明露(2)

「名前?」
 その声に、名前は知らず地面に向いていた視線を上げる。見ると利吉が心配そうな顔で名前の顔を覗き込んでいた。その顔を見て、ようやく曖昧にぼけていた感覚が全身にじわじわと戻ってくる。思考に集中していたあらゆる感覚が、全身へと帰ってゆく。名前は背中だけでなく、いつの間にか全身が汗でぐっしょりと濡れていることにようやく気が付いた。燦々と照る太陽は凶悪なほどに容赦なくふたりを焼いてゆく。
「やっぱりあんまり調子が良くないんじゃないのか。ぼんやりしてる」
 名前の額に、利吉がそっと指を伸ばした。しかし名前は咄嗟に体を引いて、伸ばされたその指先を避ける──避けてしまってから、己の行動に愕然とした。数日前、利吉が忍術学園にやってきたばかりの頃にははにかみながらも受け入れた指先を、今の名前は素直に受け入れることができなかった。利吉にただ触れられるということにすら、躊躇いを感じてしまっている。
 利吉に触れてもらえるような人間だと、自分のことをそう思えない。
 しかし名前の内心での困惑と葛藤は、利吉の知るところではない。避けられるとは思っていなかった利吉は、当然驚いたように名前を見る。その視線に余計に居た堪れなくなって、名前は思わず俯き謝った。
「あの……、すみません」
「謝ってほしいわけじゃないけど。体調が悪いなら無理せず正直に言ってほしいだけだよ」
 指先を避けたことには触れず、利吉は言った。名前もそれに合わせるように、
「陽が強いからですかね」
 と、相槌を打つ。こわばった名前の声音に、利吉はそっと息を吐いた。
「少し木陰で休もうか。薬草園に入ってからもう四半刻くらいは経っただろうし」
「いえ、でももう少し──」
「私も病み上がりで無理をしたくないんだよね」
 やんわりと、しかしはっきりと利吉に言われ、名前はそれ以上何を言うことも許されなかった。しばしそっと地面に視線を落とした後、ほとんど諦めるような──あるいは何かを堪えるような表情で、顎を引いた。
「……わかりました、じゃあちょっと休憩にしましょうか」
「助かるよ。すまないね、私のために」
「……いえ」
 名前は視線を伏したまま返事をする。
 利吉のため──そんな大義名分がないと何一つ踏み出すことができない自分に嫌気がさす。利吉のためと言われると、何も言えなくなる自分の浅ましさに落胆する。けれど一番は、自分のためのことですら、自分のためだと認められない狭量さにこそ辟易する。
 薬草園のすぐそばに生える大木の木陰に腰をおろし、持参した水筒の水を勢いよく喉の奥に流しこむ。けれどすっかりぬるまった水では、身体の内側でねばりつくように名前の思考と気力を奪い続けるどろどろとしたものを流し去ることもできなかった。暑い時間帯のためか、今日は下級生たちのはしゃぐ声ひとつ聞こえない。ただ蝉が煩くがなるだけだ。
 木陰にいても目にはまばゆい夏の景色が飛び込んでくる。その眩さから逃れるように、名前は目蓋をぎゅっと閉じた。今はただ、外からの刺激を極力少なくしていたい。
 そんな名前の様子を、利吉はじっと見つめていた。けして盗み見ていたわけではない。堂々と眺めるように見つめていてもその視線に気付かないほど、今の名前は注意力散漫だった。
 利吉はこれまで、何度かくノたまとしての名前の評判を聞いている。名前と利吉が懇意にしていることを聞いたものからは、利吉の方から何も聞かずともそういう情報が自然ともたらされるものだ。
 そうして利吉のもとの集まる評判のうち、ほとんどはおおむね同じような内容である。曰く、苗字名前はのんびりとした気質を持ってはいるものの、くノたま上級生としてはそれなりの成績を修めており、優秀な部類といえる。学業のみならずくノ一教室の運営も手伝うなど、教員からの覚えもめでたい──
 そんな名前が、こうもぼんやりとしているというのは、やはり通常ならばあり得ないことだった。たとえ学園の敷地内であっても、自分にこんこんと注がれる視線に気付かないような生ぬるいくノたまに育つような教育を、くノ一教室では授けていない。
 となれば、今の名前は通常の状態ではないということである。通常ではない──すなわち異常。異常な状態に陥るような何かが、名前を悩ませているということになる。
 暫し、利吉は悩んだ。何せ世間話をするのとはわけが違う。男と女であれば悩む内容も違うだろうし、ふたりの間柄やその深さによって話せるか否かも変わってくる。名前が何かに悩んでいたとして、利吉がそこに正しい答えを出すことができるか、有効な道筋を提示してやることができるか──聞いてみないことには何とも言えないことだった。
 何より、利吉は本来そうして人の悩みに付き合うタイプではない。やむを得ず持ち込まれた相談を受けることもあるが、自ら積極的に関わり合いにいくことはまずない。それは余計な関わりを持たないフリーの忍びとしての立場に依るものでもあり、同時に利吉個人の性質ゆえのものでもあった。
 利吉は自問する。
 果たして、己の在り様を曲げてまで、名前に掛けるべき言葉を自分は持っているのか。自分が聞くべき言葉が、名前の中に存在するのか。
 利吉は暫し悩み、そしてそっと息を吐きだし、言った。
「私は名前が何に悩んでるかは知らないし、そう名前のことを沢山知っているわけではないけれど」
 そう前置きをして口火を切った利吉に、名前の自信なさげな瞳がゆるりと向かう。その瞳の色を確認してから、利吉はふたたび口を開いた。
「あのね、名前。君は君の身に何かあったときに私が利害や損得関係なしに力になりたいと思える、数少ない人間のうちのひとりだよ。今こうして忍術学園に世話になっているけれど、そのことだけじゃなく私は結構いろいろ君には感謝してるんだ」
「そんな、私なんて何も──」
「うん。名前自身にとってはもしかしたら大したことじゃないのかもしれない。何も特別なことなんてない、普通で当たり前のことなのかもしれない」
 たとえばたけのこご飯の話をいつまでも続けることだとか、毬が跳ねるようにぴょこぴょこと駆ける仕草。そういったひとつひとつの名前の様子が、忍びの世界にどっぷりと浸った利吉に表の世界とのつながりを感じさせる。ともすると忘れてしまいがちな表の世界での生活がそばにたしかにあるのだということを、名前がそっと教える。
「私は名前に感謝している。だから君のためになることなら、些細な頼みでも聞いてあげたいと思う。これでも多少は役に立つ人間だと思うから、そういう保険やいざという時の伝手があるんだってことを、名前にはちゃんと覚えておいてほしいんだ」
「利吉さん……」
「まあ、過労で倒れて名前に忍術学園まで連れてきてもらった男が言っても、大して説得力はないかもしれないけどね」
 へらりと笑った利吉に、名前は首を横に振った。
「そんなことないです。すごく──すごく、心強いです。利吉さん、ありがとうございます」
 地面にぺたりと腰かけたまま、名前は深々と頭を下げた。
 頭巾の下の耳が熱い。目頭も、熱い。全身をめぐる血がまるで沸騰しているみたいに、全身がかっかとして指先から火花が散りそうな気がする。気を緩めると何かが溢れ出してしまいそうで、名前はぎゅっと歯を食いしばった。利吉のやさしさを目の当たりにして、たとえ自分がしっかりした人間でないと分かっていても、名前は毅然としていたかった。
 そんな名前の胸のうちを見透かそうとするように、利吉は柔らかくも芯のあるまっすぐな目を名前に向けた。そして何かを察したのか、やがておもむろに、
「それにしても、名前のやさしさに救われている人間は案外多いのかもな」
 と、苦笑まじりに呟いた。それは独り言のようにぽつりとした音の響きだったが、名前の心に小さな引っかかりを伴って入りこんだ。
「そうですか?」
 まだ口の奥に力を込めたまま、名前は尋ねる。どちらかといえば今まさに優しくされているのは名前の方である。誰かを救う優しさを持っているとすれば、それは自分ではなく利吉の方だと名前は思った。しかし利吉は、
「それこそ鉢屋くんとかさ。救われてるじゃないか」
 と、さも当たり前のことを述べるように思いがけない名前を口にした。
「鉢屋はそういうのじゃないですよ。鉢屋自身、親切にされたところで鉢屋には返すものなんかないから、見返りなんか期待してくれるなというようなことを私にも言っていましたし」
 内側から溢れ出そうな何かを堪えているのを誤魔化すように、名前はすらすらと饒舌に話してみせる。自分自身のことではなく、他人のことならばどれだけだって話すことができる。それこそ鉢屋の話ならば、どれだけだってネタはある。話題には事欠かない。
 しかしその思考は浅慮で、そして悪手であった。
「見返り、期待してるの?」
 利吉からの短い返事に、名前は「しまった」と、反射的に思った。
 ただ鉢屋の話だけをしていればよかったものを、余計なことまで話してしまったが、気付いたときにはもう遅い。利吉は意外そうな面持ちで名前を見つめており、名前には今しがた放ってしまった失言を撤回するうまい言い訳など何も思いつかなかった。
「名前も見返りを期待したりするんだ」
 利吉が繰り返す。いや、それは繰り返すというよりもむしろ、今の会話における名前の反応を見て、それが事実であることを確認する作業を行っているようでもあった。
 先ほどまでの身体中の血液が沸騰したようなかっかとした熱さは一転して、すうと全身から血の気が引いていくような心地がした。自分ですら自覚したばかりのその浅ましさを、よりにもよって最も知られたくない相手に知られたのだ。
 ──利吉さんに知られた。
 ──私が、いやな性格の娘だと。
 泣きたいなどとは思わなかった。そんなことよりももっとずっと、ただ恐ろしかった。
 利吉にとっての名前とは、遥か昔に故郷・氷ノ山で後ろをついて回っていた子どもが姿を十四歳に変えたような、そんな存在である。少なくとも、名前は自分がそう思われているのだろうと、そう理解している。
 だからこそ、子どもが持つはずのない浅ましさやいやらしさといった汚い感情──下心があるなどと、利吉に知られたくはなかった。利吉の中の名前、利吉にそばに寄ることを許されている「名前」が持たないものを抱えていることなど、知られてはならなかった。
 何より、名前は利吉に自分の汚い部分を見せたくなかった。
 利吉の前ではいい子の名前でいたかった。
 ──最悪、言わなくていいことを言った。
 それでも言葉にしてしまったものはもうなかったことにはできない。知られてしまったものを知らなかったことにはしてもらえない。現実はそんなふうに都合よくはできていない。
 ──利吉さん、どんな顔をしているだろうか。
 地面に座ったまま、立てた膝をじっと睨んで名前は思う。利吉の顔は怖くて見られなかった。あんなふうに優しい言葉を掛けてくれた利吉を、おそらく名前は幻滅させたのだ。どんな顔をしているかなんて、想像すらしたくなかった。
 暫くのあいだ、ひたすらに沈黙が流れた。名前は押し黙っており、利吉もまた、何かを考え込むように宙空をぼうっと眺めていた。
 ややあって、先に口を開いたのは利吉だった。
「そうなんだ、なんだか少しほっとした」
 そのやさしく柔らかな声音に、名前はゆっくりと視線を上げる。上げた視線を隣の利吉に向ければ、利吉からの視線と名前の視線がふたりの真ん中でぶつかり、ゆるりと絡んだ。その険のないまなざしを受け、名前の胸が大きく脈打つ。利吉の言葉もまなざしも、名前が予想していたものとはまるで違っていた。名前自身が幻滅した名前の一面を、少なくとも利吉は拒絶はしなかった。
 拒絶せず、それどころか。
「ほっと、……ですか」
 茫然として、名前は発する。名前は利吉の発した言葉の意味を理解しあぐねていた。もちろん、ほっとするという言葉の意味そのものは理解している。しかしその言葉は、今この場で利吉が名前に抱くであろうと名前が予想していた感情とはかけ離れすぎていて、うまく呑み込むことができずにいた。
 茫然とし困惑する名前に、利吉はなおも優し気なまなざしを向ける。それはまさに今利吉が言ったように、ほっとした、安心したというようなあたたかで落ち着いた色に満ちた瞳であった。
「名前を見ていると、いろいろと不安になることもあったからさ。君のそのやさしさがあまりにも滅私の精神に基づくものだったとしたら、名前はくノ一に向いていないどころか、そもそも世を渡っていくのに苦労しそうだなと思っていたけど……。多少なりとも見返りを求める気持ちがあるというなら、ただ消費されて摩耗していくだけということもないだろ」
 利吉の言葉は明瞭で、簡潔だった。利吉が名前の何を心配し、何故ほっとしたと言ったのか──今の言葉の中には、名前が疑問に思ったことのすべてが詰まっていた。そしてそれは、すべてにおいて名前のことを案じているがゆえに表れた言葉でもあった。
 ──利吉さんの目には、私は、私の行いは、そんなふうに見えていたんだ。
 自分のことは自分ではうまく把握できない。名前にとっての名前は、あくまでも人並み程度のやさしさしか持ち合わせていない平凡な人間だ。実際、名前は平凡そのものだといえる。少しばかり人当たりがよく、平均よりもほんの少しだけ気楽な人間。それ以外に特筆すべきことなど何もない。どこにでもいる、ありふれた娘。
 それでも、善き人間であろうと努めてきたことはたしかだった。忍びとしての正心というような崇高な精神ではない。ただ、子どもが親に教わるようなレベルで「人の助けになりたい」「人にやさしくありたい」と、そう思い行動してきただけだった。
 けれどそこには鉢屋の言うとおり、下心があった。少なくとも利吉に向けた優しさには、明確な下心があった。利吉が何と言おうと、その下心を名前が良しとすることはできない。下心のあるやさしさなど、名前が思い描くやさしさの在り方ではない。


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