明露(1)

 鉢屋が出て行った後、予定通り名前が医務室の掃除をしていると、ほどなくして新野先生が戻ってきた。掃除のために開け放たれた扉に「おや」と驚きながら入ってきた新野先生は、叩き片手に掃除をしている名前の姿をみとめると、大体の状況を察して微笑んだ。
「苗字くん、留守をあずかっていてくれたんですか」
「すみません。勝手に入ってしまって」
「いえ、こちらこそ医務室を無人にしてしまい、君に留守を守っていてもらえて助かりました。ちょっと事務室に寄っただけのつもりが、小松田くんのうっかりに巻き込まれてしまって」
 その疲れた微笑みから、詳細までは分からずとも、新野先生が何かしらのトラブルに巻き込まれてきたのだろうことは理解できた。先ほどまでの鉢屋との遣り取りも見ようによってはトラブルと言えなくもなく、名前は新野先生に半ば仲間意識のような同情心を抱く。
「心中お察しします」
「はは、察してくれますか。ありがとう」
 新野先生の穏やかな笑顔が、名前のざらついた心の表面をゆっくりとなだらかにしてゆく。
 鉢屋の言葉は名前の本心を掘り起こすことには成功しかけているものの、あまりにも荒療治と言わざるをえなかった。名前のような人間には、その烈しさは時に劇薬となる。
 ともあれ、いったん利吉のことは棚上げし、名前は掃除に専念することにした。その傍らで、新野先生は事務室から持ち帰ってきた何かのメモと照らし合わせながら、薬の在庫を確認する。
「苗字くん。私が不在の間、誰か医務室に来ましたか?」
 作業の片手間に尋ねられ、名前もまた掃除をしながら答える。
「五年ろ組の鉢屋三郎が足首を打ち身で。急ぎのようでしたから、わたしの方で湿布をつくって氷嚢と一緒に渡しました」
「なるほど。大丈夫そうでしたか」
「腫れてはいましたが、大丈夫だろうと思います。ひどくなるようでしたらまた来るでしょう。五年生ですし」
 名前は淡々と述べた。
 冷たいようにも聞こえるが、五年生ともなれば自己管理ができて当然であるというのが学園内での共通認識である。新野先生もそれを分かっているから、名前の見立てに深く頷いた。とはいえ、保健委員でもない名前の見立てを頭から鵜呑みにすることもない。鉢屋のぎりぎりまで我慢する性格も、新野先生はよく知っている。
「まあ、気にはしておきましょう」
「お願いします」
 そんな会話を交わしながら薬棚を点検していた新野先生だったが、薬棚のあるひとつの抽斗を開けたとき、ふいに「おや」と声を発した。そこは薬棚の中でも特によく持ち出しのある薬草が入った引き出しで、名前が先ほど湿布をつくるのに使った薬草もこの抽斗から取り出したものだった。
「ここに入れていた薬草が切れていますね」
「あ、そこの薬草はさっき使わせていただきました。あとで補充しておきます」
「そうでしたか。補充はついでに私がしておきましょう」
「ありがとうございます」
 ぺこりと頭を下げ、名前は礼を言った。
 痛み止めに使用する薬草は、鍛錬や授業で負った怪我を治療するのに頻繁に使用される。そうした薬草は高い使用頻度だけにストックも十分に作ってあるが、それでも時期によっては不足がちになるため、忍術学園の薬草園でも通年で栽培されていた。
「代わりと言っては何ですが……苗字くん、もしも時間があれば、この薬草を薬草園から補充してきてほしいのですが、頼めますか? 予備の方がもうだいぶ減ってきているので」
「ええ、大丈夫です。今日はもう授業もアルバイトも何もありませんから。掃除が済んだら薬草園に行ってまいります」
「そうでしたか、それではお願いします」
 はい、と頷き、名前は叩きを掃除用具入れに片付けた。その表情にはかすかにだが嬉しそうな色が見てとれる。
 医務室に立ち寄る頻度の高い名前は、必然的に新野先生からのこうした依頼を受けることも多い。くノ一教室の授業の一環として、名前も薬草園に立ち入ることはあるにはあるが、自由に入って学ぶことができる分、こうした授業時間外の個人的なお遣いの方が名前にとっては勉強になっていた。本来、薬草園は保健委員会の管理管轄であるため、無用のくノたまが自由に出入りすることは、禁止こそされておらずともあまりいい顔はされないのだ。
 静かに喜ぶ名前に、さらに新野先生が声を掛ける。
「そうそう、利吉さんが先ほど暇を持て余していらしたので、折角ですからついでに声を掛けていってください。採った薬草を少し利吉さんにもおすそ分けするという話になっているので」
 その言葉に、たちどころに名前の表情がしゅんとする。
「……利吉さん、ですか」
 思わず固い声で問い返す名前に、新野先生は困惑したように眉をひそめた。名前が病床の利吉の世話役を買って出たことは新野先生もよく知っている。医務室を無人にするわけにはいかない新野先生が、利吉の看病について名前に何かと指示を出したのも一度や二度のことではないからだ。その甲斐甲斐しい気遣いに、てっきり名前と利吉が親密な関係なのだろうと踏んでいた。恋人同士ではなくても、ふたりの間にそれなりに特別な関係が築かれていることは、新野先生の目から見ても明らかだった。
「利吉さんと一緒だと何かまずいことが?」
「……いえ、そんなことはありません」
 まだ妙に沈んだ声で名前が答える。まずいことなど何もありはしない。ただ、先ほどの鉢屋との会話を名前が多少引きずっているというだけのことである。
 利吉の世話役を買って出たことに下心があるのではないか──鉢屋からはっきりとそう指摘され、名前はまだその答えを出せないまま狼狽している。そんな状態のままで利吉に会うのは、どうにも気が重かった。
 とはいえ、他ならぬ新野先生からの頼みとあれば断るわけにもいかない。名前の個人的な困惑と葛藤には新野先生はもちろん、利吉すら関係ない。あくまでこれは名前の心の問題であり、名前だけが勝手に狼狽しているに過ぎない。
「分かりました、利吉さんに声を掛けてから薬草園に行ってきます」
「頼みます。この時間は客室にいらっしゃると思いますから」
 新野先生に言われ、名前は「はい」と虚ろな返事をする。掃除用の前掛けを外すと、大きく深呼吸をしてから医務室を後にした。

 ◆

「今日はいやに静かだね」
 頭上から燦々と降り注ぐ陽の光を浴びながら、地べたにしゃがんだ利吉がおもむろに切り出した。
 場所は薬草園、名前と利吉は新野先生に言われたとおり、不足分の薬草を採取しにやって来ている。利吉については採取してできた薬の半分を報酬代わりに貰える約束となっており、その分だけ薬草採りにも熱がこもっている。
 作業開始から暫く経っているが、夏の暑さにやられていることもあって、ほとんど無言でひたすら手を動かしていた。蝉の鳴く声ばかりがやけに大きく耳につく。利吉が静かだと言いたくなるのも当然のことである。
「そうですか?」
 わざととぼけた返事をする名前を、利吉が一瞥する。別々に作業をしているとはいえ、広大な薬草園の中、採取している薬草の種類が同じである以上、ふたりの距離がそう離れているわけでもない。手を伸ばせば届くような距離で、文字通り隣り合っている名前の態度が不自然であることに、名うての忍びである利吉が気が付かないはずもない。そしてまた、利吉が気付かないはずがないことに、名前が思い至らないはずもない。
「夏の暑さに身体を壊したとか?」
「いえ、そんなことは……たしかに夕飯で冷たいものを食べる頻度は増えましたが」
「食べられるなら大丈夫だな」
「人の健康を食欲ではかるのはやめてくださいよ」
「先に食べ物の話を始めたのはそっちだろ」
 鉢屋に続き利吉にまで揶揄われてしまい、名前は返す言葉もなくむっと口を尖らせた。
 気まずさはあるものの、利吉の方から声を掛けられれば、名前もそれに応じた返事はできる。一見普段通りに会話できているようにも思えるが、しかしそれもこれも、話題が他愛のない雑談だからこそのことである。名前は今、言わばこれまでの利吉との会話の経験から、言葉を機械的に返しているに過ぎない。名前の本心からの言葉を発しようとすると、途端に何を言っていいのか分からなくなってしまう。
 ──鉢屋が余計なことを言うから。余計なことを言って私を惑わせたりするから、考えなくてもいいことを考えてしまうんだ。
 この場に不在の鉢屋に胸中で悪態をつき、名前はそっと溜息にすらならない吐息を吐き出した。
 自分が今まで信じていた利吉への「憧れ」が、鉢屋によって「下心」を指摘されたことで大きく覆ろうとしている。それは名前が利吉に接する際に拠り所としていたものを否定することに他ならない。鉢屋はその観察眼の鋭さから、幼い時分の関係をそのままスライドして──あるいは利用して、今の利吉のそばに滑り込んだ名前の、自分ですら意識していなかった狡猾さ、ずるさを露わにした。名前が子どもではなく、女としての目で利吉を見ていることを、否応なく突きつけた。
 ──そんなこと考えたって、仕方がないことなのに。
 ──わたしなんかを利吉さんが相手にするはずがない。
 分かっている。自分が利吉からどのように見られていて、どのように扱われているか、名前には痛いほど分かっている。たとえ嫌われてはいなくても、利吉との関係があるのはあくまで郷を同じくする知己であるという一点のみに依拠している。それがなければ、自分が利吉にとっての「魅力的な娘」などではないことくらい、名前だってよく分かっていた。その証拠に、名前が知己であることを母親から知らされなければ、利吉はもう何年も名前の存在に目も留めなかった。
 分かっている。利吉のそばにいられるのは、あくまでも自分が昔馴染みの娘だから。今現在の名前を見て何かを感じているわけではない。分かっている、そんなことは分かっている。
 ──だから私だって、そうあろうと思っていたのに。
 ──「昔の知り合い」の距離を守ろうとしていたのに。
 鉢屋がそれを、欺瞞であると暴こうとしている。言い訳ばかりで取り繕った、まがい物だと晒そうとしている。
 そんな名前の思考を破ったのは、いつも通りの利吉の声だった。
「そういえば、どうして名前が薬草つみに?」
 黙り込んでいた名前を気遣ったのか、それともただの思い付きの質問なのか──
「こういうことは普段は保健委員会の子たちがするものだと聞いたけど」
 地面に近い部分の茎を手折り、利吉が問うた。ふたたび汗を拭って、名前はそっと笑う。気持ちを落ち着けるために一度だけ唾を飲み込むと、やけに大きく喉が鳴った気がした。
「ええ、そうなんですけれど。さっき医務室で薬を借りたら、それが在庫がある分の最後だったみたいで、それで新野先生に補充を頼まれたんです」
「医務室で薬って、どこか怪我でもしたのかい」
「いえ、わたしじゃなくて鉢屋が。わたしはたまたま通りかかって鉢屋に薬を出してあげただけで」
 そう説明すると、利吉の顔に一瞬浮かんだ心配するような色はすぐに霧散した。その表情の微細な変化にすら、名前の胸はずくんと疼く。利吉から当たり前のように発せられる優しさすら、今の名前は敏感に感じ取りあれこれと考えずにはいられなくなってしまう。
「そうか、鉢屋三郎くんがね」
 何か思案するように繰り返した利吉に、名前は小さく首を傾げた。
「鉢屋がどうかされましたか?」
「いや、前にくノたまと渡り合えるのは五年生だと鉢屋くんくらいだということを、尾浜勘右衛門くんから聞いたなと思って」
 利吉が思い出しているのは、以前尾浜と名前と三人でお茶会をしたときのことだった。くノ一教室に茶菓子を取りに行く名前が席を外している間、尾浜とふたりでそんな話をしたことが徒然と思い出される。
「鉢屋は弁が立ちますから。わたしなんかしょっちゅう言い負かされますよ」
「そうなの?」
「五年生の中で一番忍たまと関わりがあるのがわたしなので、その縁でどうしても。向こうも学級委員長ですし」
 忍たまとくノたまとの間に深い溝があることは利吉もよく知っている。その溝の幅は往々にして変化するものの、けして溝がなくなることはない。そんな中、名前は溝の向こう側とも遣り取りをする数少ないくノたまだった。自然、名前が折衝役を任されることは多い。上級生ともなれば尚更だ。
「人がいいのも考え物だな。そうやって次々面倒や厄介を引き受けていては、いずれ自分のことが疎かになりかねないよ」
 利吉からの忠告に、名前はいつものように苦笑して、
「気を付けます」
 とだけ返事をした。
 利吉に言われずとも、すでに名前もそのことには気付いている。そもそも、忍たまともそれなりに交流を持とうとする名前のことをよく思わないくノたまも少なくはない。今でこそほとんどなくなったが、下級生の頃には小さな嫌がらせを受けたことだってある。忍たま側にだって名前のことを目の敵にしている者がいることを、名前は知っている。
 しかし利吉はそこまでは気が付いていないようだった。視野が広い利吉といえど、客人である利吉がそうした小さな諍いのひとつひとつにまで気が付くことは難しい。名前がそうした諍いを隠す技術も巧妙だった。だから利吉はただ、
「まあ、君はのんびりしているように見えてやることはちゃんとやっているタイプだとは思うけど」
 と、そんな通りいっぺんで無難な言葉を口にしただけだった。
「気を付けます。と言ってもすでに、いつもいっぱいいっぱいですけどね」
「それなら私の身の回りのことまで世話を焼いてくれなくてもよかったのに」
 呆れたような溜息まじりの言葉に、名前の表情がこわばった。
 まさかこの会話の流れでそちらに話題が流れていくとは思いもよらず、心の準備ができていなかった。いつもならば適当に笑って受け流せる言葉だったにも関わらず、咄嗟に返すべき言葉を名前は見失っていた。
 鉢屋からの容赦ない正論がじわじわと蝕み、名前の頭と心をすっかり無防備なものに作り変えてしまっていた。
「あの、わたし……」
 名前の半開きの口からほとんど無意識にこぼれた言葉に、利吉がはっとした顔をした。自分の言葉が意図しない形に受け取られたことに気付き、慌てて名前の方に身体ごと向き直る。
「ああ、違う違う。誤解しないでほしいんだけど、別に迷惑だったとかそういうわけじゃないからね。むしろすごく助かった。あまり知らない相手に床の周りをうろつかれるのも落ち着かないし、そういう意味では乱太郎や名前が面倒を見るのを買って出てくれたのは本当にありがたかったよ」
 利吉の用心深い言葉選びの弁明を聞きながら、名前は少しずつ乱れた思考と情緒をととのえる。利吉の言葉は真実で、忍びとしては一分の隙もない上に名前への配慮もされた、そんな弁明だった。名前が利吉の世話を買って出るにあたり忖度した、利吉の事情をそのまま言葉にしたような弁明に、名前の胸の端っこが小さく軋む。この理屈を利用して、名前はまんまと利吉への下心を見えない場所に押し込んだのだと、そう誰かに言われているような気がした。
「そんな……この間も言いましたけど、好きでやってただけですから」
 蚊の鳴くような小さな声で返事をする。名前の返事も嘘ではない。好きでやっただけのこと──実際その通りなのだ。好きでやっただけ。憧れの存在に近づきたくて、好きでやっただけ。
 自分の都合で、そうしただけ。
 ──そうだ、本当はちっとも善意なんかじゃなかった。
 気付いた瞬間、胸がぎゅっと潰れそうになった。
 たまらず、半開きの口から肺にたまった空気の塊をゆっくり吐き出す。背中を嫌な汗が伝った。暑さによってかいた汗ではない、じっとりと嫌な感覚を伴う汗が肌の表面を撫ぜて落ちてゆく。照り付ける太陽が、名前のうなじをじりじりと焦がす。
 ──善意でも優しさでもなく、これはただの私の自分勝手なエゴだった。
 鉢屋の言葉を借りるなら、下心。利吉に近づきたくて、自分以外を利吉に近づけたくなくて、名前は利吉の世話役を買って出た。自分だけが利吉のそばにいることを許されている唯一のくノたまなのだと、そう自分に言い聞かせたくて。自分だけが利吉から頼られているただひとりのくノたまなのだと、そう実感したくて。
 もちろん利吉を心配する気持ちがなかったわけではない。むしろ鉢屋に下心の有無を問われるまで、自分は徹頭徹尾利吉の身を心配する気持ちだけで世話をしていると思っていた。利吉のために、利吉を思ってそうしていると思っていた。
 けれどそれは自分の目すら欺く欺瞞であった。
 今の名前はそのことを理解してしまった。
 その事実が、重い。


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