明露(3)

「でも、なんというか……それは……」
 再び視線を伏せた名前に利吉が眉をひそめる。
「何、どうかした?」
「あの……こう言っては利吉さんの言葉を否定するように聞こえてしまうかもしれないんですけど……善い人ぶって親切を振り撒いて、そのくせちゃっかり見返りを求めている人って、なんだか浅ましいと思われませんか?」
 物腰は引けているわりにやけに具体的な描写をする名前に、利吉は優しく問い返す。
「そういう人に心当たりがあるの?」
「違うんですけど……いや、違うとも言い切れないんですけど……」
 もごもごと口の中でだけ言葉を連ねる名前のしかめ面を眺め、利吉は察した。名前が言っている「善い人ぶって親切を振り撒いて、そのくせちゃっかり見返りを求めている人」というのは、他ならぬ名前自身の言葉なのだ。鉢屋との遣り取りを知らない利吉には、一体名前がどのような思考の過程を経てその悩みにぶち当たっているのかまでは分からない。しかし名前の様子と先ほどからの言動から察するに、名前がこれまでの自分の行いと、その行いの根源にある感情について思い悩んでいるのだろうことは理解ができた。
 ──さて、どうしたものかな。
 ふうむと顎に手を当て、利吉はひっそりと思案した。隣の名前は暗澹たる面持ちをしており、放っておけばいつまででも勝手に沈んでいきそうですらある。乗り掛かった舟──というわけではないが、すぐそばでその様子を観察している者としては、どうにかこうにか底知れない思考の沼から引き上げてやりたいのが、利吉の親心ならぬ兄貴心のようなものであった。
 先ほど名前に話した「何かあったら助けてあげたい」という利吉の言葉には、一点の疑いの余地すらない。名前に悩みがあるのなら、自分がそれを解決するための一助となればいい──利吉はそう考えていた。年頃の娘がどのような悩みを抱くものかは測りかねるが、とはいえくノたまとしての進路の悩みであれば利吉にもそれなりに助言が可能である。名前が抱えている悩みというのも、てっきりその類のものなのだろうと利吉は思っていた。
 ──しかしこれは、存外根深く真面目な話だ。
 何せ名前の優しさや呑気で気楽な気質というのは、もう名前の骨の髄までしっかりとしみ込んだ気質なのだ。一朝一夕に身に着けた付け焼刃の性質ではない。その気質を疑い、厭いすらするということは、名前の根幹を形成する何某かを問うことでもあった。
 ──名前が欲しい言葉は、何となく分かるけれど、でもそれは、きっと正しい言葉ではないのだろう。
 偽善と善とでは違うものなのだとでも言ってやれば、名前はきっと満足するに違いない。何せ名前自身が今まさにそう思い込み、悩んでいるのだ。自分の行いが本心からの善ではなかったからこそ、名前はこうも悩み、藻掻いている。その悩みを肯定してやれば、名前はきっと納得する。そうしていずれ、時間はかかるかもしれないが、自分は偽善者なのだと納得して生きてゆく。それはそれで不都合も不自由も、不利益もない。
 けれど利吉には、そうして名前を楽にしてやるつもりなど毛頭なかった。
 何故ならそれは、利吉にとっての本心、事実と異なっている。利吉にとっての善や偽善は、そんなふうにきっぱりと分かれ相入れないものなどではない。
 利吉はそっと息を吸う。重たい夏の空気が、ゆっくりと利吉の胸を膨らませた。
「これはあくまで、忍びとして数年身を立ててきた私だから思うことかもしれないけど……結局、人に何かをすることに限らず、何かを為したときに大切なのはその『結果』だというのが私の持論かな。だから別にその動機が純粋だろうと不純だろうと、大した問題ではないと思う。受け取る側からしてみればそこに大きな違いはないんじゃないかな」
「結果……」
 名前が小さく反芻する。利吉は浅く頷いた。
「うん。大切なのはどう動いて、その結果何が起きたか、何が生まれたかだよ。善人が頑張ったけど成果は得られませんでしたっていうのと、悪人がそこそこに手がけてうまく成果を得たのなら、私は後者の方が意味があることだと思う」
「それは……あんまり納得できないんですけれど」
「名前はまだくノたまだからね。でも忍びの世界なんてこんなものだと思うよ。そして私はプロの忍びだから、この道理と理屈で物を考えているというわけ」
 利吉の生きる世界の理は常にシンプルだ。「何をなしたか」──それだけが仕事の結果として報告できるすべてである。逆に言えば、その結果を得るためにどのような手段を用いようが、そんなことはまったく何の問題にもならない。時には卑怯な手段を使ってでも結果を手に入れる──それが利吉の仕事である。
 だから同じことを名前にも思う。善だろうが偽善だろうが、そこに大きな差はない。その差を重要に思うのはいつでも為した側であり、施された側にとってはその行為に差など存在しない──少なくとも、利吉はそう思うし、そう名前に伝えるつもりでいる。名前が利吉に施した物ごとに下心があったとして、利吉はそんなことを欠片も気にするつもりはないのだと。
「見返りを求めたっていいんだよ。大体、そんなものは求めたところで必ずしも与えられるものでもないし。見返りを求めて親切にしたとき、相手が仮に何かを与えてくれたとしたら、それはその『してあげた』ことに感謝したからだ。見返りを求める不純な動機だろうと何だろうと、そんなものは関係ない。相手が名前に何かをしてもらい、その結果名前に対して感謝し、お返しをしたくなった。だからお返しをした──それでいいんじゃないかな」
「……利吉さんは、そういうふうに物をお考えなのですね」
「うん。損得勘定と利害で動いているようなものだから」
 名前がそこに差し挟もうとしているのは、感情という目に見えず漠然として、曖昧で流動的なものである。そんなものを仕事に持ち込んでいては、いつまで経ってもプロの仕事はできない。もちろん仕事の中で相手の感情に訴えかけ利用することはあるが、それはあくまでも手段のひとつである。目的や報酬に感情は含まれない。感情では日々の糧を得ることはできない。
「まあ、これはあくまでも私の考え方というだけだから。名前の求める考え方を持つ人間だって世の中にはきっといるのだろうし、それが間違っているとも思わない。ただ、私は名前から受けたやさしさを偽善だなんて思ったことは一度もないよ。もしも君がそれを偽善だと思ったとしても、私がどう思うかまでは名前には決められないことだしね」
 そう言って微笑んだ利吉の顔を、名前はじっと見つめていた。何も言わず、指ひとつ動かさず、ただじっと見つめていた。名前の中で何かを比較し、分解し構築している最中なのだろう──そう理解した利吉は、やはり何も言わずに名前が何か言葉を発するのを待つ。
 やがて何度目かの名前のまばたきの後、名前は静かに、
「ありがとうございます」
 と、短く口にした。ありきたりな感謝の言葉に、利吉は満足そうにうなずく。名前のたった数文字の言葉の裏にどれほどの感情と思いがあるのか、すぐそばでその言葉を受け取った利吉には十分すぎるほどに伝わっていた。
 心なしか晴れた表情をした名前は、ゆっくりとした動作で立ち上がる。空を見上げれば、気が付かない間に随分と雲が流れていた。思いのほか長く休憩をしてしまったらしい。
 まだ何かを考えながら薬草園へと向かう名前の後ろを歩きながら、利吉はふと悪戯っぽい笑みを浮かべた。ぼんやりと考え事をしている名前に向かって、
「ちなみに、名前は私の世話を焼いたことにどんな見返りを求めているんだい?」
 と、いたって真面目な声音で尋ねる。
「それは……」 
 うっかり釣られるように答えかけ、しかし名前ははっとする。先ほどまでの会話において、名前は一度も自分の話だなどとは打ち明けていないはずである。自分がそんな悩みを抱いていることを利吉に知られるなど、名前からすれば耐えがたいことだった。
「り、利吉さん! さては今の話、全部わたしのことだと気付いて!?」
 勢いよく振り返った真っ赤な顔の名前に、利吉はさらににやりと意地悪い笑みを深める。
「やっぱりそうだったか」
「あっ、か、かまを掛けましたね!?」
「君もまだまだだな」
 そう言って頭巾の上からぐしゃりと頭を撫でた利吉は、満足そうに笑ったまま名前を追い越す。慌てて後を追いかける名前は、足取り軽く跳ねるように駆ける。先ほどまで名前の胸にわだかまっていたぐずぐずとした感情は、すべてとは言わずともその大部分が消失していた。許されたような、そんな軽やかな気持ちで名前は利吉の後を追った。


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