名もなき青たちの饗宴

 掃除当番のために名前が医務室の前を通りかかると、医務室の前で悩まし気な顔をした珍しい顔を見つけた。見つけたとはいっても、その「顔」自他は比較的よく顔を合わせる相手である。しかしその「顔」とは、つい先ほど職員室の前ですれ違い言葉を交わしている。つまりそこにいるのは、その「顔」を借りているほかの誰かであった。
「あれ、鉢屋」
 近寄りながら名前がその少年の名を呼ぶ。五年ろ組不破雷蔵の顔をした鉢屋が、変わらず悩まし気な顔をしたまま名前の方に視線を遣り、そしてわずかに嫌そうに眉をひそめた。その仕草ひとつとっても、彼が不破ではなく鉢屋であることの分かりやすい証拠である。しかし鉢屋が顔を顰めるのは名前相手に限ったことではないので、名前はそれに気分を害することもなく、
「珍しい、こんなところで会うなんて。どこか怪我でもしたの?」
 と、気にせず言葉を続けた。鉢屋はほんの一瞬躊躇ったが、結局素直に口を開く。
「鍛錬の途中にちょっとな。打ち身の薬をもらいにきたところだよ」
「そうなんだ。鉢屋ってたしかそういう怪我が長引きやすいたちだったよね」
 何気なく名前は言うが、しかし鉢屋はぎょっとした顔をして名前を見る。まるで恐ろしいものでも見たような顔つきを名前に向けた。
「そんなこと、よく覚えてるな……お前にそんな個人的なことを話したことがあったっけ」
「何年か前に聞いた気がするってだけだけど。違った?」
「いや、間違ってはいない。しかし弱点をいつまでも覚えていられると思うと、単純に恐ろしい」
 仲間内であっても極力弱みを見せないようにしている鉢屋である。その上、怪我が長引きやすいというたちは、変装を得意とする鉢屋にとって、場合によっては致命的ともなりかねない情報だった。その一点だけで変装を見破られてしまうことも十分にあり得るからだ。弱点と鉢屋が表現するのも当然である。
 そんな致命的な弱点を、よりにもよって天敵であるくノたまの名前に知られているとあっては、鉢屋が恐ろしく感じるのも無理からぬことだった。
 しかし名前は、
「嫌だなあ、弱点なんて」
 と、あくまで呑気な返事を返す。その気の抜けた声は、聞かせる相手によっては却って怪しまれても仕方がないというほどだった。鉢屋も呆れたように不破の目を細める。
「念のため聞くけど、ほかのくノたまには話していないよな?」
「もちろん」
「……もちろん、と言い切るくノたまもどうかと思うし、それを信じるのもどうかと思うが……まあいいか」
 そう言って鉢屋は疑念を振り払うように嘆息する。名前が変わり者であることなど、今更疑うようなことでもない。くノたまとしては忍たまの弱みを共有するのが正しいのだろうが、こと名前に関してはそういうことはしないだろうと、用心深い鉢屋ですら漠然とした信頼にも似たものがあった。
 ──だからといって、気に食わないのは変わりないけどな。お人よしなくノたまなんて、定石を外れている分逆に可愛げがないし、人の良さで付け込んでこないとも限らないわけだし。
 自分を納得させるように、弁解がましい言い訳を胸の内に並べる。そんな鉢屋を見て、
「何をひとりでぶつぶつ言ってるの」
 と、名前が首を傾げた。鉢屋が肩を竦める。
「いや? つくづく奇特なくノたまだよなあと思って」
「何それ、褒めてる?」
「貶してはいない」
「褒めてもいないんじゃないの」
 鉢屋と顔を合わせたときにはたいてい交わすことになる応酬を一通りこなしたところで、名前はつと鉢屋の足元に視線を遣った。この会話の間、鉢屋は発する言葉に合わせてささやかながら身振り手振りをしていたが、いつもの鉢屋と比べれば足元の動きが極端に少ない。その仕草から、鉢屋が怪我をしているのが足であることを推察するのはそう難しいことではなかった。
「それで、薬はもらえたの?」
 足元に視線を遣ったまま、名前は問う。見たところ治療をしたような形跡は見受けられないが、袴の下のことであればすでに何かしらの処置をしてある可能性もある。
 しかし鉢屋は、渋い顔をして首を横に振った。
「それが新野先生も伊作先輩もみえないのでどうしようかと思っていたところだ。医務室をからにするとは不用心だよなあ」
「厠にでも行っているのかな」
「だろうと思う」
 本来、医務室を長時間無人にすることはありえない。常に保健委員会の誰かか新野先生が詰め、かりに無人になる場合には施錠をしていく決まりになっている。今はその扉も半開きで、医務室の中は無人だった。不用心なことこの上ない。
「まあ、待っていればそのうち帰ってくるでしょう」
「しかしこの後委員会があってな。そう長く待つわけにはいかない」
 そう言って困ったように溜息をつく鉢屋は、珍しく本当に困っているように見えた。そもそも鉢屋は元来あまり医務室に近寄らない。多少の怪我ならば人から隠し、こっそりと治癒を待つタイプである。その鉢屋がわざわざひとり、誰に引きずられてくるでもなく医務室まで赴いているのだから、足の痛みも相当のものなのだろう。
 暫し黙って鉢屋を見ていた名前だったが、やがて何かを思いついたようにぱんと手を打った。
「そうだ。よければわたしが薬だけでも出そうか。あと冷やすくらいなら保健員会じゃなくてもできるだろうし」
 名案とばかりに言う名前に、鉢屋は当然ながら胡乱な目を向けた。くノたまからの善意に見せかけた嫌がらせは枚挙にいとまがなく、下級生の頃から散々煮え湯を飲まされてきている。相手が名前であろうとも、どうしても警戒心を抱くのは仕方がないことだ。
「お前、薬がどこにしまってあるのか知ってるのか?」
「くノたまは当番制で医務室の掃除もするから。忍たまたちのよく分からないイベントにも救護班で参加するし、くノたまならみんな低学年のうちから医務室業務もそれなりに覚えるよ」
 実際、今ここに名前がいるのも医務室の掃除に来たからである。さすがに本職ともいえる保健委員会ほどは治療に精通していないものの、くノたまたちは皆それなりに最低限の薬と毒の運用、治療法は学んでいた。上級生ともなれば、新野先生じきじきの薬学の授業もある。
「ふうん。それは知らなかった」
「ね。だから安心してお任せあれ」
 名前の頼もしい返事に、鉢屋は逡巡する。本来であれば断るべきなのだろうが、相手は名前である。この状況でまで鉢屋に嫌がらせをするほど、名前は気合の入った性悪ではない。それに治療と見せかけて嫌がらせをするなど、いくらくノたまでもそこまで非道なことはしないはずだ。
「……じゃあ、頼むよ」
 不承不承な鉢屋の返事に満足し、名前は医務室の扉を開けた。

 医務室の中はいつも空気が乾燥している。薬を煎じているときにはその限りではないものの、膨大な量の乾燥させた薬草と医学書が置かれた室内では、大気中の水分はどんどん奪われていく。すん、と鼻をひくつかせると、干し草と丸薬のにおいがした。そのにおいが名前は嫌いではない。むしろ好ましくすら思う。名前がたびたび医務室の掃除当番を買って出るのは、名前自身医務室が好きだからだった。
 鉢屋には適当にその辺に座るよう指示し、慣れた手つきで薬棚から薬草をいくつか取り出す。複数の薬草を混ぜ湿布をつくると、その湿布を氷嚢と一緒に鉢屋に手渡した。次に棚から救急箱を取り出すと、包帯の中でも特に綺麗そうなものは避け、適当なものをひと巻き取り出す。
「おい、きれいなの選んでくれよ」
 監視するように眺めていた鉢屋がすかさず声を出す。手当をしてくれると信用はした鉢屋だが、けして名前を信頼しているわけではない。名前に不穏な動きがないかを監視するのは重要なことだった。しかし名前はそんなことには一向にかまわない。
「打ち身でしょ? 傷口が開いてるわけじゃないんだから、適当なので大丈夫だよ。どれも煮沸はしてあるだろうし」
「それでもきれいなのがいい」
「わがまま言わないでよ」
 鉢屋の頼みを一蹴し、名前も床に腰を下ろした。すでに脚絆を剥ぎ袴をまくった鉢屋の足首は、名前が思った以上に真っ赤に腫れていた。よくもこれでここまで歩いてきたものだと思いながらも、何も言わずに名前は湿布の上から包帯を巻いていく。時折鉢屋の表情が痛々し気に歪んだ。
 ──容赦はないが、無駄もない。
 わざと名前がきつく包帯を巻いているわけではないことくらい、鉢屋でも見て分かる。結局それ以上文句を言うこともないまま、鉢屋は名前にされるがままになっていた。

 処置がひと段落したところで、名前はようやく腰を上げた。しゃがみこんでいたので腰が重い。
「はい、終わり」
 そう言って湿布をつくるのに用いた器具を片付け始める名前の背中に、鉢屋はどんよりとした視線を向ける。治療のために乱した服装を直しつつ、鉢屋はおもむろに言葉を切り出した。
「ときに苗字」
「何、鉢屋」
「利吉さんの面倒を甲斐甲斐しく看ていたのがお前だというのは本当か」
 脈絡のない鉢屋の言葉に、一瞬──ほんの一瞬名前が片付けの手を止める。しかしそのわずかな異変を、まさか鉢屋が見落とすはずもない。
「……甲斐甲斐しくかどうかは分からないけど、利吉さんのお世話なら多少任せてもらったよ。知らない仲でもないし、利吉さんも知らないくノたまに身の回りのこと任せるのは嫌かなと思って」
 鉢屋を振り返ることもない。名前は作業を再開させ、何でもないことのように返事を返した。
「保健委員と新野先生は」
「利吉さんは医務室入院じゃなかったし、時々新野先生が診にくる以外は身の回りのことだけだから。わたしと一年は組の子でどうにかなったんだよ」
 そつのない受け答えをする名前の声は、いつもの声音と何ら変わるところはない。普段の名前を知る鉢屋の耳にも、それは明らかなことだった。
 だからといって、それがまるきり本心であると鉢屋が認めたわけではない。曲りなりにも名前はくノたまである。本心を覆い隠すことは得意とするところのはずだった。鉢屋はくノたまの言うことを鵜呑みにするような真似はしない。そしてまた、鉢屋は他人の心底を暴くことがめっぽう得意でもあった。
「へえ……」
 明らかに含みのあるその返事に、名前はようやく鉢屋の方に振り向き、目を眇める。
「何よ、そのもの言いたげな返事と視線は」
「いや別に?」
 言葉のわりには視線にも言葉にも、佇まいにすら含みがある。救急箱を片付けた名前は、その視線に応えるべく、できる限り嫌そうな顔をして鉢屋を見た。
「わたし、鉢屋のそういう思わせぶりというかむやみやたらと意味深にする感じ、苦手だなあ」
「率直な苦情を言うなよ」
「御免遊ばせ、これでもくノたまなもので」
「しかも五年生のおつぼねくノたま、な」
 揶揄するように鉢屋が笑う。名前はむっと唇を尖らせた。
「おつぼねで悪ぅございましたね」
「別に、いいんじゃないか? 晴れて嫁の貰い手もつきそうなことだし、五年まで残った甲斐もあったんじゃないか」
 脚絆の下の腫れをさする鉢屋が、わざとらしくちくりと言葉をささくれ立たせた。そのささくれを無視することもできず、名前は視線をわずかに険しくする。普段は呑気な名前だが、だからといってまったく不機嫌にならないわけではない。今この状況においてのみいえば、名前はまんまと鉢屋の術中にはまっていると言えた。
 それでもいきなり頭に血を上らせないくらいの注意力は名前にもまだ残っている。
「……何の話?」
 あくまで静かにそう問えば、鉢屋は一層面白がるように笑んで顎をしゃくって見せた。しゃくった先の方角にあるのは、現在利吉が生活をしている客室である。
「利吉さんだよ。うまくやればお前のことを嫁にもらってくれるかもしれないぞ」
 それが利吉の世話を買って出ている名前への揶揄であることは、もはや疑いようがなかった。その発言の意図を頭の片隅で想像しながらも、しかし名前は率直に顔をしかめた。
「……鉢屋。そういう言い方はちょっと、いやかなり、好きじゃない」
「だろうな。だからこういう言い方をしてる」
 悪びれる様子もなく返され、名前は深々と溜息をついた。
「助けてあげるんじゃなかった」
「悪い悪い、冗談だ」
「冗談って顔してなかったけど」
「おお、さすがに目敏いな」
 名前に限らず、くノたまの中で鉢屋を相手に舌戦で勝てる者はいない。普段であれば名前は鉢屋に限らず忍たまと言い合いをすることなどなく、また鉢屋も鉢屋で比較的温厚な名前にわざわざ絡むこともない。忍たまとくノたまの距離感としてはそれが適切であり、最良であることはお互いよく承知していた。
 その一線を鉢屋が侵したのは、ただの興味と好奇心という以上に、名前の心情に関心があったからだ。それはけして好意や思慕ではなかったが、少なくとも悪い意味での関心というわけでもなかった。
 ──こういう煮え切らないやつを、そのまま放っておけたら簡単なんだろうけど。
 そんな思いを胸裏に隠し、鉢屋はあくまで飄々とした仮面をかぶって笑う。
「まあ半分本気、半分冗談として」
「冗談でもそういうこと言わないでよね」
 先ほどまでの視線の険しさはすでに失われ、今はもう、名前はただむっとしたように鉢屋を相手にしている。鉢屋が好戦的な瞳をすでに潜ませたことを見て取り、ひとまずは一触即発の空気ではなくなったことを察したのだろう。その切り替えの早さに内心舌を巻きながら、鉢屋はぴっと指を立てて言った。
「けれどお前、多少はそういう下心はないのか? いくら知った仲といったって、相手はあの利吉さんだぞ。男の私から見ても魅力的なひとじゃないか。くノたまならキャーキャー言うものだろ?」
 当然のことのように言われ、名前も思わず押し黙った。
 鉢屋の言うことはまったくただの想像に過ぎない。名前と利吉の間にどのような関係が築かれ、どのような距離感で相対しているのかを鉢屋は人づてにしか知らない。
 しかし名前は言い返さなかった。いや、言い返せなかった。鉢屋の言い分には、たしかには名前にも覚えがあったからである。
 名前が利吉の世話役を買って出たとき、後輩たちからまったく妬みの視線を感じなかったわけではない。くノたまの中では利吉は根強い人気を誇っており、その面倒を見る役となれば利候補者が続出するのは想像に難くない。それでも結局、名前が世話役に落ち着いたのは、名前が上級生であること、面倒見がよく医務室にも出入りがあって勝手がいいこと、そして何より利吉と親しくしていることをほかのくノたまたちも知っていたからだった。
 名前と利吉の中を疑う者は少なくない。実際にはその噂は根も葉もないことだったとしても、噂として広まっている以上はある程度の説得力を持つ。世話役を選出するにあたって、名前がその噂を利用しなかったといえばそれは嘘になる。
 ──それでもあの時は、それが利吉さんのためだと思ってわたしが世話役を買って出た。
 忍びとして生きる利吉のため、くノたまの中では最も利吉と親交のある自分が名乗り出るのがいいだろうと、名前は本心からそう思った。あくまでも利吉のため──名前は今の今まで、ずっとそう思っていた。
 その本心だと信じていたものを、鉢屋の言葉ひとつでこうも容易く揺さぶられている。
 胸の底から感情をかき交ぜられているような心地になる。自分が信じていたものがどれほど頼りないものだったのか、思いがけず突きつけられているような気がした。
「勘違いしないでくれよ。私は別に、それが悪いことだとは言っていない。ただ、徹頭徹尾『利吉さんのため』なのかなと、ふと思っただけだよ」
「……鉢屋のそういう」
「思わせぶりが苦手、だろ」
「ぐう」
 唯一言い返そうとした言葉すらあっさり封じられ、名前は悔しそうに口をへの字に曲げるしかない。その情けない表情に満足したのか、鉢屋はゆっくりと立ち上がった。一瞬よろめき、しかし名前が手を貸そうとするのを手と目で制す。その様は「これ以上くノたまに借りを作るなんてたまったものじゃない」とでも言いたげな頑固さを持っていた。
「さて、私はいくか。氷嚢と薬助かった。それにしても、利吉さんへの下心ありの善意と比べて、私に対しての処置は一から十まで『鉢屋三郎のため』という感じだったな」
「まあ、鉢屋に親切にしても一利もないしね」
「そこは百害ないだけましだと思うところさ」
 鉢屋の減らず口に、名前はようやくふっと笑った。


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