再生を迎える準備を(1)

 とある夕刻、利吉は忍術学園から峠をいくつか越えた先の麓(ふもと)へとやってきていた。
 先日までの身体の不調もすっかり癒え、むしろ過労で倒れる前よりも身体が軽いほどである。新野先生からも晴れて自由行動のお許しを得たので、忍術学園が夏休みに入ったこのタイミングで利吉も学園を辞することにした。
 利吉が向かう先は、名前がアルバイトをしている件の団子屋である。名前のアルバイトがそろそろ終わる頃合いを見計らってやってきたのは、忍術学園までともに帰るためであった。早い話がアルバイト終わりを迎えに来たのだ。
 忍術学園を辞するにしても、病床の利吉に何くれとなく世話を焼いていた名前に無言で立ち去るのは忍びない。加えて名前への恋心を自覚したばかりの利吉としては、常に一緒に射られる身の上ではない以上、今のうちに少しでも距離を詰めておきたいと思うのが自然な心情だった。忍術学園までの道中、そういったもろもろを踏まえてこれまでの礼のひとつでも言えればというのが利吉の算段だった。
 ──とはいえ、名前への気持ちに関していえば、まったく脈無しというわけでもなさそうに思うのだけれど。
 ぷらぷらと団子屋を目指しながら、利吉はそんなことを考える。
 すでに名前に意中の男はおらず、またその候補になりそうな目ぼしい男がいないことも利吉は知っている。忍術学園に身を寄せている数日の間、利吉は名前の様子をできるかぎり観察していたが、現状名前ともっとも親しくしている男と言えば、ほかでもない利吉自身であった。
 加えて、名前の初恋が利吉であるという話も聞いたばかりである。となれば、利吉にとっての名前はもはやただ懸想する相手というだけでなく、ほとんど手のうちにおさめているも同然であった。
 そもそも色事においては百戦錬磨といってもいいような実績をおさめている利吉である。たかだが十四の小娘を相手にしている今回の色恋においては、駆け引きや権謀術数を巡らせる必要すらない。利吉が少し優しくしてにっこり微笑めば、それで落ちない相手の方が少ないくらいだ。
 ──と言っても、今までは、そういう女の子ばかり相手にしてきたからなあ。
 と、利吉は深々と溜息をつく。そういう女の子というのはつまり、策を弄さずとも少し微笑みかければころりと落ちてくるような、そんな女の子のことである。当然、名前はそこまで簡単に落ちてはくれないだろうと利吉は踏んでいた。
 名前を相手どるということにおいては、これまで利吉が相手にしてきた女たちとは多少勝手が違うのは言うまでもない。名前の性格のことももちろんそうだが、利吉自身、そんなふうに軽はずみな態度で名前を扱うつもりもない。何せこれまでと違い、名前は替えがきかないのだ。みすみす傷つけてしまったり疎遠になられてしまっては困る。
 ──まあ、名前が卒業するまであと一年半以上もあるんだ。その間は名前は忍術学園にいて今のような生活を送るのだろうし、そう急ぐ必要もないのかもしれないけれど。
 たしかに利吉は終始名前のそばについているわけではない。しかし少なくとも名前が忍術学園で真面目に学業に励んでいるうちは、ポッと出の男にうつつを抜かすこともないだろう。今回のことで、名前と利吉がそこそこに親しくしていることはすでに忍術学園内では知られている。忍たまたちへの十分な牽制もできているはずだから、後は時折仕事の合間に様子を見に来ては、名前との距離を詰めていけばいい──そんなふうに利吉は結論を出した。急いては事を仕損じるだけだ。ともかく慎重に慎重を重ね、絶対にしくじらないように──さながら忍務に臨むときのような心構えをして、利吉は名前のもとへと足を向けた。

 団子屋に到着するなり、利吉は構うことなく店の中に入ってゆく。閉店時間が近いからか店の中には客はおらず、表の床几に旅人風の男がひとり掛けているだけだった。
 利吉がきょろきょろと店の中を覗くと、ちょうど店内の片付けをしていた店の旦那と目が合った。
「ああ、あんたはこの間の」
 この間というのが利吉がふらふらとこの店に立ち寄り、名前に介抱された日を指していることは確認するまでもない。閉店間際に貴重なアルバイトを戦力外にしたとあっては迷惑がられていてもおかしくないと思い至り、利吉はできるかぎり面目なさげな顔をつくって浅く頭を下げた。
「先日はご迷惑をおかけしました」
 先日といっても、もうそれなりに前のことになる。その間挨拶や詫びのひとつもなかったのだ。てっきり文句の一つでも言われるかと覚悟していたが、しかし意外にも、店の旦那はにこにこと笑って手を振った。
「いいんだよ。あんたがおみつちゃんの知り合いというなら、私にとっても知らない相手ってわけじゃないだろう」
 一瞬おみつという名に疑問を持つが、すぐにそれがこの店での名前の名だと思い出す。くノ一のたまごとして、忍術学園の生徒がアルバイト先で偽名を名乗るのは珍しいことではなかった。
「御親切かたじけありません」
「特にあんたに何をしてやったわけでもないしね」
 名前も大概人がいいが、この店の旦那も大概のものだった。どうやら人がいい人間の周りには、やはり同じような人間が自然と集まるものらしい。普段の利吉であれば危機感のないことだと呆れるような人柄だが、今の利吉は名前に懸想しているためか、その愚直ともいえる人の良さにひねくれた気持ちを抱くことはなかった。
「ところで、そのおみつは」
 先ほどから姿が見当たらないと思い尋ねれば、
「おみつちゃんなら今、お得意さんのところに顔を出してるよ」
 旦那はあっさりと教えてくれた。てっきりこの店でアルバイトに精を出しているものだと思っていた利吉だったが、どうやら当てが外れたらしい。ここの団子は人気だと聞くから、店の外にも商品をおろしているのだろう。
 落胆した表情を浮かべる利吉に、旦那がさらに続ける。
「おみつちゃんには今日はそのまま上がっていいと言ってあるから、良ければあんたが迎えに行ってやったらどうだい? 店を出てそこの角を曲がってしばらく行ったところにある、武家屋敷にいると思うから」
「そうなんですか。それでは、そうさせてもらいます」
 元より利吉は名前を迎えにきたつもりでここにいる。旦那に教えられた情報に、一も二もなく頷いた。旦那の言う武家屋敷には利吉も覚えがある。ここに来るまでに通りかかったので場所は分かるし、そうでなくとも利吉は以前に一度、このあたりで仕事をしている。周辺の地図は何となくだが頭に入っていた。
 名前の居場所が分かれば最早ここに用はない。一礼して店を出て行こうとする利吉の背に、旦那が追いかけるように「おおい」と声を掛けた。
「なあ、あんたもしかしておみつちゃんの恋人かい?」
 その質問に答えることもなく、利吉は振り返りざまににっこり笑う。それからもう一礼して、ようやく店を後にした。

 旦那から教えられた武家屋敷に向かって、利吉は足早に向かった。今日はそのまま上がってもいいと言われているというから、うっかりすると名前と入れ違いになってしまう可能性もなくはない。店から目的地まではそう離れているわけでもないが、利吉の心は妙に焦っていた。
 ほどなくして目的の屋敷についた。日ごろの癖で、物陰に身を隠しながら中の様子を窺うと、ちょうど利吉が身を潜める木の陰の正面に位置する、勝手口に通ずる裏口から名前の声が聞こえた。どうやら運んできた荷を渡し終えたところのようだ。入れ違いになる一歩手前だったらしいことを察して、利吉はほっと安堵の息を吐く。
 木陰から顔を出し、じきに出てくるであろう名前を待つ。名前の声が近づいてきたので、利吉も今通りかかったようなさりげない様子で木陰を出ていくことを決めた。
「名前──」
 と、踏み出しかけた利吉の足が、一歩先の地面を踏むより前に宙で止まった。
 裏口から出てきたのは名前ともう一人、利吉と同じくらいの年のころの青年だった。日ごろから肉体労働に従事しているのか、がっしりとした身体に岩のような頭がごろりと乗っかっている。その男が無骨な顔をへらりとだらしなくゆるめ、名前のために裏口の戸を開けていた。
「おみつさん、いつも手伝っていただいてすみません」
 男に笑いかけられた名前が、こちらも笑顔をかけ返す。
「いえ、これでもちょっと腕力には自信があるんですよ」
 そう言って小袖の腕をまくると、名前は白い二の腕に力こぶを作って見せる。岩のような顔をした男がまた鼻の下を伸ばした。
「これはこれは、何とも頼もしい限りです。それにしても、よく働くおなごにアルバイトに来てもらえて、団子屋の旦那もさぞお喜びのことでしょう。おみつさんは客の心を掴みますから。もしやおみつさんのご実家も商いを?」
 あからさまなおべんちゃらにも嫌な顔ひとつせず、名前は笑顔を浮かべたままで答える。
「いえ、私が育ったのは普通の農家です。おかげでこの通り、肌も焼けてしまって」
「日焼けが何だというんです。おなごはおみつさんのように溌剌としていた方が良いものだ」
「ふふ、いつもながらお上手ですね」
 そんなふたりの遣り取りを、利吉はすぐそばの木陰からじっと見つめていた。
 忍術学園で忍たまと言葉を交わすざっくばらんな様子とも、あるいは利吉に向ける親しみを込めた態度とも違う名前の様子は、利吉の心に無粋な影を落とす。得意先の人間とはいえ、自分以外の男に意中の娘がにこやかな笑顔を向けているさまは、見ていてけして面白いものではなかった。それなのに目を逸らすこともできず、利吉はただ無言でふたりの姿を睨む。
 その間にも名前と男は会話を続けていた。
「おみつさんのご実家はこのあたりですか」
「いえ、もう少し田舎です。山の方」
「そうですか。それではどうしてこちらに?」
「今は親戚の家にお世話になっておりまして」
「というと、何か事情がおありですか」
 詮索するような視線を交わし、名前はにっこりと笑む。その笑顔に、相対している男が顔を赤らめるのが利吉の目にも分かった。忍びの目はとかく細かなあれこれによく気が付いてしまうのだ。たとえ気が付きたくないことであっても、情報として脳が自然とそれを受け取ってしまう。
 ──あの男、どう見ても名前に気があるじゃないか。
 名前がそれを適当にいなしていることだけが幸いだが、しかし一刻も早く名前とあの男との会話を終わらせたい利吉である。名前と団子屋の迷惑になるのでなければ、今すぐにでも出ていって牽制しているところだ。
「しかしそうなるとおみつさんは、もうご実家に戻られる予定はないのですか」
「まあ、そうですね。とはいっても、そろそろ一度実家にも顔を出そうとは思っているのですけれど。もうずいぶん帰省もしておりませんので」
「そうなのですか」
「ですから来週かそのあたりに少しお暇をいただこうかと思って、団子屋の旦那さんにもお話をしたところです」
「おや、それでは来週は団子屋に行ってもおみつさんのお顔を拝見することはないんですね」
「お店は旦那さんがいつもどおり開けていますよ」
「はは、しかし店におみつさんがいるのといないのでは、団子の味が違うような気がするなあ」
 と、その時。
 何かに気が付いたらしい男が、やにわにその図太い腕を名前の方へとぬっと伸ばした。
「おや、おみつさん。髪にゴミが」
「あ──」
 そう言った男の手が名前の髪に触れる、刹那。
 男の手を、名前のものではない手が払った。
「──おみつ」
「あら、」
 音もなく名前と男の間に割って入った利吉の姿に、名前はぱちくりと瞬きをする。男もまたぽかんとした顔で、突如現れた謎の男である利吉のことを見つめていた。
 利吉は名前を自らの背に庇うように隠すと、剣呑な視線を男に向ける。その迫力に、ごくりと男の喉が鳴った。
 束の間、沈黙が流れる。
 その沈黙を破ったのは名前だった。
「あの、どうしてここに」
「旦那さんから君がここにいると聞いて、迎えに来たんだ。あんまり帰りが遅くなると危ないから」
 名前の問いに答えながらも、利吉はなおも男から視線を逸らそうとはしない。長身の利吉が、生半ならぬ視線を男に向けている。威嚇するようなそのまなざしに、男はずんぐりとした図体をぶるりと震わせた。
 委縮した男の様子に満足したのか、利吉はようやく男から視線を外し、名前の方に顔を向けた。
「ところでおみつ、こちらは?」
 あくまでさりげなく、利吉は男の素性と名前の関係を問いただす。名前はちらりと男に視線を向けると、のんびりとした仕草で口を開いた。
「ご紹介が遅くなりました。こちらの方は──」
 と、その時である。
「松吉ー!」
 名前の声にかぶせるように、甲高い女の声が屋敷の中から大きく響いた。その声に、すっかり萎縮していた男がはっとした顔で背筋を正す。そうかと思えば、
「いけない。じゃあおみつさん、俺はこれで!」
 と、ほとんど逃げるようにして屋敷の中へと戻っていってしまった。ばたんと音を立てて勢いよく閉じられた裏口がまるで、その場に取り残された名前と利吉が締め出しをくらっているような雰囲気を醸し出す。
 暫し、ふたりはぽかんとその場に立ち尽くしていた。やがて、どちらともなく、
「……帰ろうかな」
 と呟くと、いつの間にか日の暮れかけた道を並んでとぼとぼと歩き始めた。


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