崩落のきらめき

 夜、歯磨きを済ませた名前がのんびりと寝支度を整えていると、同室の後輩・松が、名前の敷いたばかりの布団の上に素早く滑り込み正座をした。
「先輩、お話があります」
 まっすぐな瞳に見つめられ、名前もつられて正座をする。松とは先輩後輩の関係だが、気心知れた仲でもある。加えて同室という間柄なのだから、話ならば昼間いつでもできることだ。
 それなのにこの就寝前にわざわざ改まって話があるなどという。だから名前はてっきり、松から何か重大な発表があるのかと、そう思った。しかしそれが名前の勘違いであったことを、いざ正座で向かい合った瞬間に名前は悟った。
 松は爛々と輝かせた目を名前に向けており、それが何かを打ち明けたいと思うものの瞳ではなく、人の秘密を暴きたいと思っている者の瞳であることは明らかだった。
「それで、利吉さんとは一体どこまで進まれたんです?」
 前置きもなく単刀直入に松は切り出した。松と向かい合った瞬間からその手の話になることは分かっていた名前でも、そのあまりにもズバリと切り込むような物言いには一瞬怯む。
「ど、どこまでって」
「あらいやだ、先輩ってばいたいけな後輩に皆まで言わせるつもりですか? 嫁入りを控えた私に、そんなはしたないことを言わせないでくださいよ」
「はしたないことを言わせようとしているのは松の方でしょう」
「あら、はしたないことを仰るのですか」
「言いません」
 ふいと名前がそっぽを向くと、向き合った松が楽しそうに声を殺して笑う。
 机の上に置いた灯りがゆらゆらと揺れていた。今夜のくノ一長屋はしんと静まり返っている。下級生たちは昼間に山越えの長距離走があったらしく、それですっかり疲れてそうそうに床に就いてしまっているのだ。また上級生も、それぞれ実習や何やらで出払っている者が多い。こうして部屋に上級生がふたりとも残っているのは名前と松の一室くらいのものだろう。
 そんな長屋の一室では、松が名前の固く閉ざされた口を開かせようと、一層身を乗り出して話をせがんでいた。
「ふうむ、まあ私の予想ではようやく口吸いに慣れてきたころ、でしょうか」
「えっ」
「うふふ、先輩は分かりやすくていらっしゃる」
 そんなことでは立派なくノ一にはなれませんよ、と後輩とは思えないことを言う松に、名前は顔をしかめる。しかしたしかに、単に座学の成績ならばともかく、実技の評定を見れば、名前よりも一学年下の松の方がすぐれているということもしばしばなのだった。つくづく、嫁とりで退学してしまうのが惜しい後輩だと名前は思う。
 ともあれ、そんな優秀な後輩を前に知らぬ存ぜぬを突き通せるほど、名前はしっかりしていない。それに松には、利吉が名前に会いに忍術学園を訪れてきたときに、気を利かせて部屋の外で時間をつぶしてもらうこともある。名前と利吉の間のことを知る権利があるものを順に並べていけば、名前と利吉の両親の次くらいに名前が挙がるだろうというのが、この松だった。
 そのことは名前もよく承知している。何かにつけて世話になっていることも分かっている。ついでに言えば名前は一学年下の松のことをいたく気に入っており、そういう諸々の事情をすべてひっくるめると、どうしても名前は松には強く出られないのだった。松がそのことを察しているのも、たちが悪い。
 結局、今回も折れたのは名前の方だった。
「もう、みんなには内緒にしてちょうだいよ。ただでさえ『みんなの利吉さん』とお付き合いしているというので何かと根掘り葉掘り聞かれるのだから」
 溜息をつきながらそう言う名前に、松は満足そうににっこりと口の端を持ち上げた。きれいな形の唇が、外の月と同じように弧を描く。
「もちろん誰にも言いませんよ。だって先輩と同室の私だけが知り得る秘密なんて、想像するだけで心がときめきますもの」
「本当にいい性格してるわねえ……」
 呆れて眉を下げた名前にも頓着することなく、「それで」と松は話を続ける。
「それで、利吉さんとの口吸いはどんな風なのです? それはそれはメロメロになってしまうような魅力的で超絶技巧?」
「……そんなことは知りません」
 途端に暗い部屋の中でも分かるほどに顔を赤くして視線をそらす名前に、松は一層笑みを深める。何せこれまで名前からは浮いた話など聞いたことがない。しかし名前は十四、松は十三。互いにそうした話が最も楽しい時期である。名前に恋人ができたというのなら、これまで話せなかった分までじっくりとっくり腰を据えて聞かねばならない。
「あらいやだ、先輩ったら。知らないなんてことないはずですよ。だって唇の薄皮一枚接することですから。いえ、何なら口の中や舌を合わせるわけですから」
「わあわあわあ! これ、松!」
「うふふ。先輩ってば、好い人ができてもやっぱり初々しいんですから」
 顔を赤らめて松を睨む名前に、松は心底愉快そうに言った。
 とはいえ、松とてただ無暗におぼこい先輩のことを揶揄って遊んでいるわけではない。春になれば卒業まで二年を控えた身でありながら、松はこの忍術学園を退学することが決まっている。その前に、放っておけばいつまでもふらふらとしていそうな、人一倍苦労しているわりにはいまいち世間ずれしていない名前のことをきちんと年ごろの娘として「教育」していこうというのが松の思考の根底にはあった。
「まあ、先輩のことをいじめるのはこのくらいにしておきましょう」
「あなた、だんだんと自分が後輩であることを忘れてきていない?」
 居丈高な松のわざとらしい言動に、一周回って名前はくすくすと笑ってしまっている。松のこうした無礼講ともいえるような態度を面白がるところも、松が名前を慕っている所以のひとつである。良くも悪くも、名前には年齢や学年を笠に着るところが少ない。
「先輩は敬うもの、後輩は可愛がられておくものよ」
「そう仰らず。時には後輩が先輩の面倒を見たっていいじゃないですか」
「面倒を見る? いびられている気しかしないわよ」
「まあまあ、そう仰らず。それに私と先輩が同室でいられるのももうあと何か月かのことですよ。少しくらいは大目に見ていただかないと」
「大目に見るかどうか決めるのは私なんだけど?」
「先輩なら大目に見てくださるでしょう?」
「もう……」
 結局こうして丸めこまれてしまう名前だった。嘆息をひとつ、しかしそのわりには嬉しそうに視線を和らげる名前を見て、松もまたほっと胸を撫でおろした。
 松にとっては、ここまでの会話はすべて小手調べのようなものである。松はまだ、真に言いたいことを何ひとつ話してはいない。
 未だ表情をゆるくしている名前に、松はひとつ大きく咳払いをした。部屋に面した夜の庭が、風でもそよいだのか松の咳払いに合わせて何かかさりと音をたてる。
「それにしても──、利吉さんは案外、まじめな方なのですね」
 改まったような、それでいて先ほどまでのくだらない会話の延長を装うとしているような、そんな微妙な緊張を孕んだ松の声に、名前はぴくりと眉を動かす。
 名前と松の同室者としての付き合いはけして長くはない。
 しかし名前はこれでもくノたま五年生だ。後輩が何か言いにくいことを、何重にも包んだ言葉でもって伝えようとしていることを察せないほど、鈍い感性しか持っていないわけでもなかった。
「どういう意味? たしかに利吉さんは真面目でいらっしゃるけれど」
 慎重に、言葉を選んで名前も返す。先ほどまでの気安くくだけた雰囲気は、瞬く間にかすかにぴりぴりと緊迫したものに変わっていた。背中の肌がそわりとするのは、薄く開いた障子の隙間から入ってきた夜風のためだけではあるまい。
 名前の静かな声に、松はごくりと一度息を呑む。
 しかし話を始めてしまった手前、ここで松の方からこの話題を投げ出すことなどできるはずもなかった。
「私はてっきり、お付き合いを始めたら早々に散らされてしまうのではないかと思っておりました」
「散らされるって一体何、を……」
 言いかけて、名前がはっとした顔をした。それからまた、顔を真っ赤にする。今度は先ほどまでの比ではないほど、本当に燃えているかのように真っ赤だった。
「こ、これっ! 松!」
 てっきりまた揶揄われたのだと思った。これまでも松には、真面目な話をしているように見せかけて、その実くだらないことを話しているだけというようなおふざけをされたことが何度もある。まさかここまで緊迫した空気をつくって「いつものおふざけ」をするとは思いもしなかったが、しかし松ならばそういうことだってあるだろう。
 しかし名前が声を荒げても、松はぴたりとして身じろぎひとつしなかった。おふざけを明かすときのように悪戯っぽく笑うこともなく、あるいは茶目っ気たっぷりに舌を出すこともない。はっきりとした目鼻立ちの顔を恐ろしいくらいに真面目な表情で固定したまま、松はじっと名前を見つめていた。
「先輩、私はこんなことを冗談で言ってるわけでも、まして好奇心で掘り下げようとしているのでもありません。だって、若い男女が結ばれたのですよ。松は、本気で先輩と利吉さんのことを案じているんです」
 その真摯な声に、名前もごくりと唾を呑んだ。
「先輩はもうじき本格的に実習が始まりますから。今だって実習には参加されていますけど、長期で行ったきりなかなか戻られなくなるのは、年末あたりからでしょう。ですから、利吉さんとのことはその──その実習が始まるより前に済ませてしまうものかと、思ったのです。というより、そうすべきだと、思って」
「それは……」
 松の低くひそめた声に、名前は気まずげに視線を逸らす。
 その後ろめたいことありげな仕草に、松は小さく息を吐いた。
「もしかして、名前先輩──、利吉さんに仰っていないのですか? 実習の内容について」
「……ええ、まあ」
 松の方を碌に見ようともしないまま、名前はそっと首肯した。

 今学期から名前たち五年生が取り組んでいる実習は、これまでの学内演習で培った技術をいよいよ学外で実践する内容となっている。これまでは半人前の忍たまを相手にしたこと、あるいは監督の山本シナ先生の指導のもとで行っていた実技を、いよいよ自分ひとりの力で実践することになる。
 その実習の内容は多岐にわたるが、そのうちのひとつには男を誑かすものも含まれていた。
 自らの女を利用して仕事をすることは、くノ一にとって基本的な仕事である。ひと口にくノ一といっても向き不向きがあるだろうから、皆が皆そういったことに手を出すわけではない。幻術などを己の武器として用いる者は、そうしたある意味「捨て身」の策をとらなくて済むことだってあるだろう。
 しかし生まれ持ったものを用い、相手を無防備にすることができる合歓の場を利用しないくノ一は、くノ一の中でもきわめて少数派だった。男の忍びには使い得ない有利を捨て去ることは、使えるものは何でも使えと教え込まれる忍びにとって、その教えに反することになるからだ。
 忍術学園は次世代の忍びを養成する教育機関である。とはいえ、そこに在籍する子どもたちは、皆等しく授業料を払って学びに来る者であり、プロの世界とはかけ離れた世界を生きている。だからくノたまの実習においても、さすがに身体を使うことを授業として強要することはない。
 しかし場合によってはそのようなこと──自らの身体を用いて生き延びることが必要となることもある、というのがくノ一教室、ひいては忍術学園の姿勢であった。臨地実習に出ている以上、そこで何が起こるかを確実に予期することは不可能である。時によっては命すら危うくなるような実習に参加する以上、そこには相応の覚悟が求められる。
 どんなことが起こっても、自分の命を守るのは自分自身。その際、個人の判断でそういった手段を用いることは容認されていた。毎年、数少ないくノたま上級生たちのうち、少なくない割合の人間がそこで春を散らすこととなる──そんな話はくノたまも三年生を過ぎた頃になれば嫌でも聞かされる。
 名前もまた、三年生の夏の頃にそういう話を聞かされた。すでに行儀見習いではなくくノ一志望であることを決めていた名前には、同じくくノ一志望の上級生から、噂ではなく直々に話があった。
 元々そうした話題には疎い名前にとって、上級生から聞かされるその話は、いずれ自らの身に起こりうることであると同時に、何か遠い世界の物語のようでもあった。好いた者にすべき行為を、状況によっては殺すつもりの男とともにする。媚び、阿(おもね)り、愛嬌をふりまいて見せる。生きるために必要とあらば、己の純潔すら捨てる。それがくノ一を志す者の覚悟だった。
 名前は今、あの頃聞いた話と同じような状況に自分が陥るかもしれないという、ぎりぎりの瀬戸際まできている。次の実習で命を落とすことがあるかもしれない、もしも無事に戻ってこられたとしても、忍術学園を出たときの自分からは何かを欠いて戻ることになるかもしれない──そんな、明日をもしれぬ場所にひとりで立っている。
 あの頃名前にくノたまが春を散らす話をした先輩は、一体どうなったのだろうか。何も失うことなく卒業をしたのだっけ。それとも、何かを失って、それでもくノ一として生きるべく学園を卒業していったのだっけ。名前はもう忘れてしまった──今まで、思い出さないようにしていたから。考えないようにしていたから。
 顔も忘れてしまった先輩のことで覚えているのは、やさしい手で名前の手を握ってくれたことだけだ。厳しい話をしながらずっと、名前を安心させるために手を握っていてくれた先輩の手の温度だけを思い出しながら、名前はゆっくりと口を開いた。
「大丈夫よ。だって利吉さんはプロの忍びだもの。手段のひとつとして男女が交わることと、愛情の発露としての恋人同士の交わりが別物であることを、利吉さんはちゃんと分かっていらっしゃるはずです」
「そりゃあ利吉さんはそうでしょう。ご自身だってこれまで泣かせた女は数知れずの百戦錬磨でしょうし……いえ、失礼いたしました。これは先輩の前で言うには不適切な言葉選びでした」
「いえ、大丈夫。私だってそのくらいのことは分かっている」
 無理矢理に笑顔をつくって、名前は笑った。
 そうすべきだと思ったから、だから気丈に、笑って見せた。
「利吉さんは、公私を上手に使い分けられる方よ。仕事とあらば、私のことを切り離して考えて、女のひとと共寝をすることもあるでしょう。それに、忍びだもの、使えるものは何でも使うのは当たり前のことだわ」
 まして、男の利吉には負うべき責任も被るかもしれないリスクも、いずれも各段に名前たちくノ一より少なく済む。手っ取り早く相手の懐に入り込む術として、そうした技を使わない手はなかった。現に利吉は、名前の前でその手段を否定するようなことはしなかった。口先だけでも否定しないのは、そこに疚しさがないからこそだ。
 ふいに、以前利吉から香った女物の香のにおいを思い出す。あの時、利吉は直前まで女装をしていたためににおいが残っていたからだと言っていたし、名前もそれを信じた。
 しかしそれはあくまで利吉の言った言葉を名前が信じたというだけだ。実際のところ、その時何があって利吉が女のにおいを纏っていたのかなど、今となっては名前に知るすべはない。
 名前がけして触れることのない、利吉の男の部分に触れることを許された、誰か。そんな女がこの世界のどこかにいたとしても、それは何ら不思議なことではない。
 そんな名前の思考を破るように、
「大切にしていただけるのは大いに結構だと思います」
 松が再び口を開いた。
「私だって、先輩がくノたまでなければこんなことは言いません」
「でも、利吉さんは──」
「だから、問題は利吉さんじゃなくて先輩なのですよ。利吉さんの都合など、この際捨て置いてもいいのです。だって私は利吉さんのことなんかどうだっていいんですから。私が気にかけているのは、先輩がどう思われ、何を感じられるかです。私にとって大切なのは、ただそれだけ」
 胸の内にたまっていた感情を吐き出すように、松は一気にまくし立てた。
 障子の隙間から入りこんだ秋の夜の空気が、重苦しくふたりの部屋を満たしていく。
 松は一度視線を伏せる。膝の上にそろえた両手は、小さくちいさく震えていた。
 次に視線を上げたとき、松は相対した名前の顔を泣きそうな顔をして覗き込んだ。
「先輩はいいのですか? 大切なはじめてを、大切な利吉さんではなく何処ぞの誰かに奪われてしまうかもしれないのに。利吉さんにも知られていないところを、まだ知りもしない何処かの誰かに真っ先に知られてしまうかもしれないのに」
「……それは」
「先輩がくノ一を目指して卒業まで学園に残ることは存じ上げております。だからこそ、僭越ながらこうして申し上げているのですよ。先輩は利吉さんに抱いていただくべきです。そうでなくては、だって──、つらすぎるじゃないですか」
 もはや名前は返す言葉を失っていた。
 松の言葉はきっと、くノ一になる道を歩まない者の甘ったれた考えだ。名前は今それを無責任に押し付けられているに過ぎない。しかし、後輩からのその無責任さこそが、今は何よりも愛おしかった。
 名前は正座をしていた足をそっと崩すと、ゆっくりと松の手を握った。
「ありがとう、松。私のことを思ってくれて、ありがとう」
 洟をすする松の手の温度をたしかめながら、名前は三年生の夏の日のことを想起する。
 あの時、話をしながら名前の手を握ってくれた先輩は、名前を安心させるためだけに手を握ったのではないことを今更知った。
 きっとあの先輩もまた、まだ何も失っていない後輩の手をとることで、その温度をよすがにしたくて手を握っていたのだ。冷たく暗い忍びの世界に足を踏み入れるとき、つらい時間をその温度を思い出してやり過ごすために手を握っていたのだ。
 そのことに気付き、名前はどうしようもなく悲しくなる。あの時先輩に、松のように言葉を掛けてやれなかったことを心底悔やんだ。


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