まつろわぬものたちの変成(2)

「委員会室はこっちです」
 先導する尾浜に連れられとぼとぼと歩きながらも、利吉の頭の中にはまだ、先ほど尾浜に両手を合わせていた名前の姿が残っていた。
 ──ああいう計算や体裁を繕うようなことを、あの子もするのだな。
 くノたまらしいといえばくノたまらしくはある。くノ一教室は何も淑女養成のための行儀教室というわけではないのだ。当然ながら、くノ一としての素養を生徒に叩きこむ。口八丁はくノ一としての技術の基本であり、場合によっては武力や武器よりも余程役に立つ。
 しかしこれまで呑気でのほほんとした名前ばかりを見ていた利吉にとっては、何となく、ああして場をうまく収めようとする名前の姿は意外なもののように見えていた。名前がくノ一教室の生徒であることは分かっていても、思えばくノたまらしい名前の姿を、利吉はこれまで一度も見ていない。意外に思えてしまうのも仕方のないことだった。
 そんな利吉を、さらに尾浜がふうむ、と観察する。
 普段これといって接点もないふたりだが、尾浜は基本的に人見知りをしないたちである。いくら相手がプロ忍びといっても、五年生ともなればそれなりに度胸もある。思案する利吉に対して物怖じする様子もなく、
「苗字と利吉さんはどういうお知り合いなんですか?」
 と、にこにこ尋ねた。尾浜の人懐っこくまるい瞳は相手に警戒心を与えにくい。第一印象の良さとひとの懐に入り込む速さだけいえば、尾浜は五年生の中でも群を抜いていた。
 ──名前の邪気のなさとよく似ているな。
 そんなことを尾浜の顔を眺め内心考えながら、
「まあ、昔馴染みというやつかな。郷が同じなんだ」
 と、こちらもにこやかに返した。
「というと、氷ノ山の」
「そうそう。まあ、つい最近になるまで私は名前がくノ一教室に通っていることも知らなかったんだけどね」
「苗字って目立つタイプじゃないですからね」
「まあ、そうだな。それに私はくノたまの子たちとあまり交流がないしね」
「利吉さんは一年は組担当でしたっけ」
「そういうことを言うんじゃない」
 尾浜の軽口に、利吉が心底嫌そうに顔を顰めた。その顔を見て、尾浜が嬉しそうににやりと笑った。
 害のなさそうな見た目とは裏腹に、尾浜はなかなかいい性格をしている。魑魅魍魎の跳梁跋扈する上級生や学校関係者と対等に渡り合っていかねばならない学級委員長委員会の一員だけあって、その神経の太さは並のものではない。早くから独立した利吉の神経の太さも相当だが、とはいえ利吉は年の近い先輩たちにもまれるような経験については乏しい。尾浜の太々しさとは方向性が微妙に違っていた。
 そんな尾浜の図太さのようなものを察し、利吉はごほんと咳払いをした。四つも年下の忍たまに面白がられていてはプロとしての面目が立たない。その場を仕切りなおすように咳払いをすると、
「しかし、驚いたよ」と、努めて明るい声で言った。
「なんとなくだけど、私は名前のことを近所の小さな女の子というような印象の延長で見ているから──尾浜くんを『尾浜』と呼んで、忍たまと対等にふるまっている名前というのは、君たちにとっては当たり前のことかもしれないけど、私には目新しく見えた」
 利吉は名前に関してそう多くのことを知っているわけではない。出会ったのは大昔だが再会したのはごくごく最近で、くノたまとなった名前と顔を合わせた回数も、これでまだたったの三度目だ。名前については知っていることより知らないことの方がずっと多い。恐らくは名前とさして親しくないはずの目の前の尾浜と比べてすら、利吉が名前について知っていることは少ないだろう。利吉自身、その自覚がある。
 ただ、名前と再会したことによって、かつて幼い名前と関わった記憶が思い出されたことはたしかだった。ほとんど記憶していなかった、記憶していたことすら忘れていたような黴の生えた思い出ではあるものの、ひと度蘇れば空気のにおいまで思い出せるほど鮮明に、実感を伴った記憶として今の利吉の胸に留まっている。
 だからどうしても、利吉にとっての名前の印象は幼い日の名前がべースになってしまうのだ。いくら今の名前と交わした言葉の方が多いだろうと言っても、胸にある明瞭な記憶は如何とも拭い難い。そもそもそれらの思い出や記憶を拭い去り、まっさらな目で名前を見ようという努力すら、利吉はしていない。
 そんな利吉が名前に抱く印象と、尾浜の前でくノたまとして振る舞う名前の実像の間には、当然のことながら微妙な齟齬が発生する。当たり前のことであるはずのその齟齬が、しかし利吉にはどうにも不思議に思えてならなかった。頭ではそういうものと分かっていても、どうしたって食い違う。利吉の前で見せる、昔と変わらず邪気のない名前と、尾浜たちの前で見せているであろう溌剌とした名前の姿がうまく結びつかない。
「遠方に住む年嵩の親戚というのは、常々こういう気持ちを抱いているものなのかな。その、いつまでも子どもは子どものままでいるというような」
 そう言って利吉が苦笑する。てっきりまた茶化されるかと思ったが、しかし尾浜は意外にも、笑うこともなく「そうですね」と小さく呟いただけだった。掴みどころのない、つるつるとした声だった。
「利吉さんにとっての苗字が一体どういうやつなのか、それはおれには分からないですけど──おれたちにとっての苗字は、何の変哲もない普通のくノたまのひとりですよ。だから利吉さんのおっしゃる通り、さっきのあれがおれたちから見た『普通』です。可もなく不可もなくというか、対等というか。小さな女の子だなんてとんでもない。口ではあっちの方が一枚上手なくらいです。ま、苗字に限らずくノたまを口で言い負かせるのなんて、五年だと鉢屋三郎くらいのものですけど」
 その言葉に、利吉が「ああ」と相槌を打つ。
「鉢屋くんね。彼の噂はかねがね」
 当然、鉢屋の評判は利吉の耳にも届いている。大層な変装上手だともっぱらの評判だが、その性格もまた一癖も二癖もあるらしい。そんな鉢屋の名前がこの話題で出てくる時点で、尾浜の中の名前と利吉の中にある名前の像はやはり大きく食い違っているのだろう。
 ──名前も結局、相応に忍びらしいしたたかさを持っているということか。
 もしかしたら自分の心を和ませた穏やかそうな姿すら、利吉のふところに入り込むための手管のひとつだったのかもしれない──そんなことまで利吉が邪推し始めたところで、
「けど、そういう意味では苗字はちょっと変わり種かもしれないです」
 と、ぽつりと尾浜が呟いた。そのぽろりと零れた呟きを聞き逃さず、
「変わり種?」
 と、利吉が首をかしげる。そうこうしている間にも、いつの間にかふたりは委員会室の前まで歩いてきていた。
「ちょっとだけお待ちください」
 そう言って尾浜は利吉を待たせたまま、行儀悪く縁側から室内へと上がりこむ。ずけずけと室内に足を踏み入れると勢いよく障子を開け、何となく淀んでいた空気を手早く換気した。次に床の上に散らばった、昨晩目を通したきりそのままになっていた報告書の類を乱雑に積み重ね、仕分けることもせずに部屋の隅に押しやると、机を整えひとまずの体裁を整える。尾浜と同じくこの委員会室を我が城とする鉢屋が見たら怒りだしそうなほどの適当さだった。
「お待たせしました、どうぞ」
 座布団を三枚並べ、そのうちひとつに尾浜も腰を落ち着けた。利吉が座るのを待ってから、尾浜は再び話を再開した。
「さっきの話の続きですけど──くノたまのやつらって、どうしても長じるとおれたちには敵わないってんで、下級生のころから当たりのきついやつが多いんですよね。そういうふうに上から教わるし、まあ手近な男なんでおれたちを相手に何でも実践するのは当たり前なんでしょうけど。ですが苗字はこう、良くも悪くもお気楽そうといいますか……、そういう忍たまとくノたまとの間の軋轢とは関係ないところをふわふわしてるように見える──まるでくらげみたいなやつですよね」
「くらげ……」
 言い得て妙だが、しかし山育ちの利吉にはいまいちぴんと来ないたとえだった。利吉にとってはくらげなどと言われたところでぶよぶよと気持ち悪い得体のしれないものという印象しかない。名前とはとてもではないが似ても似つかない。
 しかし「ふわふわしている」という言葉についてだけは、何となく理解することができた。利吉と一緒にいるときの名前も、何処となくそういう雰囲気が漂っていることがある。地に足が付いていないという意味ではなく、地に足をつけた上でなお、何かに縛られない雰囲気があるのだ。
「くノ一としてはそれもどうかと思うけど……、やっぱり利吉さんの言うように邪気がないですよね。もちろん、演習のときなんかは真面目なやつだし、手を抜いたり甘い判断があったりするわけじゃないけど。そういう性質なのかなーって、おれなんかは見ていて思います」
 あくまでそれが主観であることを強調した上で、尾浜はそう言葉を締めくくった。利吉は思案するようにわずかに目を細めた。
 年上の利吉の目からだけではなく、同じ年の忍たまである尾浜の目から見てそういう評価になるのだ。やはり名前のおっとりとした性格はしたたかさゆえの産物というわけではなく、徹頭徹尾生来の気質、つまりは本物なのだろう。
 ほかのくノたまとは異なるということは、つまりくノたまとして本来許されるべきではない性質であるということでもある。大多数のくノたまが忍たまに対して厳しくあたるのは、それがくノたまとして望ましいとされる姿勢だからだ。そういう意味では、名前は間違いなく不良生徒なのだろう。
 くノたまとして落第しない程度ぎりぎりに、穏やかでのんびりとした気性。それが良いか悪いのか、その判断はどこに判断の軸を持っていくかで異なる。しかし利吉は今この場で、そこまで個人の性質に踏み込んだ言及をするつもりはなかった。そも、話し相手は尾浜である。たまごでしかない尾浜にそこまでの視座は求めていない。そういうことを考え始めるのは、もっと世のこと、女のことを知ってからでも遅くはない。
 適当に話をたたむつもりで、利吉は、
「五年生ともなると周りのことをよく見ているんだね」
 と、微妙に話題を逸らした。尾浜に対するその評価はけして嘘ではない。実際、さして親しくないであろう一介のくノたまのことをここまでよく分析しているのだ。周囲によく注意を払っている人間でなければ、そこまでの観察はできない。
 プロ忍びの利吉に褒められ、尾浜は満更でもなさそうに笑った。屈託なく喜ぶ表情は、十四歳という年相応に幼い。
「いやぁ、まあ合同演習のときとか、敵であれ味方であれ、相手のことを少しでもよく知っているというのは大事な事──なんて、今更利吉さんに偉そうに言うことじゃないだろうとは思いますが」
「いや、初心忘るべからずだからね。尾浜くんはきっといい忍びになるよ」
「利吉さんにそう言っていただけると励みになります」
 へらりと笑って、尾浜が頭を掻いた。外で鳥が鳴く声がする。
 ──それにしても、私は名前のことを思ったよりも知らないんだな。
 尾浜の笑顔に微笑ましい気分になりながらも、利吉の頭はすでにほか事を考え始めていた。
 これまで利吉は、名前とは故郷が同じで幼いころから知っている間柄というただそれだけで、何となく名前のことを知っているつもりになっていた。幼いころの名前と今の名前の両方を知っていることで、あたかもその間にある空白の時間の名前までもを知っているような、そんな気になっていたのだ。
 しかし実際には、利吉の知る名前はまだ年端もいかぬ幼子であったころの名前、そしてつい最近再会してからの名前だけだ。その間の数年はすっぽり抜け落ちており、またその数年に培われたであろう名前の内面についてもまた、利吉はほんの表面上のところでしか知らない。知り得るはずがない。
 ──表面上だけをなぞる付き合いでも、これまでは十分に足りていたのだが。
 内面を知らなくたって、仕事上の付き合いならば何の支障も来さない。相手の事を知ることと、相手の個人的な部分に踏み込むことは、似ているようでまったくの別ものである。
 だから、内面のことなど無理に知る必要はない──いつもならばそう切って捨てるところだ。誰かの内面をより深く掘り下げて知ろうなど、利吉はけして思わない。深入りするだけ情もうつるし、何より人と関わることで被るかもしれない面倒の数も増す。必要に迫られなければそういった個人の事情には見て見ぬふりするのが常の利吉であった。
 ──それなのに、名前のことをもっと知りたいと思うなんて。
 まして、自分より名前をよく知る人間がいることに、焦燥とも落胆ともつかない、覚束ない感情を抱くなど、まったくもって利吉らしからぬ非合理的な思考だった。
 自分らしくない、名前のことを知りたいと持っているなんて、自分の勘違いではないか──そうとすら思う。しかしそれを勘違いと切り捨ててしまっては、利吉が今目の前の尾浜に対して抱いているもやもやとした気持ちに理由が付かないのだ。
 尾浜はきっと、気が付いていないだろう。尾浜の前で取り澄ました顔をして笑っている利吉が、よっつも年下の尾浜に──名前のことをただのくノたまのひとりとしか思っていない尾浜に、名状しがたい劣等感のようなものを抱いていることなど。
 名前のことを知りたいと思った。知ろうと思った。知らねばならないような、そんな気がした。根拠などなく、理由に見当もつかない。しかし何となく、そう思ったのだった。漠然と。
 それはもしかしたら、自分が誰かに劣るという感覚──尾浜が知っていることを知らない自分というものへの、言いようのない我慢ならなさからくるものだったのかもしれない。あるいはまったく別の何かから発生した、未知の感情だったのかもしれない。しかしいずれにせよ、この時の利吉は自らの内にわいた思いの根源を、そう大して重要視はしなかった。
「おふたりとも、お待たせしましたー」
 呑気な声が束の間の沈黙を破る。顔を上げると、腕に茶器と菓子の載った盆を抱えた名前が、にこにこと嬉しそうに立っていた。茶菓子というにはいささかてんこ盛りな盆を見て、甘党の尾浜すら呆れた顔をする。
「お前、それくノたま長屋から持ってきたのか。誰にも見られなかっただろうな」
「任せて、その辺はばっちりだよ」
 尾浜に似せてにやりと柄にもなく悪い顔をした名前だったが、生来の人のよさそうな顔にはその表情はうまく馴染まなかった。妙にひょうきんな表情になってしまった名前を見て、利吉と尾浜が同時に噴き出した。


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