薫風のよう

 ある朝、名前がアルバイトに向かうべく学園の門に向かうと、ちょうど門前で出門票に名前を記入している利吉と鉢合わせた。小松田と何事か言葉を交わしている利吉に、名前はたっと駆け寄る。
「利吉さん!」
 普段は出会いがしらに名前を呼ぶことは避けるが、今は忍術学園の門前、敷地内である。周囲に人影もないため、憚ることなく名前を呼ぶ。途端に小松田がじと目で名前を睨んだ。
「ちょっとぉ、苗字さん。僕のことは無視?」
「すみません。おはようございます、小松田さん」
 膨れる小松田に笑いかけ、名前は改めて利吉に向き直る。
「朝早い時間に珍しいですね。今からお帰りになるところですか」
「ああ。今日はちょっと学園長先生に急ぎの用事があったんだ」
「なるほど、そうでしたか」
 利吉の手から出門票を受け取り、名前が記入しながらちらりと利吉の表情を窺う。そのもの言いたげな目許と口元に、利吉は思わず苦笑した。名前の顔には利吉の用件が仕事であれば大っぴらに内容を聞くわけにもいかないが、まったくその内容が気にならないわけでもないという葛藤がありありと浮かんでいる。
「いや、仕事じゃないよ。君たちが言うところの『学園長の突然の思い付き』ってやつに、ちょっと巻き込まれてね」
「それはそれは……お疲れ様です」
「私の場合はそれでもちゃんと依頼料が出ているから」
「羨ましい限りです」
「これでも一応外部の人間だからね。そのくらいの線引きはあるよ」
 記入を終えた出門票を小松田に返し、名前と利吉は揃って門をくぐる。まだ朝も早い時間だと言うのに太陽の光は厳しく、昼を待たずに気温が上がりそうな気配がしている。草鞋の下の地面はすでに熱をためこみ放ち始めている。
「名前はこれからアルバイト?」
「はい。最近は実習準備や何やらばたばたしていて、ちょっと久し振りなんですけどね」
「大変だな、学業とアルバイトの二足の草鞋」
「利吉さんほど忙しくはありませんよ」
 くすくすと笑い合い、それからどちらからともなく歩き始めた。
 名前の行き先が山を越えた先の麓(ふもと)の団子屋であることを利吉が知っているのに対し、利吉の行き先を名前は知らない。
 忍術学園には仕事で来ているわけではないとはいえ、利吉が忍術学園に立ち寄ったその足で次の忍務先に向かうことも有り得ないわけではない。また、そうでなくともどこかに人知れず借りている拠点に向かうということも考えられる。いずれにせよ、詮索するような真似はしない方が賢明であることを名前は知っていた。利吉もまた、何も説明するつもりはない。それが名前と利吉の適正な距離感の表れであった。
 とぼとぼと山中を歩いていると、名前が唐突に切り出す。
「そういえば、わたしのアルバイト先の近くに美味しいうどん屋さんができたんですよ」
 うきうきと楽しそうなその声に、利吉は「へえ」と相槌を打った。
「あの麓の団子屋の近くに」
「そうなんです。あの辺り、人の行き来があるわりにはお店が少なかったんですけど、この頃少しずつ増えてきていて」
「名前のアルバイト先が大流行りしているから、そのうどん屋というのもそれにあやかろうという算段なんじゃないか?」
「そうだとしても、よく行く辺りに美味しいお店が増えるのはいいことです」
 何故だか胸を張って名前は答えた。
 忍術学園からひと山越えた先にある名前のアルバイト先は、大きな街道に沿っているわけではない。辺りには小さな町と山村が点在しており、客層のほとんどは地域の住民である。名前がアルバイト先にその団子屋を選んだのも、それなりに繁盛しており、忍術学園から近い山村の住人の憩いの場のようになっていることからだった。
 そのような店でアルバイトをしていれば、自然と忍術学園の周辺での噂話が耳に入ってくる。以前利吉が見張っていた屋敷にドクタケが出入りしていることに名前がいち早く気が付いたのも、あやしい男たちが出入りしているという噂を客たちの会話から聞き拾って知っていたからだった。
「でも周囲にあんまり競合が増えると、団子屋としては商売あがったりなんじゃないの?」
「今のところそんなことはなさそうですけど……。だってまったく同じお団子屋さんができたわけではないですし」
「そうやって油断していると、これからじわじわと客足を奪われていくんだよ……」
「うわあ、利吉さんってば怖いことをおっしゃる」
 そう言いながらも楽しそうに笑っている名前の顔からは、焦りのようなものは感じられない。名前が一介のアルバイトに過ぎないということもあるが、人気の団子屋のアルバイトとして、そうそうぽっと出の店に負けるはずがないという自負が名前にはあった。
「まあ、それに万が一客足を奪われるなんてことになるとしたら、こっちも負けじと何か策を打ち出すしかないでしょうね」
 のんびりと言う名前に、利吉は楽しそうに視線を遣る。
「へえ、と言うと何か戦略があるのかい」
「うーん、たとえばですけど、お団子一皿につき福引券を一枚つけるとか」
「福引の景品はどうするの」
「その辺の花とか……あ、あと学園長先生の生首フィギュアとか……?」
「むしろ客足が遠のくよ」
「あ、あと忍たまのみんなに協力してもらって、女装した忍たまと相席になれるとか?」
「それは……人選次第かな」
 利吉の最大限言葉を選んだ返答に、名前が面白そうににやりと笑う。日ごろ父親の女装を目にする機会が多く、また自分自身も仕事によっては女装を厭わない利吉であるが、だからこそ拙(つたな)い女装には手厳しい。そうでなくとも体格のよくなってくる上級生の女装には目を覆いたくなるようなものも少なくなかった。
 名前もまた、くノたまとしてその実情はよく知っている。だから利吉の言葉を否定するでもなく、さりとて無暗に同意して六年の先輩を貶すでもなく、やんわりと話題をずらした。
「利吉さんだったらお団子にどんな特典や景品がついたら嬉しいですか?」
 限りなくどうでもいいような雑談だが、ほかにこれといって話さなければならないこともない。利吉は素直に「そうだなあ……」と話題に乗ることにした。
「欲しいものは色々あるけど」
「まああくまで『もしもの話』ですし、現実的にはなかなか手に入れるものが難しいことやものっていうのもアリですよ。たとえば──そうだ、お休み三日券とか?」
「休みが続くと逆にそわそわして落ち着かないんだよね……」
 「もしもの話」ですら休もうとしない利吉に、名前はもはや一周回って感心すら覚える。
「わあ……なんというか……働き者体質」
 何とか言葉を選び、そう発すると利吉は肩をすくめて開き直ったように、
「別に仕事中毒と言ってくれて構わないよ」
 と、笑って返す。
「一応、気を遣って差し上げたんですけど」
「言われ慣れてるからね。今更怒ったり傷ついたりしないさ」
 というより、仕事中毒である自覚があるのだろう。自覚があることを言われたところで、今更傷ついたりなどしない。名前の畏怖と畏敬のこもった視線を受け止めながら、利吉は改めて思案するように顎に手を添えた。
「そうだなあ……。私だったら、普通に忍具の支給がありがたいかな。撒き菱とか火薬とか薬草とか、どうしても消耗品だし。フリーだとある程度そういうものは自前で用意しなきゃならないから、どうしても馬鹿にならないんだよね」
「利吉さんってば現実的ですねえ」
「駄目?」
「いいですよ」
「そもそも現実の話じゃないけどね」
「たしかに。それもそうですね」
 ひとつ頷き、それから「じゃあ利吉さんには忍具の支給」と繰り返す名前に、利吉はすっと目を細めた。何とも中身のない話だが、とはいえ道中の暇つぶしくらいにはなる。
「名前は? 名前だったらどんな景品がついたら嬉しい?」
 今度は利吉が名前に問う。自分に話を振られ、名前は利吉の真似をするように顎に手をあてて見せた。
「うーん。それがさっきから考えてるんですけど、特にこれと言って何も思いつかないんですよね……」
 心底悩んでいる名前の苦悩に満ちた表情を浮かべる名前に、利吉は自分のことを棚に上げ苦笑する。利吉も利吉で大した空想をしたわけではなかったが、それはあくまでも真剣に考えていなかったからに過ぎない。名前の場合、「もしもの話」であるにも関わらず死活問題のような真剣さで熟考し、その上でなお何も思いつかないのだから利吉の無欲さとはまた話が違う。
「へえ、無欲なんだ」
 利吉が思ったことを素直に口にすれば、名前は困ったような照れたような曖昧な笑みを浮かべる。
「いえ、別にそういうわけではないと思うんですけど、でもいざ何か欲しいものがあるかって言われると、いまいち思いつかないんですよねえ……」
 名前はけして無欲なわけではない。年相応に着飾りたい気持ちもあれば、食べたいものだっていくらでも思いつく。ほかのくノたまたちが実家からの援助を惜しみなく受ける中アルバイトに精を出している名前は、こと忍術学園の中という狭い範囲でのみ言えば、どちらかというまでもなく恵まれない境遇にある。周りのくノたまを見て羨ましく思うことはけして少なくはない。
 とはいえ、名前もすでに五年生である。そういった自分の中の欲求と現実の折り合いくらいはついている。忍術学園に通わせてもらっているということ自体が恵まれたことであることが分からないほど、名前も子どもではなかった。
 だから咄嗟に欲しいものと言われて思いつかないのは、欲しいものがたくさんあるからでもあり、手に入れられると思っているものが少ないからでもある。利吉には「もしもの話」と言っておきながら、結局のところ名前もまた普段の思考の癖が抜けていないのだった。
「難しいですけど、でもまあ、しいて言うなら」
 と、暫し黙考していた名前がようやく口を開く。半ば名前に答えを求めることを諦めていた利吉は、その言葉に「おや」と少しだけ目を見開いた。
「しいて言うなら?」
「今年食べそびれたたけのこご飯を食べたいかなあ……。あとアルバイト先のお団子も、一本や二本じゃなくてたらふく食べてみたいし、最近お店で出すようになったけどまだ試食していないお饅頭も食べたいですね。さっき言ってた新しくできたうどん屋さんでも、あげをてんこ盛りにして食べてみたいし……」
 その妙齢の女子らしさを一切感じさせない返答に、利吉は面食らい、そして思わず噴き出した。
「なんだ、あれだけ悩んだのに結局、食べることばかりじゃないか」
「まあ、食べ物が一番後腐れなく幸福になれますから」
 さも理を説くように名前は言うが、言っている内容はただ食い意地が張っているだけのそれである。たしかに後腐れはないだろうが、あまりにも色気を欠いた発言に利吉はがくりと脱力する。
「名前の言い分も間違ってはいないんだろうけど、だからといって正しいわけではないような」
「景品を奪い合って血で血を洗う戦いとかになっても困りますし、それならたけのこご飯くらいで手を打っておこうかな、と」
「空想の世界なのにいやに現実的な理論を持ち込むね」
「おなごはいつでも現実的なのですよ」
「私はこれでも色々なおなごと話す機会があるけれど、たけのこご飯にそこまで執着するおなごのことはおなごと呼べないかな」
 揶揄するような利吉に、名前は柄にもなくふくれっ面をして見せる。食い意地が張っていると思われることについてはどうとも思わない名前でも、さすがにくノたまとして「おなごと呼べない」などと言われるのは心外だった。
「ひどい……じゃあわたしは何なんですか。おなごでないというのなら一体何なんです?」
「何だろうね。まあ、名前は名前でいいんじゃないか」
「何故でしょう、貶されているはずなのに、何となく納得させられる言い分……」
「これでも口は達者な方だよ」
 しれっと言い返した利吉だが、しかしなおもふくれっ面の名前の顔を見ると、そっと息を吐きだした。やにわに名前の頭に手を伸ばし、利吉の肩よりも低い位置にあるその頭を軽く撫ぜる。
「なんてね、冗談だよ」
 とってつけたような利吉のその言葉に、名前はじっとりとした目で利吉を見る。もちろん本気で怒っているわけではない。しかしおなご扱いされずに子ども扱いされるというのは、名前のような暢気な性格の娘であっても多少むっとはする。
「もういいです。気休めはよしてください、余計に傷つく……」
 拗ねたように呟く名前に、利吉は面白がるのを堪えて小さく笑った。
「いやいや、気休めじゃなくてね。──大丈夫、私の目から見ても名前は素敵なおなごだよ」
 名前の頭を撫でたままあやすように言われ、名前はむっとしながら俯いた。
 ──利吉さんってば、ずるいんだから……。
 じんわりと耳や頬が熱くなるのを感じながら、名前は何とか絞り出すように、
「……ありがとうございます」
 とだけ、小さく返事をした。


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