塔より飛来する春

 空までのきざはしを踏むようだ。
 そんなことを思いながら、山田利吉は歩き慣れた道をひたすら歩む。山道は険しく、けして整備された路ではない。それでもこの辺りで生まれ育った利吉の目には、どの道を行けば最短かつ最小の労力で目的地に達することができるのか、見えない地図の上に線を引いてあるかのごとく明らかだ。
 利吉にとって、此度の登山はおよそ半年ぶりの帰省、半年ぶりの実家であった。前回の帰省はたしか年末。その頃にはしんしんと降り積もった雪に覆われ、さながら真っ白のあの世のような状態であった彼が故郷氷ノ山も、いよいよ夏が始まろうという初夏の今頃では避暑に丁度いいような、実に過ごしやすい気候である。利吉が久方ぶりに帰省しようと思い立ったのも、仕事に一段落ついたからというのもあるが、一番の理由は気候がよくなってきたからだった。
 この時期は利吉の母も比較的機嫌がよいというのが昔からのお約束である。冬の間は外出もままならず自然と引きこもりがちになる氷ノ山での冬場の暮らしは、日照時間の短さも相まって暮らす人々の心を暗澹とさせる。それが春になって雪が融けだすにつれ、あたかも胸の中の氷も溶けるかのごとく次第に晴れやかな気分になり、夏を間近にする頃にはすっかりと上を向く。
 だから利吉も帰ってきたのだ。半年も音信不通になるという親不孝を引っさげた身での帰省であっても、今の時期の母の精神状況ならばそうぶつぶつと怒られることもないだろう──そんな下心と浅い算段で帰ってきたという次第である。
 ところがそんな利吉を待っていたのは、思いもよらぬ母の笑顔だった。
 笑顔──すなわち機嫌がよいにはよいのだが、そこに浮かんだ笑みは一筋縄ではいかない厄介さを孕んだ笑顔であった。ひと目見た瞬間に、利吉の頬が引きつる。
 面倒事を押し付けるとき特有の、その有無を言わさぬ笑みをたたえた母の表情は、ともすれば不機嫌に当たり散らしてくれた方がよほどましとすら思えるものだった。

 ◆

「くノ一教室の五年、ですか」
 母の言葉を鸚鵡(おうむ)のように繰り返す利吉に、母はやはり、にっこり微笑み頷く。
 久方ぶりの実家である。相変わらず小綺麗に片付いた家の中には、それでもまだ部屋の隅に薪が積まれ、傍らには綿入れが畳んである。いずれもまだ寒さの残る山での暮らしの様子を感じさせ、そこはかとなく利吉の罪悪感をちくちくと苛む。過酷な寒さが続く山中での生活において、女のひとり暮らしが如何に大変であるかなど、ここで生まれ育った利吉には今更考えるまでもない。
 そんな罪悪感から目を背けるように、利吉は母の話に耳を傾ける。話題はくノ一教室に通うという近所の娘について。挨拶もそこそこに母の淹れたお茶にありついた利吉は、早くも厄介事の片鱗を察していた。
「そう。麓(ふもと)の家の娘さんが、今年忍術学園のくノ一教室の五年生に上がられたそうなのよ。利吉、あなた昔はあそこのお宅のお子さんたちと遊んでいたでしょう。知らない仲ではないのだし、折角なのだから父上に会いにいくついでに顔くらい出してあげたらよいのではないかと思って」
「五年生というと、十四才ですか」
 ええ、と母は短く答えて微笑む。
 利吉にも母の言う家には覚えがあった。たしかに利吉と同年代の子どもが何人かいたはずだ。十四になる娘というのは、その家の末の娘だろう。利吉とはよっつも年が離れているから、どちらかといえば遊んでやったというより、娘の方が勝手に利吉たちの後ろをついて回っていただけだったような気がしないでもないが、ともあれ、顔見知りであることは事実である。
 すぐそばで寝そべった猫がごろごろと喉を鳴らした。その低く転がるような音を聞きながら、利吉はゆっくりと記憶の糸を手繰ってゆく。
 件の末娘に心当たりは在るものの、そうはいってもここ数年、利吉はその娘──どころかその兄弟や家族自体に至るまで、まったくといっていいほどの没交渉状態にあった。そもそも利吉は自宅にすらろくに寄り付かないのだ。ご近所づきあいじみたことなど、まさかしているはずもない。娘と最後に会ったのは果たして何年前だっただろうか。利吉がまだこの家にいた頃のはずだから、ざっと見積もって三年以上は前になる。いや、その娘はくノ一教室の五年生というのだから、三年どころではないだろう。恐らくその娘が忍術学園に入学するより前──つまり四年以上前に会ったのが最後か。
 利吉は記憶力の優れた男だが、しかしそんなにも前に会ったきりさして親しくしていたわけでもない、ただの近所の娘の顔を思い出すというのはなかなか難しい。存在くらいは思い出せるが、顔や名前となるとさっぱりだった。
「まあ、ちょっと顔を出して挨拶するくらいなら構いませんが」
 と、返事をしながらも利吉はその娘の顔さえ思い出せないでいるのだから、頼み事をするにしては何とも頼りないものだった。
 ──そもそも、母上は何故五年生にまで進級した今になって、その娘が忍術学園に通っていることが分かったのだろうか。
 ふと利吉は考えて、首を傾げた。
 母は「ご近所」などと簡単に言うが、山頂近いところに家を構える山田の家には、本来ご近所さんなどというものは存在しない。山の麓までをご近所に含むというのは、実際にはかなり乱暴な「ご近所」の括りだった。言わばひと山丸々「ご近所」としているようなものである。
 一家の大黒柱が単身赴任のために不在の現在、母がこの家を一人で切り盛りしていることは利吉もよく知っている。かつては優秀なくノ一だったといっても、女ひとりでこの山中での生活を回していくには何かと不便がつきものだ。だから母が麓の里の者と交流を持ち、「ご近所づきあい」と称して何かと伝手を作るのには反対していない。しかし忍術学園のことなど、本来秘匿すべき忍びの世界の話までもを共有しているとなれば、話は別だった。いくら母親といえど、それはけして看過できることではない。
 そんな利吉の懸念を察したのか、母はわざとらしく溜息をついて見せた。
「もちろん、母はあなたや父上の話などしておりませんよ。これでも元くノ一です。その程度の分別はつきます」
 母の機嫌を損ねたのを察し、すかさず利吉はへらりとして謝る。
「失礼いたしました。ですが、それではどうしていきなりそんな話を? その娘とやらはもう忍術学園に五年も通っているんでしょう」
「それは話の流れですよ。向こうさんだってわざわざ娘を忍術学園に通わせています、なんて大っぴらには言いません。うちの父上が忍術学園の先生だってことだって、よそ様には知られていないのですから。いきなりそんな話を始める方が不自然でしょう」
「それは、まあ、そうですが」
 母の言うことも一理ある。利吉も認めた。
 忍者であることは、本来他言無用のことである。それは忍術学園の生徒であっても同様だ。忍術学園の関係者だとばれれば、余計な面倒事に巻き込まれることだって十分にありうる。また、ゆくゆくは忍びになるものとして無暗に周囲に自分の正体を明かすべきではないということから、忍術学園に通う生徒たちは、基本的には外部に自分が学園の生徒であることを明かすことをしないよう、学園からよくよく言いつけられていた。
 当然、里の家族にもそのことは周知され、徹底した秘密順守を強いられる。
「この間はほんのはずみで、うっかり口を滑らせてしまったようですよ。長い冬が終わって、きっと気が抜けてしまったのでしょう。向こうは利吉が忍者であることも父上が忍術学園の先生であることも知らないようだったから、きっと娘さんはきちんと秘密を守っているんだわ」
 それを聞き、利吉は少しばかり感心する。年ごろの娘であれば、近所に住んでいた家族のうちふたりも忍者だったと分かれば、真っ先に親に話してしまいそうな気がする。教師の伝蔵はもとより、忍びの世界では利吉もそれなりに名が知れている。忍術学園への出入りもあるから、まさか在学生のくノたまが利吉の存在に五年間一度も気付かなかった、などということは有り得ないはずである。
 そういう意味ではその娘はしっかりとした忍びの感覚を持っているのだろう。くノ一教室の山本シナ先生の指導がいいのかもしれない。
「そういうわけですから利吉、あなた次に忍術学園に顔を出したときにはその娘さんに挨拶しておいてちょうだい」
 念を押すようにそう言われ、今度は素直に首肯した。
「それは構いませんが、その娘の名前は何というんです」
 訪ねてゆくにも、名前も分からないのであれば訪ねようがない。そう思い母に問うと、途端に母は怪訝そうな顔で利吉を見た。
「あらまあ、一緒に遊んでいた娘さんの名前まで忘れてしまったなんて。利吉、あなた大丈夫? そんなことでフリーの忍者がつとまるの?」
「お気遣いありがとうございます。ですが大丈夫です」
「それならいいのだけれど……。名前は名前さん。苗字名前さんですよ」
 苗字名前。心の中で、反芻する。
 聞き覚えがあるような、ないような。心の奥底に引っかかるものがあるような、何もないような──やはり曖昧で覚束ない自分自身に何となくがっかりしつつ、利吉はその名をしっかりと記憶した。
 この秘境と呼ぶべき田舎から、忍術学園のような先進的な教育機関に入学した娘がいる。そのうえ、年々生徒の数が減ってゆく学園にあってくノ一を目指し五年生まで進級しているというのは、それだけでもそれなりの優秀さを持つことの証左である。
 利吉と同じ山奥に生まれながら、利吉とは違い忍びとしての英才教育も受けていない、ただの娘がくノ一教室に通っている。
 ──くノ一教室の五年、苗字名前、か。
 その娘に、利吉は少しだけ興味を抱き始めていた。


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