ひだまりに似た死もあった(2)

 暫し続いた沈黙を破るように、のんびりとした口調で名前が口を開く。
「利吉さんに会うのはひと月ぶりくらいでしたっけ? 最後に会ったのは──、そうそう、尾浜と利吉さんと、三人でお茶したときでしたよね」
「そうだったか」
 半ば機械的に利吉は返事をした。実際にはそれ以降にも時折、利吉は忍術学園に顔を出しているし、その度に名前の姿を見かけている。しかし面と向かって言葉を交わしたのは、たしかにその時が最後だった。
 あれからもう、ひと月。随分と久し振りのような気もするし、その一方でまだひと月しか経っていないことに驚きもする。いずれにせよ今の利吉の靄が掛かったような頭では、どちらの感覚がより利吉の本音に近いものなのかの判別はできなかった。
 名前はまた、歌うように言う。
「利吉さんは忙しくていらっしゃるからお忘れかもしれないですけど、とっておきのカステーラを出したのでわたしはよーく覚えてます。あれ、あの後山本先生にばれて怒られてしまったんですよ」
「そうなんだ」
「はい。利吉さんにお出しするのはともかく、わたしと尾浜が勝手に手を出すとは何事ですかって。残り物だからいいかなーっと思ったんですけど、やっぱりだめだったみたいで」
「それは、悪い事をしたね」
「いえ、いくら怒られたところでもう食べてしまったわけですし、食べてしまえばこちらのものです。山本先生だってお腹の中のものを出せとまで仰いません」
 何故だか得意げに名前が言った。
 そんな名前の声を聞いているうちに、だんだんと利吉は強張り固まっていた自分の心がほぐれていくのを感じる。依然として身体は重く意識も明瞭とはいえないが、それでも冷え切っていた心に少しずつ血液が流れ込むような、そんなあたたかさのような感覚を感じた。
「この後はまたお仕事ですか?」
 名前が問う。利吉がゆっくりと視線を上げ、のろのろと首を左右に振った。
「いや、暫くは……何もない」
「そうでしたか。利吉さんにしては珍しいですね」
「そうだな……、うん」
「まあ、時々はお休みもとらないと疲れてしまいますものね。ところでわたしはそろそろ忍術学園に戻ろうと思いますが、利吉さんもよろしければ一緒にどうですか」
 脈絡なく切り出され、利吉はやや返答に窮した。
 たしかに明日以降は当分仕事もないのだが、だからといって忍術学園に赴く理由もない。本来部外者の利吉にとっては、忍術学園という場所は昼日中に訪れるのならばともかく、けしておいそれと宿泊までできるような場所ではない。
「いや、私は……忍術学園には今はこれといって用事はないし、それにこの時間だと、到着するのは遅い時間になってしまうから」
 部外者である利吉が訪れるには遅い時間である。忍者のゴールデンタイムが夜更けといえど、忍務で赴くというわけではない以上、非常識な時間にその門扉を叩くのは気が引けた。
 しかし名前は、そんなことを気に掛ける様子もなく、屈託なく笑いかける。
「お客さま用の部屋にお泊りになれば大丈夫ですよ。それにわたしも一人で夜の山道を歩くのは心許ないですし」
 これが名前なりの気遣いであることは明白だった。しかし利吉にとって、名前からの提案が魅力的なものであることもまた、たしかだった。
 今の利吉はいつになく精神が疲弊している。どこかでひとり夜を過ごすのは苦痛だが、だからといって氷ノ山の実家にそうそう容易く帰れるはずもない。そんなことをすれば夜が明ける。こんなとき、利吉には会いに行って共寝をしてくれるような決まった女はいないのだった。関係を持ったことのある女ならそこそこにいても、信用して、すぐそばでぐっすり眠ることができる相手などひとりだって思いつかない。人の気配がある場所で深い眠りに落ちることなど、薬でも盛られない限りはできないだろう。そうあるように自分自身を育ててきたのはほかでもない利吉だった。
 その点忍術学園であれば、利吉をひと晩泊めるくらいは何でもないだけの備えも部屋もある。利吉もまた、忍術学園ならば何処ぞで宿をとるよりは気負いも気兼ねもない。完全に安全とまでは言えないが、それでも今思い当たるほかのどこよりも安全な場所であるだろうということも、利吉には分かっていた。
 プロの忍びとしては、ここはあくまで固辞すべきだろう。しかし今日だけは、利吉の精神はその肩書から大きくかけ離れたところにあった。
 逡巡の末、利吉は頷いた。
「……それじゃあ、そうさせてもらうよ」
 利吉の返事に、名前は大いに満足そうに笑った。

 ◆

 団子屋から忍術学園までの道程はけして遠くない。それでも名前と利吉は、その道のりをのろのろと時間をかけて進んでいった。名前ひとりであればもっとさっさと歩いただろうし、利吉ひとりでもやはり同じように先を急いだに違いない。しかしふたりでの道行きとなれば、何となしに散歩でもするような足取りになる。
 のんびりとした気性の名前はともかく、普段の利吉であればこんなふうにとろとろと道を歩くこともない。普段ならば焦れて仕方がなさそうなものだが、今宵の利吉はそんなふうに感じることもなかった。
「そういえば昨日、くノたまの下級生の子たちも誘ってみんなで夜の集いをしたのですよ」
 とろとろと足を動かしながら、名前が言う。頭上には星空がめいっぱい広がっていて、もうすっかり夜更けというような時間だった。
「集い?」
 利吉が繰り返す。名前が頷いた。
「はい。くノ一教室では毎年夏前になると、学年をこえてみんなで夜通しお話をする日があるんです。ほら、そろそろ一年生の子たちも学園生活に慣れてきて、でもだんだんと家が恋しくて、いろいろと思うこともある時期でしょう? だから五年生が主催で。六年生の先輩がたはまたお忙しいこともありますしね」
 伝蔵が勤める忍術学園の内情については、利吉もそれなりに精通している。しかしくノ一教室のこととなると、やはり男の利吉にとっては未知の部分がほとんどだった。名前の話を聞きながら、くノ一とはいっても所詮はたまご、なんとも呑気なものだなと利吉は思う。しかし半面、五年生を中心に下級生の面倒を見る体制が整っているというのは、よくできた縦割り制度だと感心もした。
 忍術学園はその性質上、機密を多く取り扱う。となれば、ひと度入学した者をそうそう簡単に外部に放り出すわけにもいかず、退学するとなればそれ相応の機密保持契約が交わされるのが常である。
 それらの煩雑な手続きや、それでも機密が外部に漏れるリスク、そして何より忍術学園の内情を暴こうとする輩が退学した生徒を襲う可能性などを考えれば、できる限りは入学者をそのまま卒業まで──少なくとも自衛のすべを身につけるまで学園内で保護するのが、忍術学園としても最も効率のいい機密保持の手段であった。
 くノ一教室では、それでなくとも家の事情で退学を余儀なくされる娘が多い。少しでも自主退学者を減らすためにとくノたま内で考案された縦割り行事は、恐らく名前たちくノたまが自覚している以上にくノたまの自主退学に歯止めをかけているに違いない。
 名前とて、くノたまの五年生である。自分たちの主催する集いがどのような目的を持っているか、どういう意味合いを持っているか、大体のところは把握している。が、今こうして名前の口から語られる言葉の中には、それらの打算や計算じみたものは一切含まれていなかった。名前はただ、楽しかった女子の集いの話をしているに過ぎない。そこに忍びらしい謀(はかりごと)の匂いは一切感じられなかった。
「利吉さんもお招きして見せてあげたいくらい、本当に楽しいんですよ。くノたまの下級生の中にひとり、なんと特性のお味噌を持参している子がいて。その子がおうちに帰るたびにお味噌を持ち帰ってきてくれるものですから、それを少し分けてもらって。具が沢山入ったお味噌汁をね、みんなで飲むんです。ほら、夜に甘いものを食べるのがばれると山本先生に怒られてしまうから。それで、お味噌汁。しかも夜通し飲むのでお腹がぽちゃんぽちゃんになっちゃって」
 その時のことを思い出したのか、名前がくすくすと笑う。控えめな笑い声が、夜の闇の中に染みるように溶けていった。耳に心地よく響くその声に、利吉は耳を傾ける。
「美味しいものを食べて、楽しいお話をして──そうやってみんなで集まっていると、くノ一教室が本来くノ一を育成する場所だってことも忘れてしまいそうになります。だってわたしたち、くないを握っているよりも、お勝手に立っている時間の方がずっと楽しくて。ああ、そうだ。春にはみんなで山菜を採りにいったりしたんですよ。夏は暑いから、学内の菜園くらいしか行けないですけれど……でも、秋になったらまたきのこを採りに行ったり、果物を採りにいったりしたいなあって思っていて。下級生の子たちも連れて、ピクニックみたいにしたいねって、今ほかの子たちと計画しているんですよ」
 その忍びの世界とは結び付かない呑気な言葉の数々は、年若い頃から忍びとして油断ならない日々を過ごしてきた利吉にとって、ほとんど縁などないような言葉ばかりだった。
 もう何年も、利吉は己の命を奪られないうちに相手を殺め、常に背後にも目を光らせるような、そんな環境の中に身を置き続けている。ここのところこそそういった剣呑な日々からはやや遠ざかっていたが、それでも時折、ふと背中が冷たくなることがある。今日のように命の取り合いをし、他人の命を奪うことになった日などは特に、自分はもうまっとうな世界には戻ることができないのではないかと、名状しがたい不安に襲われることもあった。
 とうに覚悟は決めたはずなのに、それでもまだ、何かを見失ってしまうことを恐れている自分がいる。
 このまま堅気のものではない仕事に手を染めて、大義や正心のもとに人の命を奪い続け、果たしてその果てにあるのは何だというのだろう。
 かつて戦忍としてその名を轟かせた父伝蔵が、まだまだ一線で活躍できるだろう技量を持ちながらも一線を離れた現実、そして離れた先で前途のある子どもたちに持てる技能をすべて注ぎ込み、次世代の育成に注力しているそんな姿を見ていると、利吉は自分の道が果たして正しいものなのかどうかを疑わずにはいられない。
 普段はもちろん、我武者羅に仕事をこなし、そんなことを考えたりはしない。だが今日のように血を多く見た日などは、ついつい普段ならば忘れていられるような馬鹿げた思考が、利吉の中でのそりと首を擡げるのだ。
 自分はもう、戻れないのかもしれない。
 まっとうな人生には戻れないのかもしれない。
 一生をこのまま、血と泥に塗れて生きていかねばならないのかもしれない。
 それでも、こうして名前の血生臭さとは無縁の話に耳を傾けていると、底なし沼に引きずり込まれそうになった足を、何とか引き上げることができそうな気になる。自分の手を引いてくれる、まっとうな世界に導いてくれる光があるのだと、そんな希望にも似た何かを胸に感じることができる。
 胸にたまっていた空気の塊を吐き出すと、夜のにおいを十分に含んだ新鮮な空気が、どっと胸を満たしてゆく。隣を歩く名前の気配を感じながらの逍遥は、普段身を置いている夜闇の重苦しさとは何もかもが違っていた。夜は何もかもを覆い隠し、光の筋をはっきりと浮かび上がらせる。
 ──ああ、私はまだ「こちら側」の人間とつながっているんだ。
 利吉の胸にぷかりと浮かんだ本心を映すように、大きな月が遍く地上を照らしていた。


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