけど、単に相性と経験値の差だろうな。
 六年にもなれば最高学年としての自覚もあり、もう少し大人びた者もいるのだろうが、利吉の隣にいる鉢屋は良くも悪くも十四歳の少年でしかなかった。なんとなく、この鉢屋たちに嫉妬心らしきものを抱いていたことが恥ずかしくなってくる。
 自らの大人げなさに利吉がわずかに顔を赤くしていると、
「それにしても、陣中に女を呼ぶ将も将ですが、それでのこのこやってくる女も女だ」
 と、鉢屋がぽつりと発した。どうやら先ほどまでの敵将の話をまだ引きずっているらしい。
 利吉は職業柄、相手が最も無防備になる時間──すなわち床上を狙うことも多く、ゆえに他人の情事を垣間見ることも少なくない。だからいくら陣中で女を抱く将を見たところで、「節度を持てよ」と思う程度だ。
 しかし鉢屋はまだ十四の忍たまである。その上全寮制の学校に十のうちから入っているのだから、そうそう男女の営みを目の当たりにすることも少ない。多感な時期の少年が、忍びよりも身分が上とされる武士の醜態──痴態を盗み見てしまったのだ。そういう意味でも、利吉以上にいろいろと思うところがあるのも当然かもしれない。
「そうは言っても、あの女の方だってもしかしたら同情すべき立場かもしれないよ。だって城主に呼ばれてもそれを無視して行かない、というわけにもいかないだろう。家臣が主君を諫めて然るべきだったとは思うけど」
「それでも、やっぱり女の方も軽率じゃないですか」
「さあ、どうだろうね」
 実際のところ、呼ばれた女と呼んだ男の間にどのような遣り取りが交わされていたのかなど、利吉の知るところではない。ただひとつだけ言えるのは、あのように愚鈍な将に抱かれ、おそらくほかの武家の者からは白い目で見られるだろうことは想像に難くないような行為を断らないという時点で、呼ばれた女の側はおそらく大した身分ではないのだろうということだ。
 そんな低い身分の女が、唯一の後ろ盾である男からの寵愛や庇護を受けられなくなればどうなるか。そういう事情を考えれば、嫌でも従わざるを得ないということだって十分に考えられることだった。
 利吉が何か考え込むように視線を前方へとぼんやり投げかけるのを、鉢屋はじっと眺めていた。やがて、ほとんど独り言のような声量で、
「利吉さん、なんだか丸くなりました?」
 と、尋ねる。
「え?」
「別に私は利吉さんとそう親しいわけではありませんが、印象が変わったというか何というか──」
 それから少し、鉢屋は言葉を探すように宙に視線を彷徨わせた。その仕草は今つけている面の顔もあいまって、不破の仕草にそっくり瓜二つである。すでに不破の所作がまるきり身についていることを表すような無意識の仕草に、利吉はほうと感心した。
 しばらく黙って言葉を探していた鉢屋は、ほどなくしてポンと手を打った。そして、
「そうか、苗字の呑気さにあてられてるんですね」
 と、すっきりした顔で笑った。その清々しさが却ってわざとらしく、利吉は目をすがめて鉢屋を見た。営業スマイルのうさん臭さならば利吉も負けていない。その手の作りこまれた笑顔を見破るすべならば利吉の方が鉢屋よりも一枚上手だった。
「おいおい、あてられてるって……またひどい言いぐさだな」
「それは失礼いたしました。しかしまさか、利吉さんが苗字を選ぶとは思わなかったので、つい」
 つい、という言い方でもない。大方、以前から不思議に思っていたことをこの機に利吉に直接ぶつけたというところだろう。
「私と名前、そんなに不思議な組み合わせかな」
「そりゃあもう。郷が同じなんでしたっけ」
「そうだよ。それを数年後に忍術学園で再会したんだから、これも縁なんだろうね」
「縁ですか……。どちらかといえば苗字の執念の炎の伝え火に利吉さんがうっかり引火したようにも見えますが」
「それならそれで本望だよ」
 打てどもなかなか響かない、名前とはまた別ののらりくらりとした態度に、鉢屋はむっと眉をひそめた。これで利吉から余計な失言でも引き出せれば面白かったのだが、どうやらそう簡単にはいかないらしい。プロと忍たまの間の力量差は計り知れない。
 それと同時に、ここまでの忍びを射止めたのが同窓の名前であるという事実が、鉢屋にはやはり度し難いことのように思えてならない。鉢屋が利吉ならば、たとえ郷が同じ知己であったとしても──いや、知己だからこそ、けして名前なんかを相手にすることはないという確信がある。
 そんな思考が、思わず鉢屋の口から洩れた。
「利吉さんならわざわざくノたまなんかに手を出さずとも、選り取り見取り選びたい放題なんじゃないですか?」
 一瞬、利吉がぽかんとした顔をした。もしや、思いがけないところで利吉の琴線に、あるいは逆鱗に触れてしまったのだろうか──鉢屋の胸に、予期せず不安がよぎる。
 狙って利吉の心情を乱すならともかく、狙ってもいない場面でうろたえられても反応に困るからだ。
 しかし利吉はすぐに持ち直すと、くしゃりと相好を崩した。
「期待を裏切るようで悪いけど、私の私生活なんてそんないいものでもないよ」
 その物言いがあまりにも平常通りだったので、鉢屋はほっと胸を撫でおろす。そしてほっとしついでに、この話をもう少し広げることにした。好奇心は猫を殺すが、鉢屋は幸い猫ではない。
「でも、仕事でも私生活でも、女に困ったりしないでしょう」
「……そういうこと、名前に言わないでくれよ」
「もちろん」
「本当かなぁ……」
 利吉は溜息をつき、鉢屋は笑った。
 年が近く、それでいてフリーの忍者として方々から引く手あまたの利吉は、鉢屋たち上級生の忍たまにとっては分かりやすい憧れであり目標である。忍者としての腕は若くして一流で、その上見た目もいい。普段から垣間見ることができる如才なさもあいまって、利吉が女にモテることは当たり前のように知られていた。
 忍術学園内でも、名前と付き合うまでの利吉はくノたまからある種熱狂的な支持を得ていた。忍たまがくノたまを恋愛の対象として見ることはあっても、くノたまが忍たまを相手にすることは少ない。ゆえにその彼女たちが羨望のまなざしを注ぐ対象となれば、どうしたって利吉は忍たまよりも数段上の存在ということになるのだった。
 たとえくノたまと相容れない立ち位置を貫いている鉢屋であっても、その認識は共有している。また、名前と付かず離れずの距離感を維持し続けているという鉢屋の個人的な事情から見ても、女ながらに「朴訥」と言われることたびたびの名前をその気にさせた男として、やはり一目置いていた。
「しかし選り取り見取りとまではいわずとも、ある程度選択肢の幅をお持ちなのはたしかでしょう。土井先生もそうですが、利吉さんも見たところ仕事にかまけて女子に時間を割くのを後回しにするタイプとお見受けします」
「嫌なお見受けしないでくれよ」
 利吉からの苦言も聞かず、さらに鉢屋は続ける。
「それなのに、わざわざ相手にくノたまの苗字を選んだその心を是非お聞きしたいものですね。そうでなくとも私ならくノたまを好いてやっていける自信なんてありませんから。単純に利吉さんはすごいなとも思って」
 その言葉に、今日はじめて利吉が怪訝そうな顔をした。
「どうしてだい?」
 声をひそめ、利吉は尋ねる。
 鉢屋の言い分では名前個人がどうこうというよりも、くノたまという所属、属性を持つ女子と付き合うこと事態が難儀であると、そう言っているように聞こえる。というより、実際そういうつもりで言っているのだろう。
 たしかに忍たまの鉢屋からしてみればくノたまは油断ならない相手かもしれないが、プロ忍びの利吉にとってはそうではない。彼女たちの罠や手練手管に利吉がうっかりはまってしまうことは有り得ないし、むしろ利吉の仕事に対して理解が深くて助かるくらいだ。実際、名前と付き合ってみて利吉が思ったのは、これまで関係を持った女よりも仕事絡みの話が早くて助かるということだ。
 しかし鉢屋は、「なんだそんなこと」と言わんばかりの視線を利吉に寄越すと、淡々と言葉を放つ。
「だって、場合によっては自分以外の男に身体を明け渡すようにと指導されている女子ですよ。私なら、自分の女子がそんなことを強いられているかもしれないと想像するだけでやりきれなくて、冗談抜きでどうにかなってしまうんじゃないかと思いますよ」
 だから、利吉さんはすごいなと思うんです。
 そう付け加えられた言葉を、しかし利吉は自ら掘り下げにもかかわらず、まともに聞いてはいなかった。
 今しがた鉢屋から放たれた言葉に、不覚にもがんと強く殴られたような、そんな心地がしていたからだ。
 今までだってそのようなことをまるきり考えなかったわけではない。利吉が仕事の一環として女と交わることがある以上、その逆だってあったっておかしくはない。名前は年ごろの娘なのだ。目を見張るような器量よしではなくたって、その若さと従順な気性を好む男はどれほどでもいるだろう。そもそも若ければ、女であれば細かな事に頓着しない者だって多い。
 今の名前が自分の身体にどれほどの価値を見出しているかは利吉にも分からない。しかし利吉の知る範囲でいえば、同じくノ一教室の器量よしの娘たちに気後れし、自分の身体にはあまり自信を持っていないように見える。それでも実戦の場に出さえすれば、自分の身体がいくらにでも有効な手立てとなることを名前も遅からず知るだろう。頭と体の使い方次第で、いくらでも楽に仕事を片付けることができるということを、その身をもって知るに違いない。
 利吉は今まで、これらのことを考えなかったのではない。ただ、努めて考えないようにしていた。名前の身体が自分以外の誰かに侵され穢される可能性を直視したくなくて、考えないようにしていた──逃避していた。
 名前がそんな話をおくびにも出さないから、それに甘えていた。
「たしかに、心穏やかでいられないことは事実だよ」
 極力平静を保って、利吉は静かにそう返す。
 プロの忍者の面目躍如といったところか、利吉の声には一切の震えも動揺も感じられなかった。鉢屋もまた、利吉の内心の動揺には気が付かないまま、
「利吉さんでもやはりそのように思われるんですか」
 と、ただ意外そうに返事をする。
「まあ、そうだね。考えないわけではないかな」
 考えないわけではない。いや、むしろ油断するとその可能性がすぐに利吉の頭の中を席巻する。だからこそ、利吉はその可能性を思考の奥底に押しやったのだ。名前がくノたまであること、くノ一になるつもりでいることと、色をまったくの別物として切り離して考えた。都合よく、思考を捻じ曲げ、隠匿した。
「くノたまも、五年も後半のこの時期からは本格的に実践が始まりますからね」
 再び鉢屋がぽつりと吐き出す。言いながら果たして誰の顔を思い浮かべているのか、その表情には何処か苦々し気なものが滲んでいた。
 利吉もまた、鉢屋の言葉の意味を汲み取れないほど鈍くはない。だから理解してしまった。
 遅からず、名前もまた実践に出るようになる。そしてそうなったとき、名前が自身の手持ちの札のひとつとして自らの肢体を用いないで済む保証はどこにもない。
 ──「名前が、どういう形であれ忍術学園を卒業するまで、名前に手を出すことは許さん」
 数か月前に交わした伝蔵との約束が、ここにきて利吉の心に重くのしかかっていた。
 利吉の腕の中から抜け出した名前が、みすみすほかの誰かに抱かれに行くのかもしれない。そう思うと、利吉はそれだけで鉢屋が言う通りどうにかなってしまいそうな気分になる。名前のためを思えばこそ、今の利吉にはけして触れることのできない箇所、暴くことのできない素肌を、何の躊躇いもなく、何の責任も持つことなく、ただ私欲のためだけに暴くことができる人間がいる。そんな男に、場合によっては名前は自ら自分を差し出す羽目になる。その現実が、耐え難く利吉の心をえぐる。
「つくづく因果な商売ですよね」
 まだ一人前の忍者ですらない鉢屋の独り言は、皮肉にも利吉が認識していた以上に忍びの本質を表していた。


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