証明されない感情(2)

 は組のよい子たちが嵐のように押し寄せ、利吉を見舞うという名目で忍務のことを根掘り葉掘りと聞きまくり、そしてたまたま通りかかった土井半助によって退室していったのと入れ替わるようにして──利吉の借りている客室を訪れる、ひとりのくノたまの姿があった。
 部屋の外はまだ明るい。とはいえ、すでに実際の時刻はすでに夕刻に近くなっていた。利吉が目を覚ましたのは利吉本人が自覚しているよりもずっと遅く、とうに昼を過ぎてからだった。
 部屋の外の気配に気づき、利吉はは組の生徒が押し寄せた疲労を癒すべく暫し横たえていた身体をやにわに起こす。身体を起こしたのと同時に、声がした。
「利吉さん、起きていらっしゃいますか」
 ひと声掛けたあとに静かに障子を開けて入った名前は、利吉の顔色が昨日よりも確実に良くなっているのを見て、ほっと安心したように息をついた。緊張のためか、上がっていた肩がいつもの位置に下がるのが分かる。
「失礼いたします。利吉さん、お加減いかがですか」
 膝をつき、静かに障子を閉める。それから利吉の方に顔を向けた名前に、利吉もそっと笑みを返した。
「やあ。寝たらだいぶ良くなったよ。心配かけてすまなかったね」
「いえいえ。土井先生から、は組の子たちが利吉さんのお見舞いに伺ったと聞きましたが……、大丈夫でしたか? あの子たちは利吉さんのことが大好きなようですから」
「ああ、まあね……」
 実際には精神的疲労が尋常ではないのだが、わざわざそのことを名前に話して無用な心配をかけても仕方がない。何でもないように振る舞って、利吉は苦笑した。
 つい先刻まで利吉の思考の多くを占めていた名前だが、いざこうして対面してみても、利吉の心にはこれといって変化はない。名前に対して思うところも、特にあるわけではない。
 そもそも利吉が名前に対して抱き、また名前に期待しているものが何たるかといえば、それは「普通」であり「不変」であり、そして「日常」である。利吉が仕事に没頭する中で知らず識らずのうちに手放しそうになってしまうものと、利吉をつなぐのが名前だ。だから名前を前にして気分が高揚することもなければ、変に名前を意識してしまうこともない。それこそが、利吉が名前に求めるものであった。
 ──この落ち着く感じは、名前の人柄だからこそなせる業なんだろう。
 名前が淹れなおした白湯を呑みながら、利吉は考えるともなく思う。
 忍術学園の中に流れる穏やかな空気には「日常」が大いに含まれている。先ほど利吉を見舞うという名目で襲来した一年は組の子どもたちもまた、利吉にとっては「日常」を感じる存在だ。忍者の学校といえども忍たまやくノたまはこの場所で生活をしているのだから、ここが「日常」であるのは至極当然のことである。拠点とする借家を借りてはいても定住する場所を持たない利吉からすれば、普段の生活の中で不足する「日常」が補充されるような心地になるのも、けして不思議なことではなかった。
 その「日常」を煮詰めて取り出した粋のような存在が、利吉にとっての名前である。食べること、暮らすこと──そうして「日常」を生きることをごく自然に利吉に思い出させるのが、名前という人間だった。こうして名前そのすぐそばにいると、利吉は自分が忍びとして働いていることなど、うっかり忘れてしまいそうになる。それほどまでに、名前の周囲には「日常」のにおいが強く立ち込めている。ともすれば派手好きの気がある利吉には、厭う女の類でもあるはずだが、名前はどうやらその枠にはおさまらないようだった。
 と、そんなことを考えながらぼうっとしていた利吉の鼻に、ふいに甘い湯気のにおいが香った。においの方に視線を遣れば、名前のすぐ横には小さな盆が置かれていることに気付く。
 名前もまた、利吉の視線に気が付いて、「ああ、そういえば」と手を叩いた。
「さっき医務室に立ち寄ったときに新野先生から、利吉さんが起きてからまだ何も召し上がってないと伺ったので、僭越ながらお粥など運んできたんですけど……、どうでしょう? 食べられそうですか?」
 そう言われてみれば、たしかに目が覚めてからというものまだ白湯以外何も口にしていなかった。最後に食事をとったのはいつだったかと記憶を遡り、それが昨日、仕事を終えてすぐのことだったと気付く。考えてみれば、もう丸一日以上食事を摂っていないのだった。
 過労に加えて、ここのところ急激に気温が上がったから、それで胃の腑の調子が悪かったのかもしれない。丸一日以上絶食状態だったにもかかわらず、今の今まで利吉は空腹らしい感覚をまったく感じていなかった。しかしこうして煮炊きした米のにおいを嗅いだことで、今まで黙っていた腹の虫が思い出したかのように騒ぎ始める。名前からの申し出は、素直にありがたかった。
「ありがとう。丁度お腹が空いてきたところだったんだ。いただくよ」
「よかった。でもまだ本調子ではないでしょうから、無理して全部は食べなくても大丈夫ですからね」
 そう言うと名前は粥の載った盆を利吉に寄越した。
 布団をかぶった膝の上に盆を載せると、ふわりと粥のにおいが香る。つやつやと光る米とたまご、それに刻んだ山菜が混ぜ込まれた粥は、ためしに一口食べてみるとそこはかとなく懐かしい味がした。
「……美味しい」
 ぽつりとこぼす。素朴な味わいだが、今の利吉にはこのくらいが丁度いい。
「ふふ、それはよかったです。実はこれ、わたしが作ったんですよ」
「名前が?」
 頷いて、名前がふくふくと嬉しそうに笑った。利吉は改めて、盆の上の粥を見る。
 粥など誰が作ってもそうそう味が変わるものでもないのだろうが、しかし名前が作ったものだと聞くと、何となくこの懐かしい味にも得心が行くような気がしてくる。郷を同じくして、おそらくは同じようなものを食べて育った利吉と名前である。郷の味が同じであるということは、同じような味覚、舌を持っていてもおかしくはない。
「今日のくノたま五年の夕食当番がわたしだったので、そのついでにですけれども。新野先生にお聞きしたら消化の良いものなら大丈夫と仰っていたので……。お口に合うといいんですが」
 傍らで、嬉しそうな名前が言った。
 利吉が実家を出てから、もう数年になる。当然ながら身の回りのことは一通り自分でできるし、炊事だってそこそこにならばこなしてきた。それでも、ここのところの忙しさに感けて食生活をおざなりにしていた利吉には、ただの粥がじんわりと沁みる。
「美味しいよ。それになんだか懐かしい味がする」
「ああ、もしかしたら山のものが入っているからかもしれませんね。今日ちょうど授業で山に入ったので、そのときにみんなで採ってきたんです」
「なるほど、それでこの味か」
 懐かしく思われたのは山のものから出た出汁だろう。山深い場所で生まれ育った利吉の舌には、新鮮な山の幸がよく馴染む。
 暫し粥に舌鼓を打っていると、手持無沙汰なのか名前が「そういえば」とまた口を開いた。
「そういえば食堂のおばちゃんが、明日利吉さんが元気そうだったらお出しするって言って、さっき大きなアコウを見せてくださいましたよ。何でも今年はアコウがよく獲れるそうで、水軍のお手伝いに行っていた六年生の先輩がたがお土産にっていただいてきたんだとか」
 アコウとは関東で言うところのキジハタのことである。夏が旬の高級魚で、そう大きな魚ではないものの、時折規格外に大きなものが獲れることもある。今回は例年になく豊作で、その規格外の個体が忍術学園にもお裾分けとして回ってきたのだった。
「アコウがあるときにいらっしゃるだなんて、利吉さんったらなかなか間がいいですね」
 にやりと笑う名前に利吉は、
「ありがたいけど、私がもらってもいいものなの?」
 と、苦笑して尋ねる。たしかにアコウが食べられるというのは魅力的な話だが、さりとて忍術学園がもらったものを、本来部外者である利吉が優先的にもらうというのは、生徒たちに対して何となく悪いような気がした。しかし名前は特に気にしたふうもなく答える。
「大丈夫だと思いますよ。たくさんあるそうですし」
 そしてさもうっとりしたように「水軍から直接もらい受けてきた六年生の先輩方はきっと、今晩は豪華な夕飯なんでしょうねぇ」と付け足した。思わず利吉が笑う。
「……まったく、名前はいつも食べ物の話をしているな」
「そ、そんなことないですよぉ。私だってこう、時には優美で可憐な話もします」
「へえ、たとえば?」
「お、お花の話、とか……?」
「名前から花の話を聞いたことなんて一度もないよ」
「そんなことないですって。利吉さんがお忘れになっているだけです」
「本当かな?」
「そ、そうです……きっと……多分……」
 尻すぼみに小さくなっていく声に、利吉がまた小さく噴き出した。
 心なしか顔を赤らめている名前は、それでもまだ何とか花の話をしようとああでもないこうでもないともごもご何か話している。年ごろの娘として、利吉のような美丈夫に食い意地が張っていると思われるのは我慢ならないらしい。その様子を見ながら、利吉は心の中が静かに凪いでゆくのを感じる。
 ──やっぱり「日常」なんだよな。
 緊張感など欠片もなく、気負いなど微塵も感じられない。食べることが好きで、ここでの暮らしを心底楽しんでいる──名前が見せる笑顔からは、忍びの世特有の気詰まりな雰囲気さなど欠片も感じられない。
 名前から感じるのは、一夜をともにする女たちにはついぞ感じたことのない触れ慣れぬ感覚だ。触れ慣れず、感じ慣れない。随分昔にはすぐそばにあった感情のような気もするが、ここのところではすっかり縁遠くなってしまったもの。正しい呼び名すら忘れてしまった、過去に置いてきた感情。
 それでも利吉の知る感覚の中で最も近いものを探すとするのなら、それは安心感だった。安心を求め、利吉は昨日名前のもとを目指したのだ。心もとなく覚束ない精神で、ほとんど本能的に安心を求めた。
 しかしプライドも自立心も人一倍の利吉が何の衒いも躊躇いも感じずに縋れる相手がいたとして、それがまだ齢十四の娘だなどと一体だれが思うだろうか。名前自身、自分自身が大層な人間だなどと考えたことはない。利吉以外の人間からしてみれば、名前などは取るに足らないただのくノたまでしかない。
 名前にとっての利吉は、自分など遠く及ばない雲の上の存在である。忍びとしても、男としても名前のような幼さの残る女が不躾に手を伸ばすことすらおこがましく思えるような、そんな存在が利吉という人間である。
 くノ一のたまごでしかない自分と、プロとして一線で活躍する利吉の間には大きな隔たりがある。世慣れてスマートな利吉と、まだ碌に男を知らない名前の間には越えようがない壁がある──どうしたって名前にはように思えてしまう。それでもかつての思い出があるというたったそれだけを理由にして、名前は今も昔のように利吉に懐いている。同郷であることを自覚的に賢しらに振りかざす名前はむしろ、自分の方こそが利吉に「親しくすることを許される」側だと認識していた。
 だから粥を食べていた利吉がおもむろに、
「名前、こっちに」
 と、名前を呼んだときも、不思議に思いながらも素直にその声に従った。膝を床についたまま、滑るようにして名前は利吉のそばまで移動する。
「なんです?」
 利吉の顔を見てそう尋ねたその時、利吉のひやりとした指先が、音もなくそっと名前の頬にふれた。手の甲を頬にあてがうようにして、利吉は名前の頬を撫でる。名前の頬に、ほんのりと紅がさした。
「あ、あの、利吉さん……?」
「ありがとう、名前」
 何をと問うより先に、制するように微笑まれる。名前は続ける言葉を見失い、ただ恥ずかしそうに俯いた。
「い、いえ……そんな、別に大したことはしてないので……。ほら、拾った生き物の世話は最後までするようにって、五年ろ組の竹谷もいつも言っていますし……」
「ちょっと待って、その理屈でいくと私は君に拾われたのか」
「大体そんなものだと思いますよ」
 「拾った生き物」などと小動物のように称されては利吉の自尊心も大いに傷つくところだが、不思議と悪い気はしなかった。冗談だということも分かっている。腹立たしく思うどころか、むしろそんなふうにぞんざいな扱いをする名前の色気のなさに、微笑ましさまで感じるほどだった。呆れたように利吉がくすくす笑うと、その笑い声につられて俯いていた名前も小さく肩を震わせる。
 つと、名前が顔を上げる。利吉と名前の目と目が合って、何となしに微笑みあった。甘い空気などはない。そこにあるのは、兄と妹のような親しみだけだ。
「心配されなくても大丈夫ですよ、わたしはこれでも責任感だけは強い方ですから。拾った利吉さんのことはちゃんと最後までお世話して見せますとも」
 相変わらず笑顔のまま言う名前に、利吉も「それは心強いな」と笑って返す。名前は目許を緩ませ頷いた。
「はい、安心してお任せいただいて大丈夫です。ですから今はひとまず、しっかり休んでくださいね。さて、これ以上長居しておしゃべりに付き合わせてしまうと新野先生に叱られてしまいますから、わたしはそろそろ下がらせていただきます」
「うん。助かったよ」
 腹が満たされたことはもちろん、名前と話したことで気分転換にもなった。しかしそろそろ夜も更けてくる頃だ。利吉の体調云々は良しとしても、あまり遅くまで年ごろの娘を側に置いておくのは憚られた。
「お粥、美味しかった。名前はいい奥さんになるな」
 本心からの言葉である。名前の頬が、またうっすらと染まった。照れを噛みしめて名前が莞爾と笑う。
「嬉しいことを言ってくださるんだから。それ食べ終えたらお部屋の外に空いたお椀を出しておいてくださいね。またあとでお椀を回収に参ります」
「重ね重ね、迷惑をかけてしまってすまない」
「いいえ、好きでやっていることですから」
 裏表のない名前の言葉はするりと利吉の心に入り込む。入り込んだ先から、じわじわと利吉の中身をあたたかさで満たしてゆく。いつのまにかすっかり暗くなった縁側へと出ていった名前を見送り、利吉は満ちたりた気分でほっと息をついた。


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