人並みの欲(2)

 昼前に忍術学園を出発した名前が町に到着したのは、太陽がちょうど頭上に上り切ったころだった。目的のお茶屋は名前もよく知る店だ。もともとは名前のアルバイト先との取引があったところを名前を介して学園長が知り、今ではすっかり上客になっている。
 その店で買い求めるような上質な茶は、普段は名前たち生徒の口に入ることはほとんどない。ごく稀に授業の一環として客用の茶を点て飲むことが許されるくらいだが、それも山本先生の機嫌がいいときに限られる。生徒たちが普段食堂などで飲んでいる茶は、学園に出入りしている業者が卸すもっと廉価なものであった。
 ──だから、こうやってお遣いに出してもらえると美味しいお茶がいただけて役得なのよね。
 名前はひとり、ほくほくと笑みを浮かべる。松はお遣いの品がお茶だと聞いてがっかりしていたが、名前は甘味と同じくらい美味しいお茶が好きだった。面倒なお遣いを引き受けたのも、お駄賃目当てといっても過言ではない。
 ──それに高価で美味しいお茶やお菓子は実家にいてはなかなか食べられないし。
 そんなことを考えながらふらふらと歩いていると、ふと目線の先に、見慣れた着物を纏う男の姿が見えた。男はちょうど町を横断するようにして流れる川の橋の上に立ち、欄干に身体を預けてせせらぎを眺めている。
 ──利吉さんだ。
 気付くなり名前はそっと近づくと、とんとん、と軽く利吉の肩を叩いた。休憩がてらぼんやりしていたのか、利吉は名前に肩を叩かれると我に返ったように背筋を正す。しかし目の前にいるのが名前と認識すると、すぐに緊張を解いて破顔した。
「こんにちは」
「やあ、名前じゃないか」
 名前が声を掛けると、爽やかな笑顔を浮かべて利吉も応える。どうやら仕事中というわけでもなさそうで、特に周囲に気を配ったり何かを注視するようなそぶりもない。名前も多少張っていた肩の力をゆるめた。
「こんなところで会うなんて奇遇ですね。お仕事の帰りですか?」
「まあね。そんなところ。君は?」
「わたしは学園長先生のお遣いでお茶屋さんにちょっと」
「そうか、君も大変だな」
 名前の言葉に利吉が苦笑する。忍術学園とは縁の深い利吉は、学園長のわがままや思い付きで教師生徒一同が散々に振り回されていることをよく知っていた。斯くいう利吉も、それなりの頻度でそうした騒動には巻き込まれている。
 利吉の同情まじりの苦笑に同調するように、
「くノたま上級生は何かにつけて用事を言いつけられがちですよ」
 と、眉を下げて笑う。
「上級生ともなれば何かにつけて勝手が分かっていて要領がいいからだろう」
「まあ、否定はしませんけれども」
 そう言って、名前はいっそう笑みを深くした。
 そもそも市井のことに通じ、美味しい店や良質な店との顔をつないでおくこともまた、くノ一教室では重要なこととして指導している。やがて人の妻となる身として人脈を持ち情報を得ることも、間接的に伴侶の助けとなるからだ。そうした内助の功を大切にした指導で武辺一辺倒にならない指導方針があるからこそ、親たちは子女をこぞって入学させたがる。
 くわえて学園長の銭袋を預かる以上、くノたまの下級生には金銭の絡むお遣いは任せにくい。ゆえにそういったお遣いは自然とくノたまの上級生に回ってくることが多いのだった。お遣いに行くにもむくつけき忍たま上級生が行くよりは年ごろの娘が出向いた方が何かと都合がいいということもある。
「そうだ、利吉さん。この後お時間ありますか?」
 ぱん、と手を打ち、名前が言う。その顔には分かりやすくにこにことした笑顔が浮かんでいる。
「少しならあるけど」
「せっかくですからお茶して帰りましょう。学園長先生から一杯ぶんくらいのお駄賃はいただいているので……」
 と、嬉しそうに切り出した名前であったが、しかし、話をしているうちにその笑顔は、またたく間にしゅんと曇っていった。何か良くない事情に気が付いてしまったのか、だんだんと尻すぼみになっていく声で名前はぽそぽそと、
「この間奢っていただいた分を今日、返せればよかったんですけど……その……」
 と、言葉を濁す。
「なるほど、持ち合わせがお遣いの分と自分の一杯分くらいしかない、と」
「そうなんです……」
 言いにくい部分を利吉に言われてしまい、名前はがっくりと項垂れた。
 「この間」とは、利吉が名前のアルバイト先にやってきた際、名前の分の団子代まで払っていった件のことである。利吉にとってはたかだか団子くらい大した出費ではなく、別に返してもらおうが踏み倒されようがどちらでも構わなかった。もとより奢ってやるつもりで支払っている。
 しかし名前にとってはそうではない。あれはあくまでも「借りた」ものと認識している。ゆえにそれを「返す」約束をしていたはずなのだが、その借りを返すのにうってつけの今この瞬間、持ち合わせが足りないという何とも間抜けなことになっているのだった。それもこれも、自分の銭袋を持ってきては余計な出費をしてしまうかもしれない、と学園長から預かった銭袋しか持って出なかった名前の倹約精神のせいなのだが、それが今は完全に裏目に出ていた。
「あの、なので今日のところは……」
 しょんぼりと頭を垂れたまま名前が言う。そんな名前のしょぼくれた姿を見下ろし、利吉はふっと笑った。
「いいよ。自分の分は自分で出すから。名前も自分の分くらいは持ってるんだろ?」
「……自分の分、くらいは」
「じゃあいいよ、付き合う。ちょうど私も喉が渇いていたところだから。ご馳走してくれるのは次でいい」
 というより、忍術学園に顔を出したときにお茶を出してくれるくらいでかまわないよ、と笑って利吉は言う。名前はまだ何か言いたげな顔をしていたが、それをぐっと飲み込むと、ようやく笑顔を取り戻して頷いた。
 話がまとまったところで、お遣いの目的であるお茶屋へと向かって再び歩き出す。町の中は本格的な夏を目前にして活気に満ちている。ほとんど裸のような格好をした男女が物を売り歩いたり木陰で涼む様を眺めながら、ふたりは川沿いの道をのんびりと歩んでゆく。
 ほどなくして、お茶屋に到着した。学園長の一等気に入っている抹茶を購入し、その場で飲む分のお茶をふたり分注文する。さすがにお遣いの品ほど高級なものを頼むことはできないが、それでも普段飲んでいる安い茶葉のものよりはずっと美味しい点てたてをいただく。
 お茶を飲み人心地ついたところで、ふいに名前が切り出した。
「そういえば、郷の母から文が届きまして」
 遠方の学校に通う娘に文を出すのは親としては普通のことである。名前も、また名前の親もともに筆不精であることを知らない利吉は、さして気に留めることもなく、
「へえ、何だって?」
 と、ごく平凡な返事を返す。
 音もなく茶を啜り、名前はまた口を開いた。
「利吉さんのお母上にわたしが忍術学園の生徒だってことをうっかり話してしまった。すまない、と」
「それは何というか……」
 そう返しながらも、知らず利吉の頬が引きつった。利吉の頭を瞬時に過ぎったのは、名前と自分が再会したときのことだった。
 これはただ親子の遣り取りの中に話題として名前が出たというだけの話ではない。これまで名前と母親が隠していたことを、うっかりこのタイミングで話してしまったというのである。その「話してしまった」タイミングというのが、利吉が名前に声を掛けた時期と重なることくらい、くノたまの名前でなくとも容易に想像がつくことだろう。
 その想像を裏付けるように、
「利吉さんがわたしが忍術学園にいることに気が付いたのも、もしかしてお母上から聞かれたからではないですか?」
 と、名前が静かに問う。いよいよもって利吉は咄嗟に返すことのできる言葉を失った。
 こんなふうに嘘が露見するのなら、最初に妙な見栄など張らなければよかった──つくづく利吉は実感する。利吉が自力で名前に気付き、思い出したのだと信じていた名前を傷つけまいとその場凌ぎの誤魔化しを口にした利吉だったが、今となってはそれが寧ろ仇(あだ)となっていた。どのような意図でついた嘘であろうと、数年ぶりに再会した名前に、再会早々妙な嘘をついたという事実には変わりない。
 ──良かれと思って、なんて言い訳は悪手だろうな。
 逡巡の末、利吉はそう結論を出した。そして素直に頭を前に傾けると、ただ一言、
「すまない」
 と、謝った。その利吉の素直さに、名前は手元の茶碗に落としていた視線を上げ、改めて利吉を見る。それからふっと目元を綻ばせて、利吉の肩をつんとつついた。
「そんなに畏まって謝っていただかなくても、わたしは別に怒ってませんよ。拗ねてもいません」
 その声には本当に責め立てるような色も、あるいは悲しむような色も感じられなかった。利吉はほっとして面を上げる。いつもの名前の、見ている方の気が抜けてしまいそうな顔が、困ったように利吉の方を向いていた。
 それから名前は、わざと口を尖らせて見せると、
「怒ってはいませんけど、でも、言ってくださればよかったのに。むしろ気を遣わせてしまったかしらと思って、そちらの方が気がかりでした」
 と、拗ねたように言った。それが利吉のことを思っての言葉であることを察し、利吉も表情をゆるめる。
「いや、だってあの時はあたかも自分で気が付いたような雰囲気だったし、君もそうだろうという期待の目で見ていたから。喜んでいる君の気分に水を差すのもどうかと思ったし」
「いやだ、わたしだってもう十四なんですよ。そんなことくらいで気分を害したりしませんよう」
「今はそうだろうなと思うけど、さすがにほぼ初対面も同じようなあの時、そこまでの判断は無理だよ。名前の精神の成熟度なんてあの場ですぐに測れるものじゃないだろ」
「それもそうですね」
 あっけらかんと納得して見せ、名前はそれ以上は利吉を責めることもなかった。もう少し責められるかと思っていた利吉は、意外そうな面持ちで名前を見る。しかし意外に思っているなどとうっかり口にして藪蛇を出しても面白くないので、わざわざそれを口にするような真似はしなかった。
 一方の名前は、特に何かを堪えたり隠したりするわけでもなく、本当にもうこの話題については終わったものというような気分でいた。
 そもそも、名前は利吉がどういう経緯で自分のことを見つけていようが構わない。そこに拘るつもりはなく、今こうして利吉と縁を結びなおしたということをこそ大切に思っている。
 ──過程がどうだっていいとは思わないけれど、私と利吉さんの「過程」の話をするのなら、幼いころに知り合って、今こうして再会したという経緯だけで十分に事足りているもの。
 結局のところ、大まかな流れさえ良ければ枝葉末節にまで拘るつもりはないのだった。その辺りは名前は利吉以上に大雑把で適当である。
 再びお茶を啜り、名前は苦笑を口元に浮かべる。
「でも、驚きました。母から文なんてめったに届かないから何事かと思って。すわ大事かと思って焦ってしまいましたよ」
「お母上もまずいと思ったんだろうね。忍者のことは他言無用が鉄則だし」
 四年間も秘密を守ってきたのがその証拠である。忍術学園に入学するにあたり、家族にも守るよう言い渡される秘密は決して少なくない。利吉の場合は両親そろって忍びであるから、その辺りは逆に特別なことではないが、名前本人を含めただの庶民である名前の家族には、その秘密を守るようにという言いつけはさぞ重く感じられたに違いない。
「次に家に戻ったらもう一度しっかり秘密厳守を守ってもらえるよう頼んでおかないと……。まあ相手が利吉さんのお母上だったからよかったようなものですけど」
 名前の言葉ももっともだったが、しかし利吉としてはよその家族を責めるような言葉に同意することもできない。曖昧に頷いておくに留めた。その反応を見て、名前もそれ以上は口を噤む。同室の松に対してならともかく、利吉に愚痴めいたことを言うのは気が引けた。
 ──それに、利吉さんは私の親のことを腐すようなことはしなかった。
 けして自慢するような親ではないが、自分で言うのはともかく人に悪く言われて嬉しいわけではない。利吉とてプロの忍びとして、うっかり口を滑らせた名前の母親には色々と思うところはあるはずだが、それでも名前の心情を慮って何も言わずにいてくれているとすれば、それを名前が無下にすることはしたくなかった。
 と、そんなことを考えていると、
「それにしても、君の家は本当に放任なんだな」
 利吉が、やはり苦笑まじりに言った。その言葉に名前も我に返り、
「と言いますと?」
 きょとんとして聞き返す。
「普通、遠方の学校へ娘を遣ったら何かにつけて文でも送るものじゃないか? 君の話しぶりだと、君の親は文も滅多に寄越さないし、君が頻繁に帰省しなくても気にしないようだし。息子ならともかく、娘──それも目に入れても可愛くないはずの年の離れた末娘なのに」
「そうですねえ……。入学して最初の一年か二年は色々と言われもしましたけど、五年にもなればこんなものだと思いますよ?」
「そういうものかな」
「まあ、わたしの同室の子なんかはしょっちゅう帰省もするし筆まめでもありますけど」
「それが普通なんだよ」
「便りがないのは元気の証拠とも言います」
「それは微妙に使い方が間違っていないか……?」
 呆れたように目を細める利吉に、名前はにっこりと笑った。
 名前が利吉に言った言葉には嘘はひとつもない。実際、五年生ともなれば多少無精していたところで親も何も言わなくなる。五年も親元を離れている娘のことなどいつまでも気に掛けていられるほど、山の暮らしは甘くはない。
「人の家のことをとやかく言うつもりはないけど、文くらいは時々は出してあげた方がいいよ。まあ、私も人のこと言えた立場じゃないけど」
 そう付け加えて茶を啜る利吉を、名前はちらりと横目で眺めた。
 実家への筆不精については、もう四年以上こんな状態でいる以上、今更名前にそれを直すつもりは毛頭ない。だから今の利吉との遣り取りから思うことといえば、実家の親を大事にしろというような内容よりもむしろ、文を渡すということそのものの方が気にかかっていた。
 ──利吉さんは、文をお渡しするような好い人がいらっしゃるのですか。
 不意に胸にわいたその問いを、しかし名前は口にすることなく茶で腹の中に流し込む。自分と利吉との距離感を見誤ることを恐れる気持ち、そしてまた利吉に不躾なおなごなのだと思われたくない気持ちが、名前の口を噤ませたのだということに、名前自身、まだ気が付いていなかった。


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