真髄を君が求むならば(2)

 ざわついた自分の心を落ち着けるためにも、利吉は気をまぎらわすように口を開いた。
「それにしても、さっきから話を聞いていると、名前の理想は随分と高そうだ」
 揶揄するように利吉は言うが、名前は特に気にしたふうもない。それどころかむしろ納得したように澄ました顔で、
「そうですねえ、まあたしかにわたしの初恋は利吉さんですから」と、そう言った。
「利吉さんと比べてしまうとどうしても、素敵だなあと思える男のひとは少ないですよ」
 その言葉に面食らったのは利吉の方である。ほんの少し揶揄してやるつもりが、寧ろとんでもない反撃を受けてしまったような、そんな藪蛇のような状態に陥ってしまった。
「えっ、初恋って」
 しどろもどろになって、それだけ口にする。その利吉の面食らった様子に、名前はわずかに顔を赤くした。
「いやぁ、言ってもまだわたしが小さいころの話ですよ」
 そんな前置きをしてから、名前は恥ずかしそうに笑う。
「だから好きだなんだというよりは、どちらかというと憧れというのに近い気持ちだとは思うのですけれども。ほら、昔から利吉さんは溌剌としていらっしゃって、お顔も怜悧な様子に整っていらしたじゃないですか。あの辺りの子どもにしては、利吉さんは垢ぬけている感じがあって、それで幼心にも、そんな利吉さんに憧れていたんです。というか多分、わたしの姉も利吉さんのことが好きだったんじゃないのかな。利吉さんに憧れないおなごなんていなかったんじゃないかなと思うんですけれど」
「へえ……」
 思わず、そんな生返事を返してしまう利吉であった。
 自分が人よりも女の目を惹きやすい容姿をしていることは利吉も自覚している。その証拠に利吉はこれまで女に困ったことがないし、場合によってはその生まれ持った容姿を仕事の道具として使うことすらあった。他人の懐に入り込むのに色ほど手っ取り早い手段もない。
 しかし、まさか名前やその姉までもが自分に憧れていたとは思わなかった。
 今でこそ利吉は世慣れた洒脱な男を気取っているが、少なくとも実家を出るまでは垢ぬけないところが大いに残っていた。そのコンプレックスをばねにこれまでやってきたと言ってもいい。だから氷ノ山での自分は今の自分とは明確に一線を引いて異なる存在だというのが利吉の中での自己認識であって、実家にいたころの自分が女にもてるという意識は、当の利吉にはまったくなかった。
 ──名前の姉はともかく、名前の初恋は私なのか。
 利吉にとってはただ後ろをついて回っていた幼子という印象しかない当時の名前が、まさか自分に対してそんな気持ちを抱いていたなど、利吉は露ほども想像していなかったことだった。そんな話を聞かされたとあっては、あの頃の名前が利吉の後ろをついて回っていたというのも、何か特別な気持ちがあってのことだったような気がしてくる。途端にそれは単なる懐かしい思い出話から、淡く色づいた愛おしい記憶に塗り替えられてゆく。
「といっても結局利吉さんは山を下りてしまわれたし、姉も姉でさっさと別のお家に嫁いでいきましたけれどね」
 黙りこくる利吉を後目に、名前はそんなふうに付け足す。気を利かせたつもりだったのかもしれないが、しかし利吉は名前の姉のことなどまったく考えていない。その一言は利吉にとっては何の意味も持たない一言でしかなかった。
 先ほど名前に声を掛けられたことで中断した思考の探索が、ふたたび利吉の胸の底でぷかぷかと浮きあがっては再開を待ち始める。今度はもっと明確に、禁忌の箱のふたをいざ開けんとして利吉に向かって手招きをしている。
 ──いや、でも、そんなはずはない。
 開きかけたふたの隙間から垣間見える何かに目をこらし、しかし利吉は即座にそれを否定する。
 名前と共にいる時の心地よさや快さには、たしかに利吉も覚えがある。弱っていたときに無意識に求めたあたたかさは、最早否定できるものではない。しかし、だからといって、名前に抱いている感情を既知の言葉──これまで陳腐に使いまわしてきたその言葉で名づけることは、利吉には幾ばくかの抵抗があった。まして利吉は、これまでその言葉を──その言葉が指し示す感情を道具のように取り扱ってきたのだ。「それ」を今さら、名前との間に認めることには、どうしても気乗りしない。
 とはいえ、その感情を「それ」と認めてしまえば、気が楽になりしっくりくるのもまた事実なのだ。これまで利吉が知り得た如何なる「それ」とも形状は違うけれど、だからといって利吉の抱く感情が、「それ」と遠くかけ離れたまったく的外れなものではないことくらい、利吉にもとうに分かっていた。
 分かっているから、認めがたい。
 自分が名前を大切に思い、救いとすら感じる気持ちを、そんな言葉でくくってしまうのは。
 と、そんなことを思ってじりじりと胸にせり上がるものを感じていた利吉に、名前が、
「それにしても、こうしてあの頃のことを考えてみると、わたしも利吉さんもずいぶん遠くまで来てしまったものですねえ」
 と、利吉の心情にはまったくそぐわないような──いつもの名前らしい調子で呟いた。そのあまりにも毒気を抜かれる声音に、利吉はついつい自分の中の葛藤や困惑から目を逸らす。いつもそうするように苦笑まじりの声で、
「遠くというのは、物理的に?」
 と、尋ねてみる。名前は一瞬きょとんとした顔をして、それから小さく笑った。
「まあ、そうですね──そういう意味でも」
 いつの間にかおろしうどんを食べ終えた名前が、音を立てることもなくお茶を啜った。食堂の中には名前と利吉のふたりきりしかいない。すっかり昼過ぎというような時間になってしまい、食堂のおばちゃんもいつの間にか片付けのために席を外していた。
「利吉さんもそろそろお仕事に復帰されるのでしょう。新野先生から伺いました」
 不意に、名前が話題を変える。利吉も自分の湯のみをとると、お茶で喉を潤してから首肯した。
「ああ、うん。そう休んでばかりもいられないから」
「分かってはいましたけど、本当にお忙しいんですね」
「フリーだからね。忙しいくらいが丁度いいんだよ」
「それもそうかもしれませんね」
 利吉の言葉に、名前も素直に同意した。プロの世界のことは名前には分からないが、それでも城仕えと比較して安定しないフリーという形態は、忙しくしているくらいが丁度いいのだろうというくらいは理解できる。遊び半分、暇潰しの片手間でやれるほど、忍びの世界は甘くはない。実際、何年間も利吉はそうして暗闇をひた走るように仕事をしてきた。だからこそ、今の利吉の立場と評価がある。
 これまでの忍びとしての自分のキャリアに、利吉は何の不平も不満もない。むしろかつての父・伝蔵をも凌ぐ速さで名を上げていることを思えば、自分の功績には十分以上に満足もしていた。
 しかし、それでもここ数日は、もしも別の人生があったのなら──と、そんなことを考えてしまうこともしばしばだった。
「もしも私が暫くここに来なかったら、君も私のことなど忘れて授業や実習に励むんだろうな」
 ぽつりと胸から零れ落ちた言葉が、利吉と名前との間に不自然に転がった。
 名前が穏やかな面持ちで利吉を見る。
「どうしたんです、唐突に」
「いや、ふと思ったんだよ。ここ数日、余計なことを考える時間ばかりたっぷりとあったから」
 碌に身体を動かすこともままならず、ようやっと動けても仕事らしい仕事ができるわけでもない。子どもたちの補習を見ながらいつもと違う時間の流れの中で暮らす日々の中には、仕事に忙殺されている普段では入り込むことのない雑念がぽろぽろと顔を出す。己のこれまでを顧みて、そしてこれから先を見据えたとき──その人生の一本線の中にまったく何の憂いもないと言い切ることができるほど、利吉はまだ人生に達観してはいなかった。
「一心不乱に仕事をしてきて、自分ではそんな生活が自分でも悪くないと──いや、好ましいとすら思っているけれど、……だけど私がそうやって仕事に没頭しているのと同じように、誰もみんな毎日を慌ただしく生きているわけだろう。そうして毎日を一生懸命生きて誰のことも顧みずにいたら、もしかしたらみんな、あっという間に私のことも忘れてしまうのかなって、そう思ったんだ。──ちょうど、私が君のことをすっかり忘れてしまっていたように」
「利吉さん、わたしのことを忘れていたこと、気にされていたのですか」
 意外そうに言う名前に、利吉は薄く苦笑した。
「多少はね。いくら何でもちょっと薄情だったかなって」
 まして利吉は先ほど、名前から名前の初恋が利吉であったことを聞いたばかりである。それほどまでに憧れられていたにも関わらず利吉の方はさっぱり忘れていたのだから、多少は罪悪感のようなものだって感じる。自分が切り捨ててきたものの多さを思い、辟易としたりもする。
 そうして過去を過去として切り捨て、切り捨てたものたちの山を顧みることもせず邁進し──その先に、一体どんな輝かしい未来があるというのだろう。どれほどの価値ある宝を得られるというのだろう。
 あるいは自分があらゆるものを過去として切り捨てたとき、同じように自分が誰かの過去として切り捨てられていないなどと、切り捨てられたくないなどと、臆面もなく言えるだろうか。切り捨てられることを悲しいと、薄情だと言えるだけの権利が利吉にあるのだろうか。そんなことばかり考えては、憂鬱な気分になる。これでよかったのだと思う自分と、本当にこれでよかったのかと思う自分がせめぎ合っている。名前には結果がすべてだと言っておきながら、自分はまだ悩んでいる──
 自信満々で時に利己的ですらある利吉らしからぬその言葉を、名前は黙って聞いていた。何を言うでも、何を諭すでもなく、ただ側で耳を傾けていた。
 名前には利吉を教え導くほどの何かがあるわけではない。そもそもまだ十四のくノたまでしかない名前が、利吉のようにプロ忍びとして一線で活躍している忍びに対し何かを諭そうとすることなど、土台無理な話である。
 名前はじっと利吉の言葉に耳を傾け、利吉の様子をつぶさに見つめていた。そして利吉の言葉が尽きたころ、ようやくのんびりと口を開いた。
「そうですねえ、利吉さんがわたしのことを忘れていたことに関して言うのであれば、縁がそれきりになってしまったわけではなく、こうして今新しい縁が繋がっているわけですから、わたしはそう気にしてませんけど。まあ、いつになったら気付いてくださるのだろうかとは思ってましたけどね」
「面目ない」
「いえいえ、思い出していただけましたから」
 それだけで十分です。そう言って笑って、名前は続ける。
「それに、そんな心配をされなくても、わたしは利吉さんのことを忘れたりなんかしませんよ」
 利吉がいつの間にか机に落としていた視線を上げ、名前に視線を向ける。利吉の正面に座った名前は、いつもの調子で穏やかに笑む。気負いも衒いもなく、甘味の話や夕食の話をしているのと同じように、ただのんびりとした様子で笑っていた。
「忍びの世界は慌ただしくばたばた過ぎていくものだし、なんでも忘れていかないといけないのかもしれない、そうしないと心を正しく保っておけないものなのかもしれないですけど」
 場合によっては人を傷つけ、誰かの命を奪うこともあるかもしれないけれど。
 自分の為した仕事の裏側で誰かが涙を流すことになるかもしれないけれど。
「それでもわたしだけは、利吉さんのひとつひとつをちゃんと留めておきたいと思うので──だから、大丈夫です」
 利吉の心にあたたかいものが沸き上がる。それは身体の中をとっぷりと満たし、まるで身体の内側で利吉の全部を包みこもうとしているかのようにふんわりと広がった。先ほど開きかけた胸の奥底で眠っていた箱のふたが、音もなくゆっくりと開く。けれど今度はもう、そこから溢れた感情の名前に抵抗や違和感を感じることはなかった。自分でも驚くくらいにすんなりと、利吉はそこから溢れた感情の名前を受け容れることができた。
「名前」
 利吉が呼ぶ。
「はい」
 名前が答える。
 ほんの束の間の静寂ののち、利吉が静かに発した。
「──ありがとう」
「いえ、どういたしまして」
 ──私は名前のことが好きなんだ。
 名前に抱いた感情を利吉はようやく自覚した。そしてこれほど穏やかな感情をも包括する色恋というものの持つ懐の広さに驚くのと同時に、ひとたびそうと認めてしまえばこうも楽になるのかとも思う。
 目の前で相も変わらず微笑んでいる名前を見る。胸にふつふつと沸き上がる愛しさに気付き、利吉もそっと笑んだ。


prev - index - next
- ナノ -