人並みの欲(1)

 くノたま長屋も、原則的には忍たま長屋と同じように学年ごとに部屋を割り振られている。とはいえ忍たまほど人数が多いわけではなく、おまけに上級生ともなると一棟を一学年ないし一クラスで利用できるほどの人数もいないので、必然的に学年をまたいで同室になるという事態が発生する。
 名前の同室者も、一学年下の四年生のくノたまである。三年の終わり頃にその後輩の当時の同室者が退学したのをきっかけに、名前と同室になった。名前もまた四年間同室だった友人が退学したことで、一時的にひとり部屋になっていたためである。
 その後輩こと松は、部屋に置かれた衝立の裏から今、ひっそりと衝立の向こうの名前の様子を窺っていた。
 四年生は夏休みを目前に、目下気配を消すよう練習している最中である。夏休み明けの演習で忍たまの上級生の背後をとることが課題になっており、そのための練習にそれぞれ勤しんでいるところなのだが、松もまた例にもれずその練習に明け暮れていた。
 松は優秀なくノたまでもある。気配を絶つ術というのもすでにかなり様になっており、ゆえに事務室から戻った名前が、部屋の出入り口から死角になっている衝立の向こうに松がひそんでいることに気が付かないのも、致し方ないことではあった。
 ともあれ。
 部屋に戻るなりいそいそと文机に向かった名前のことを盗み見ながら、松はじっと息を潜めていた。先ほど、食堂帰りの松が事務室の辺りで名前とすれ違ってから、まだそう時間は経っていない。見ると名前の手元には文が一通あったので、なるほど文を取りに行っていたのか、と松は理解する。
 名前が文に視線を落としながら険しい顔をしている。さすがに何が書かれているのかまでは判読できないが、もとより人の文の内容を盗み見するような悪趣味は松にはない──というよりも、そもそもこうして名前に黙って様子を窺うことすら、松の趣味ではなかった。
 だから、さっさと隠れるのをやめにして出ていくことにした。
「何を読まれているのですか?」
「ひゃっ!?」
 自分以外は誰もいないだろうと思っていた室内に唐突に声が響き、名前が悲鳴と共に飛び上がる。慌てて姿勢を正して辺りを見回すと、ちょうど衝立の向こうから松が出てくるところだった。
「ま、松。あなた、ずっとそこにいたの?」
 上ずった声を上げる名前に、松はじりじりとにじり寄る。それぞれのスペースとプライバシーを確保するための衝立ではあるものの、気心知れたふたりにとっては相手のスペースに入り込むことに躊躇はない。またこの部屋の中においては、最低限の先輩後輩の礼さえ守れば後のことはなあなあにしてもいい、というのが同室になったときからの約束だった。
「はい、ずっとおりましたとも」
 悪びれた様子もなく松が答える。
「四年生は今、気配を絶つ術の練習中でして。それより先輩、今後ろ手に文らしきものを隠されましたよね。さては恋文ですね?」
「違うって」
「隠さなくても結構です。松は万事承知しておりますし、そういったことには理解がある方ですよ。それで、送り主は一体何処のどなたです? 先輩のアルバイト先の客? それとも時々山本先生のお供で顔を出している道場の門下生? はっ、もしや小賢しく生意気で粗野で粗暴な忍たまの誰かとか!?」
「こらこら。そこまで言うことないでしょう。それに本当に恋文なんかじゃないのよ」
「では、何処のどなたから」
「郷の母から」
 名前の答えに、松が意外そうに目を瞬かせた。
 名前と相対するように腰を落ち着けると、松はこてんと首を傾げる。その仕草を愛らしく思いながら、名前はほら、と文の差し出し人を見せた。そこには確かに名前の母の名が記されていた。
「名前先輩にお母上からとは、また珍しい」
 ひとまず恋文の類ではないことは納得したらしい松が、にわかに盛り上がっていた気持ちをいくらか落ち着け、言う。ほかのくノたまとは違い名前があまり実家に寄り付かないことも、松はこの二年ほど同室として名前と接し、知っていた。それゆえの言葉に名前もまたしみじみと頷く。
「ねえ。だからわたしも咄嗟に隠してしまったのよ。なんだか照れくさくて」
「なるほど、そういうわけでしたか」
 と、松はここで一度言葉を切ると、さも訳知り顔で、
「私はてっきり利吉さんからの文かと思ったんですけど」と、しれっと付け足した。思わず名前が盛大に咽る。実習中はともかくとして、素の名前の嘘のつけなさ、裏表のなさというのは、やはり利吉をして「忍びに向いていない」と言わせるのも仕方ないような有様であった。
 そんな名前の動揺には目もくれず、松はのんびりと、
「名前先輩は利吉さんとお付き合いされているのですか?」
 と、尋ねる。先ほどまでは一応畏まって正していた正座もすっかり崩し、松は今や完全にくつろぐ体勢に入っていた。未だ正座でぜえはあとしている名前よりも余程貫禄がある。その名前はといえば、咽た拍子に唾が変なところに入ったのか、上体を大きくぐらつかせて悶絶していた。
 ようやく息を整えた名前が、呆れたように溜息をつく。
「付き合ってるって、わたしと利吉さんが? まさか。そんなはずないでしょう。そんな噂をしては利吉さんにも失礼だわ」
「ええー……でもこのところ、利吉さんが頻繁にくノたま長屋に顔を出されるのは、名前先輩に会いにいらしているんじゃないんですか」
「そうだけど、でも別にわたしに会いに忍術学園にいらしているわけじゃないわよ。あくまで山田先生に御用があったり、学園長先生に御用があったり、食堂のご飯を召し上がってたり……。わたしのところに来てくださるのは、そのついで」
「それでも先輩の顔を見ていかれるのは事実じゃないですか」
「郷が同じだからね。わたしがなかなか実家に帰らないものだから、様子を見てくるように頼まれていらっしゃるのよ」
「家族公認だなんて、なんて羨ましい……」
「だからそういうのじゃないんだってば……」
 何を言っても都合のいいように解釈して返事を寄越す松に、名前はほとほと困ったように息をついた。松が本心から言っているわけではなく、浮いた話のない名前にふってわいたような色めいた話を面白がっているだけであることは言うまでもない。
 五年生ともなれば真偽はどうあれ、一度くらいは浮いた話が持ち上がるのが普通である。郷に決まった相手がいる者はともかく、そうでもなければ年ごろの娘の興味と好奇心を学業だけで満たすことは難しい。くノたまはその性質上、色事とは無縁でもいられず、市井の女子たちよりもいっそう早熟なきらいがあった。名前ほど何の噂もなく五年生まで進級してくる者はほとんどいない。
 くノ一教室でも、このところは名前と利吉の関係を勘繰る噂で持ちきりである。以前利吉は名前が自分で噂をおさめるつもりなのだろうと予想していたが、何のことはない。名前はただ、自分がそうした噂に巻き込まれることになるなど、想像すらしていなかっただけだった。
 そんな呑気な性格の名前がいつになく困り果てるのを眺めて、一方の松は物憂げな視線を中庭へと遣る。中庭にしつらえられた池には睡蓮が控えめに咲いている。
「でも本当に羨ましいんですよ。私なんて、もう小さいときから嫁ぐ家も相手も決まっておりますから。四年生が終わったらそのまま退学しなくちゃいけないなんて……」
 松の沈んだ声に、名前もそっと眉をひそめる。
「残念ね。折角楽しくお話できる友達になれたのに」
「せんぱぁい……」
 情けない声をあげ、松が名前にひしっと抱き着く。名前は両手を広げて松を受け止めると、そっと松の背中に手のひらを当てた。
 庶民の出の名前とは違い、松はほかの多くのくノたまと同じく良家の子女である。幼いころに決められた許嫁がおり、退学後はすぐにその相手に嫁ぐことが決まっている。忍術学園に入学したのも行儀作法をひととおり学ぶこと、そして何より『山本シナ先生のもとで指導をうけた』という箔つけのためであった。山本先生のもとへ娘を遣り教えを受けさせるということは、上流階級ではひとつのステータスになっている。
 ひとしきり抱き合って慰めあったところで、松は静かに名前から身体を離すと、もともと座っていた座布団へと戻った。松とてくノ一教室で四年生まで進学してきた娘である。相応にしたたかで豪胆な性格をしており、実際には退学を嫌がる気持ちはあっても、親に決められた許嫁に嫁ぐこと自体を厭うわけではない。
「先輩はご卒業された後もどこかに嫁ぐご予定などはないのですよね?」
 と、すっかり切り替えた松が、再び名前に水を向ける。
「今のところはね。そりゃあこの先どうなるかは分からないけれど、今のところ両親も何も言ってきてはいないし……。そもそも、うちはみんなのように立派な家ではないから」
 名前の生家の辺りでも親が結婚相手を探してくる者は多いが、とはいえ良くも悪くもお家のためにという義務感は薄い。名前の場合は兄が家を継ぎ、姉はすでによそに嫁いで子どもも設けている。こうして名前が忍術学園に通い好き勝手にしているのも、自分の肩にかかる重圧がほとんど皆無だからに他ならない。
「でも、想う相手くらいはもしかしていらっしゃるのでは?」
「想う相手ねえ……」
 言われ、名前は思案するように中空を見つめた。
 想う相手──その言葉に名前の脳裏に真っ先に思い浮かんだのは、やはり利吉の顔だった。現在名前がもっとも親しくしている男性であり、かつ知己でもある。幼馴染というには縁が薄いが、名前にとっては利吉は幼いころから憧れの対象であった。
 ──それに、さっき読んでいた母からの文のこともある。
 母から久し振りに届いた文には、何度か利吉の名が登場していた。その理由は大したものではなかったが、とはいえ直前まで利吉のことを考えていた名前にとっては、この話題で利吉を連想してしまっても仕方がない。
 ──わたしと色事なんてまったく縁がないけれど、それでもはじめて男の人を好きになったのがいつかと言われれば、幼いころに利吉さんに憧れたのが唯一それらしい経験であり、感情ということになるのかな。
 それはけして、巷で言われるような燃え盛る感情などではない。あくまでも幼い子どもが年上の溌剌とした少年に淡い憧れを抱いたというだけの話だ。しかしその淡い憧れは、淡い気持ちだからこそ燃え尽きることもなく、今もまだ名前の胸の中に小さくゆらゆらと光の粒となって揺れている。初夏の蛍がちかちかと点滅するように、名前の心の中にそっと光を灯し続けている。
 想う相手──そんな相手がいるとすれば、名前にとってその相手にもっとも近い場所にいるのは、もう何年もの間、利吉ただひとりである。
 名前が沈黙してから暫しの時間が経った。名前がぼんやりと回想に耽ることは珍しくないが、しかし今は、如何せん間が悪かった。静かになってしまった名前を見て、松がはっとしたように眼を見開く。
「えっ、急に黙り込まれてしまうなんて、まさか先輩、本当にそういう方がいらっしゃるんですか」
 そう驚いたように問われ、名前もようやく我に返った。慌てて首を横に振る。
「えっ? あ、そういうわけではないのだけれど」
「ひどい、もう二年も同室で仲良くやってきたというのに、この期に及んで私に隠し事があっただなんて!」
「違う違う、そういうことじゃない。だからその妙な口調とノリをやめなさい」
「先輩の好い人を教えていただけるまでやめません!」
 松は利口な娘だが、こうなると厄介だった。名前が押しに弱いのを知っていて、その上でごねているのだ。松の追撃から逃れるには、この場から逃げ出すしかない。
「困ったなあ……そろそろ支度をしないといけないのに」
 そう言ってそそくさと腰を上げ、長持へと寄る。その仕草に松が首を傾げた。
「あらっ、先輩どちらかお出かけですか?」
「ええ、ちょっと買い出しに。学園長先生のおつかい」
「そうでしたか。お供しましょうか?」
「ううん、ひとりで大丈夫。アルバイト先とも取引のあるお茶屋さんで来客用のお茶をいただくだけだから」
 名前の返事に、松はあからさまに落胆したように、
「お茶かぁ……」
 と、呟く。学園長からのお遣いのときにはお駄賃が出るのが決まりである。忍たま相手のときにはブロマイドで誤魔化されることも多いが、くノたまをお遣いに出すときには、山本先生の尽力もあってひとり分のお茶代くらいを多く持たされることが多い。松がそれをあてにしていたのは名前の目にも明らかだった。
「甘味じゃなくて残念だったわね」
 長持の蓋を開けて外出用の小袖を取り出しながら、名前がくすくすと笑った。


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