蜜月の琥珀

 利吉との関係はじりじりと進んでいる名前だったが、しかしながら何もかもが順風満帆というわけにもいかない。目下頭を悩ませているのが、目の前に控えた就職活動についてだった。
 実のところ、今年のくノ一教室で就職活動をしているのは名前ただひとりである。ほかにもくノ一志望の同級生はいるのだが、いずれも縁故入職が決まっている。名前のように身内に何のコネも縁もなくくノ一を目指そうと言う女子はくノ一教室でも稀な存在なのだった。
「はあ……」
 本日数度目の溜め息が名前の口からもれる。すぐそばにあぐらをかいた利吉が苦笑したので、慌てて名前は手で口を押えた。完全に無意識のこととはいえ、恋人とふたりきりのときに溜息を連発するなど無礼もいいところだ。
「すみません……」
 口を手で覆ったまま小声で謝ると、利吉は「気にしてないよ」とやはり苦笑まじりに答えた。
 今ふたりが顔を合わせているのは忍術学園の裏々山にあるお堂の中である。裏山と比べるとところどころ険しい山道の続く裏々山は、しかしそれだけに一般人の立ち入りが少ない。このお堂も数年前から人の手が碌に入っておらず、それをいいことに利吉は、ここを勝手に各地にある塒(ねぐら)のひとつに数えていた。裏々山は忍術学園の支配地域に含まれる。ゆえになかなかよその勢力が寄り付かないことも、忍術学園と懇意にしている利吉にとっては都合がよかった。
 名前と付き合い始めてからは、こうして逢瀬のためにも利用している。毎度利吉を学園に招いて顔を合わせるのは申し訳ない上に、周囲の目もあって何かと面倒である。その点忍術学園から遠すぎず近すぎずという距離にあるこのお堂は、そうそう遠出もできない名前にとってもありがたかった。
 溜息こそ止んだものの、依然として名前の表情は物憂げである。これはこれで可愛らしいとも思う利吉だが、やはり憂い顔よりは笑顔を見たい。進路のことについてはこれといって有用な助言をできるわけではないと分かりながらも、
「別に今すぐに仕え先の城を決めなければならないということもないのだろう?」
 と、ひとまず慰めのような言葉を口にした。ついでに名前の肩に腕を回して抱き寄せると、名前は存外素直に利吉に身体をあずける。慣れてきたのか、それとも進路の悩みで頭がいっぱいでそれどころではないのか──いずれにせよ、利吉にとっては抵抗が少ない方がありがたいので、これに関しては何も言わずに堪能することにした。
「それはまあ、そうなんですけれども」
 と、名前が返す返事もどこか心ここにあらずである。
「実を申しますと、郷の母から卒業後は実家に帰ってくるのかどうなのか、というような文が引っ切り無しに届いておりまして。どうやらこの間利吉さんとのことを明かしたのが契機になって、母の中に今更ながらに私の行く末を案じる何かが芽生えたようなのです」
「え? 恋人がいると分かって逆に案じ始めちゃったの?」
 渋い顔をして名前が頷く。普通ならば嫁の貰い手がないときにこそ焦り、反対に好い人がいるのならば安心だと放っておいてくれそうなものだが、名前の親はどうやらそういう世間一般の感覚とは微妙にずれているらしい。
「私のこと、『あの子はしょうがないから』って諦めていたところに、利吉さんという新たな可能性を見てしまったことで何かが再燃しているような感じですね、多分。これは人並みに娘を嫁にやる希望を持ってもいいかもしれないぞと思っていると言うか……」
「そうか……。それは名前に悪いことをしたかな」
「ああ、いえ。けしてそういうつもりで言っているわけではないのですけれども」
 というより、名前からしてみれば利吉に変に気を遣わせることになりかねない事態こそが嫌で気が滅入るというのもある。何せ名前と利吉は郷が同じであり、親同士が同じ陶芸教室に通う仲なのだ。親同士の間で一体どのような遣り取りが交わされるかも分からず、うっかりすると当事者である名前と利吉をそっちのけで話が進んでしまう可能性だってある。
 もちろん利吉は利吉で腹の底ではいつでも名前のことを嫁にもらおうという気持ちが固まっているので、親同士が猫の子供をあげたりもらったりするような感覚で名前と利吉をまとめようとしていたとしても、これといって困ることは何もない。むしろ外堀が勝手に埋まってくれれば儲けものなくらいだ。
 しかしさすがにこの状況でそこまで無神経な事を言えるはずもなく、利吉はただ神妙な顔で頷くにとどめた。それから助け船を出すように、
「といっても、こっちで就職を探すつもりなら、どのみち故郷には帰れないだろ。就職活動の方はどんな感じなんだ?」
 と、尋ねる。故郷に戻るという選択をした場合、名前の年齢から言っても待っているのは結婚であることは言うまでもない。くノ一としての勤め先など、氷ノ山の山奥にあるはずもない。
「あれからほかの城も色々と見に行ってはいるんですけど、いまいちどうにも心が決まらないと言いますか」
「それはあれかい? 結局のところそもそもくノ一になりたいかどうかが分からないから、そこから先の具体的な話を詰めていくことができないというような」
「それも、ありますけど……」
 名前は言いよどみ、それきり口を閉ざした。
 利吉の言う通り、たしかに名前はくノ一になりたいのかどうかという根本的な、しかしそれでいて何よりも重要な問題にぶち当たっていたはずである。しかし母から引っ切り無しに送られてくる文を見るたび──正確にはそこに書き添えられた姉家族の様子を知るたびに、だんだんと名前の中で抱えられた悩みが変質していくのを感じていた。
 両親も姉も、すでに家を出た上の兄二人も、みな名前が卒業次第故郷に戻ってくることを望んでいる。故郷に戻り、人並みに夫を持ち支え、子どもを持つことを望んでいる。そんな未来が嫌で家を飛び出した名前だから、今更そんなことを言われたところでそうそう心変わりするはずもなく、本来であればその手紙だって読まずに突っぱねることだってできた。実際これまでの四年間、名前はそうして生家と距離をとることで学業と鍛錬にまい進してきた。
 けれど今は違う。今の名前は利吉と再会し、あまつさえ心を通わせている。長年思い続けてきた利吉に愛され、幸福の真っただ中にいる。利吉とであれば、夫婦になってもいいかもしれない──夫婦になりたいとすら思っている。
 利吉と結ばれてしまったことで、名前は新しく手に入れたい未来を増やしてしまった。その未来はあまりにも甘くきらきらとして見えて、そして間違いなく幸福だ。果たしてその幸福な未来を手に入れるのを後回しにしてまで、自分が本当にくノ一になりたいのか、本当にそんなことを望んでいるのか、名前にはもうそれが分からなくなっている。逆に、これまでの四年間の鍛錬を水の泡にしてしまうかもしれない選択を、恋心という忍びにとって敵ともいうべき感情ゆえに選んでいいものか、一向に心が決まらないでいる。
 本当に自分はくノ一になりたいのかという命題は、いつしか本当に平凡な幸せの道を諦めてもいいのかという新しい悩みにすげ変わっていた。
 もちろんそれは名前だけの問題ではない。平凡な幸せ──すなわち人の妻となり母となるのであれば、当然それには相手が必要になる。そしてその相手には利吉以外に当てはない。利吉を相手に据えた未来絵図だからこそ、こうも悩んでいるとも言える。
 畢竟、利吉と出会ってしまったから、名前はここまで悩んでいるのだ。自分の四年以上と、そこに費やした労力と金──それを棒に振る選択肢。自分の心の在処が分からず、名前は困り果てている。いっそ誰かが決めてくれたら、利吉が道を示してくれたら──そんなふうにすがりたくなるのを、名前はすんでのところで堪えていた。
 それだけは、絶対にしてはいけないことだと分かっていたから。
 自分の心を他人にゆだねてはならない、自分の心の置き場所を他人に決めさせてはならないことを、名前はくノたま五年生としてよくよく理解していた。
 そんな名前を見て、利吉は抱き寄せた腕にそっと力を込める。
「もしかして、抱えている悩みは進路のことだけじゃないのかな」
 その言葉に、名前が驚いたように身体を離し、利吉を見た。ぱちくりと瞬きをして見つめる顔はまったく忍びらしさの欠片もなく、利吉は思わず忍び笑いを洩らす。
「えっ、り、利吉さん、どうしてそう思われるのですか……?」
「なんとなくだけどね。名前は真面目だけど、半面結構適当なところもあるだろ? だからまだ一年以上先の卒業後のことだけを悩んでいるのなら、もしかしてここまで深刻になって悩まないんじゃないかなって、ふとそう思っただけだよ」
 ただ就職先に悩んでいるだけだというのなら、六年生になってから本格的に動き出したところで遅いことは何もない。何せこの戦乱の世、今栄華を誇る勢力が明日には他勢力からの猛攻を受けて潰えることだって珍しくはないのだ。あまり早く就職を決め過ぎても、いざ就職の段となって城が落ちているなどということも有り得ない話ではない。
「だから就職のこと以外にも、何か気がかりがあるのかなと思ったというわけ」
「すごい……さすが利吉さん……」
 はあ、と本気で感心した顔をして尊敬のまなざしを向ける名前に、利吉はむくむくと心が満たされてゆくのを感じる。日頃忍たまからちやほやされることの多い利吉だが、好いた女に尊敬されるというのはそれはそれで別格だった。
 いい気分になったところで、いい気分のまま利吉は言う。
「よければ私が聞こうか。進路のことでは大して役に立てなかったけど、ほかのことならもしかしたら何か助言ができるかもしれないよ」
 しかしこれに対する名前の反応は、けして芳しいといえるものではなかった。
「え、あ、いや……」
 あからさまに返事を返しあぐねる名前に、利吉は思わず眉をひそめる。先日の口吸いを拒絶されたときといい、利吉がいけると思った時に限って名前はしどろもどろになりながら、しかし断固として利吉を拒む傾向にある。
「ええと……そうですね……。その、いや何と申しますか、こういうことは女子特有の問題のようなものなので、利吉さんには相談しづらいと申しますか」
「女子特有?」
「そう言っても差し支えないような内容かと……なので、その、山本先生に相談しようかどうしようかと思っていたわけで」
「ふうん、山本先生にねえ」
「……はい」
 それも本当かどうか疑わしい。くノ一教室担任の山本シナ先生が名前と良好な関係を築いていることは利吉も知っているものの、だからといって利吉に話せないような「女子特有」の個人的な悩み事を相談するほど、名前と山本先生が親密な関係だとは思い難い。山本先生はけしてそういうタイプではない。
 ──これは何か、隠し事があるな。
 そう思いつつ、利吉は注意深く名前の様子を窺った。慣れない嘘をついた手前か、名前はまだおたおたとして挙動不審である。先日の利吉の女のにおい事件のときには森で出くわした利吉に対して何とも堂々とした嘘をつき通した名前だったが、このような土壇場で、しかもくだらない嘘をつくときほどボロが出やすいらしい。嘘ひとつ吐くにも腹をくくって覚悟を決めないと碌なことにならないというのも、名前らしいといえば名前らしい。
 ──というか、こうして私に肩を抱かれているというのに、随分と無防備だよな。
 ふとそんなことを思う利吉である。利吉が年ごろの男である以上、嘘をつかれたことよりも今まさに着物ごしに感じる名前の体温の方に注意を奪われるのも、ある意味では仕方がないことだ。
 そもそも名前がぼんやりしている隙に今の格好になったというのもあるが、それにしても一度身体を離しておきながら、まんまとこうして再び肩を抱かれているのだ。ふたりきりとはいえ、名前の警戒心が薄いにもほどがある。
 ──むしろふたりきりだからこそ本来警戒しなければならないのに。
「名前」
 唐突に利吉が名前の名を呼んだ。嘘をついている後ろめたさからか、名前は床に向けていた視線を上げ、弾かれたように利吉の顔を見上げた。
 その瞬間、名前のくちびるに利吉のくちびるが重なった。
 利吉の腕はしっかりと名前の肩とうなじを捕まえている。ぴったりと重ねられたくちびるは、しばらくその感覚をたしかめるようにしてから、やがてゆっくりと離れた。
 名前の視界には、満足そうな顔をした利吉の笑顔がうつっている。
「な、ななな、何を」
「いや、隙だらけだったから。可愛いなーと思って、つい」
「は、はあ……」
 答えになっていない答えを糺(ただ)す余力もなく、名前は目をまん丸にしたまま固まっていた。うなじには利吉の手がまだ添えられている。このままぼんやりしていては追撃が来ないとも限らないのに、そこまで頭を回す余裕すらなかった。今はただ、利吉に奪われたくちびるの感覚だけがやけに鮮明な感覚として、名前の胸をいっぱいにしてゆく。
 そうして茫然としている名前を、利吉は愉快そうに眺めていた。前回のことがあるから怒られるかもしれないと覚悟していたが、ひとまずその心配はなさそうである。それどころか何が何だかというような顔をしている名前を見ていると、何となくいじめ足りない──もとい愛し足りないような気すらしてくる。
 ひとまず利吉は、今か今かと疼き続ける胸を見て見ぬふりして、名前に尋ねた。
「それで、何を悩んでいたの」
 ぼんやりしている今ならば、うっかり名前も口を滑らせてくれるかもしれない。そんな下心ゆえの質問だったが、しかし名前の答えは思いがけないものだった。
「……」
「名前?」
「わ、」
「わ?」
「忘れてしまいました……あんまりびっくりしたものだから……」
 茫然として言う名前に、思わず利吉は噴き出す。
「ぶふっ、君」
「わ、笑わないでくださいよ! だ、だって仕方ないじゃないですか、はじめてのことですし! 心の準備だってできてないし……!」
 ようやく調子を取り戻し始めたのか、それでもまだ動揺を押し殺せていない口調で名前が言い募る。利吉からしてみればそんな抗議は煽られているようなものなのだが、当の名前にはその自覚は全くなかった。顔を真っ赤にして、いかにも憤慨していますという顔を利吉に向けている。
 ──あー、可愛いな。
 心の中でたまらず吐き出して、それから利吉は再び名前を引き寄せた。ふたりの体勢は先ほどとまったく変わりない。だから利吉は、好きな時にいつでも名前のことを襲える。
「分かった。忘れてしまったのなら仕方ない。それじゃあ今から二度目をするからね。今度はもう心の準備ができているね」
「えっ」
「口吸いで驚いて、何を悩んでいたのか忘れてしまったんだろう。だったらもう一度同じことをすれば思い出せるかも」
「そ、そんな無茶苦茶なことがありますか……!?」
「あるかもしれない。試してみよう」
 言うなりずいっと名前に顔を寄せた利吉は、名前の必死の「待って、待って」をいとも容易く封殺した。


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