証明されない感情(1)

 それから先、どのようにして忍術学園まで到着したのか、利吉はほとんど覚えていなかった。ただ、名前とともに忍術学園に向かい、朦朧とした意識のまま小松田に差し出された入門票に記入したことだけは覚えている。しかしそこからどこの部屋に通され、どうやって布団に入ったのか──そういった諸々のことは、さっぱり記憶に残っていなかった。
 利吉が目を覚ますとそこは見慣れぬ天上で、ややあってから、そこが忍術学園の一室なのだということを理解した。身体を布団に横たえたまま、ゆっくり数度まばたきをする。指先に力を込めれば、手の先から足の先に至るまで、滞りなく動かすことができた。
 ──倦怠感は残っているが、不調というほどではなさそうだな。
 ひとまず自分の状態をそのように把握した。
 自分の状態が把握できれば、次は現状の把握である。果たして今は何刻だろうか。その答えか、あるいは手掛かりを求めて眼球をきょろりと動かした。
 体の疲れが随分とれているし、障子紙は外の日の光で白んで明るい。とうに夜が明けていることは間違いなかった。こんなふうに何刻か分からなくなるほどぐっすりと寝こけるのも久し振りで、何となく胸がすっと冷える。これが何処ぞの宿での一人寝だったらと思うと空恐ろしく感じられてならない。
 そうして周囲と己の状況と状態を把握しながら、利吉は少しずつ頭を覚醒させていった。するとふいに利吉の頭上から、「お目覚めですか」と労わるような声が響く。その声に、利吉は痛む身体を起こす。まったく気付いていなかったが、利吉の枕元すぐそばに、校医の新野先生が穏やかな笑みを浮かべて坐していた。
「これは新野先生、気付かず失礼を」
 慌てて居ずまいを正そうとする利吉を、新野先生がすかさず目線で制する。
「いえ、お気になさらずどうぞ横になっていてください。一通り見たところ傷は深くないようですが、無理は禁物です」
 穏やかながらも有無を言わさぬ物言いに、利吉は素直に再び身体を横たえた。多少の無理は通す性格の利吉でも、忍術学園における医療分野の頂に立つ新野先生を相手にまで無理を押し通そうとは思わない。まして、新野先生には手当てしてもらった恩まである。ここは大人しく従うしかなかった。
 そんな利吉に、新野先生は満足そうに微笑む。相変わらず利吉の枕元に坐したまま、急須から湯飲みに白湯を淹れた。
「見たところ、ちょっとした過労でしょう。随分ご無理をされたのではありませんか? 山田先生からもここのところは根を詰めていたようだと伺っていますよ」
 思い当たる節がありすぎて、利吉はただ頭を垂れて、
「……面目ありません」
 と、言うよりない。最終的な止めは刺客を返り討ちにしたあの瞬間なのだろうが、そこに至るまでに仕事の詰め込みすぎという疲労の蓄積があったことは否定できなかった。そうでなければ、今更刺客を返り討ちにしたところであそこまで気に病むこともなかっただろう。人を殺めるのはあれがはじめてではない。
「フリーでのお仕事は不安定ですから、利吉くんのお気持ちも少しは分かりますけどね。しかしフリーだからこそ身体は大切な商売道具でしょう」
「仰る通りです。お恥ずかしい限りで」
「まあ、まだお若い。徐々にご自分の許容量を見定めていってください」
 まるで生徒のような言葉を掛けられ、利吉は神妙に頭を下げた。新野先生の言葉は一から十まで正論で、利吉には返す言葉もない。
 利吉のその神妙な面持ちに、新野先生はそれ以上利吉を責めることはなかった。かわりに白湯を差し出すと、一転して申し訳なさそうに言う。
「本当は医務室にお連れしたいところですが、利吉くんは山田先生のご子息といえど一応は忍術学園から一歩引いた場所におられますから。ここで我慢してください」
 面目ないと言わんばかりの言葉に、利吉は浅く頷く。
「承知していますので大丈夫です」
 利吉とて、深刻な傷病でもないのに医務室に置いてもらえるなどとは思っていなかった。そんなことを期待していたわけでもない。
 忍術学園の医務室といえば、薬草はもちろん毒草や解毒剤、戦で重宝する胡椒まであらゆる薬が置いてある。直接的な攻撃に用いる武器の類はなくとも、使いようによっては十分に戦力になりうるような物資がそろう、まさに準忍具倉庫のような場所だった。一時的な入室や監督つきでの見学ならばともかく、プロ忍びである利吉を長期的に滞在させておくわけにいかないのは当然のことであった。医務室の監督者としても妥当な判断だろう。利吉もそのくらいの事情は心得ている。
 ──むしろそのくらいの距離感の方が、こちらも何かと動きやすい。
 ゆえに特に異を唱えることもなく、
「むしろ部外者の私にここまでしていただけるだけでも、何とお礼をしていいものやら」
 と、再び浅く頭を動かした。新野先生はまた、仏のような笑顔を利吉に向ける。
「今はお礼だとかそんなことは気にせず、ゆっくり静養してください。利吉くんがここにいることはすでに忍たまたちにも知られています、授業が終わるころになれば一年は組の生徒たちが押し寄せてくるでしょうから、それまでの間だけでも」
 ということは、今は未だ授業中ということなのだろう。それにしても随分と寝すぎた感はある。腹が減らないので正確な時間は分からないが、すでに午後であろうことはたしかだった。
 ──仕事が詰まっていなくてよかったな。
 こんなときでも仕事のことを考えてしまう自分に病的なものを覚えつつ、利吉はそっと安堵した。次の大きな仕事はひと月後だ。それまでは短期の小さな仕事をいくらか請け負い食つなぐつもりでいた。しかしこうして体調を崩したのも神仏の思し召しなのだと思うしかない。急がば回れの言葉どおり、まずは新野先生の言うとおり静養が第一だろう。幸い、金銭的にそこまで逼迫した状態ではない。
 天井を眺め、溜息をつく。その溜息に利吉の心中を察したのか、新野先生が困ったような笑みをこぼした。
「──ああ、それから」
 新野先生の呼びかけに、利吉が顔をそちらに向ける。
「はい、何でしょう」
「差し出がましいことを言うようですが、苗字くんに一言、声を掛けてやってください」
「……名前に、ですか?」
 思いがけず登場した名前の名前に、利吉はわずかに身じろぎをして答える。
 昨晩、名前に忍術学園までの手引きをされたことは利吉も覚えている。しかし薄情ながら、今の今まで利吉は名前のことをすっかり失念していた。覚えているというよりも、今この場で新野先生に名前を出され、ようやく「そういえば」と思い出したくらいだ。
 戸惑う利吉に、新野先生は鷹揚に頷いた。
「ええ。彼女、随分と心配をしていたようですから」
「……そうですか」
 名前の性格を考えれば、それもそうだろうと思えた。一晩以上ぐっすりと眠った今の利吉からしてみても、昨晩の利吉は尋常ではなかったと思う。ひとりで生きることが身についている利吉だから、たとえ弱っているときであっても、そもそも誰かに助けを求めようなどとは平素ならば思わないのだ。弱みを見せず、隙を見せまいとする。それは野生生物の在り方にも似ている。
 ──昨晩は随分、醜態を晒したからな。
 そんな普段の利吉ならばけして人に見せないような弱みをふいに見せられ、名前もさぞや困惑したことだろう。ただでさえ名前は人が良く、しかし裏を返せば付け込まれやすい性格をしている。名前がどれほど利吉のことで気を揉んだかなど、わざわざ想像してみるまでもない。
「苗字くんのことは元気になってからで大丈夫です」
「心得ました。お気遣いありがとうございます」
「いえいえ、それではゆっくりしてください」
 柔らかく微笑んで部屋を出ていく新野先生の目礼し、利吉はごろりと寝返りを打った。新野先生が去りしんと静まり返った部屋の中で、利吉はすることもなく、ぼんやりと思考をまとめ始める。
 ひとまずここが忍術学園の客室であること、自分はただ宿泊したのではなく十分に看護された後なのだということは先ほどの会話から理解した。新野先生が医務室に自分を運ばなかった以上、しばらくはここに留まることを余儀なくされるに違いない。恐らくは利吉の父伝蔵からも、身体が完全に復調するまでは忍術学園にお世話になれと言われるだろう。伝蔵はあれでまだまだ利吉を子ども扱いするところがある。
 利吉とて独り立ちして数年経つ立派な青年だ。十八にもなって父の職場に迷惑を掛けるのは忍びないと思う程度の自立心も当然ある。しかし一方で、すでに迷惑を掛けてしまったのだから今更気など遣ったところで大した意味はないのではと思うのも、またたしかだった。それならばいっそ、伝蔵や新野先生の言うとおりにゆっくり静養するのもひとつの手である。仕事が詰まっていないのも、そう考えれば天の采配と思えなくもない。
 ──ゆっくりするのも、悪くはないか。
 そう結論を出し、利吉は布団の中でもぞもぞと身体を動かした。仕事のことにひとまずの算段がついたとなれば、あと利吉が考えなければならないのは新野先生に言われたこと──すなわち名前のことである。
 利吉の昨日の記憶はかなり曖昧だ。正直に言えば自分が名前に何を話したのかすらも、利吉は胡乱にしか覚えていない。
 利吉とてプロの忍びであるから、まさか仕事で関わり知ることになった機密事項をうっかり話したりはしていないはずだし、そもそも無駄口を叩けるほどの気力も昨日の時点ではなかったはずだ。だから失言の類は、恐らくしていない。そう考えても大丈夫だろうとは思う。
 ──昨日名前のアルバイト先についつい足が向いたのは、きっと名前の明るさや穏やかさを、無意識のうちに求めていたからだろうな。
 冷静になれば、そんなふうに自分の行動を解釈することもできた。何故さして親しくもない名前のもとへと、胡乱な意識のなか訝しく思ったりもしたのだが、結局はその程度のことだろう。利害を考えることも損得を考えることもせず、忍びというある種の呪いから通そうな人物を形而上で求めた。くノたまとはいっても、名前の性格や雰囲気は忍び特有のにおいからは程遠い場所にある。
 忍びの世界のしがらみや、どろどろとした薄暗い感情──それらは利吉の生活に常に付きまとう、けして捨て去ることのできない闇である。そしてまた、元服して一人前に働いているとはいえ、利吉はまだたったの十八なのだ。十八の若さですでに、フリーの忍者として何の後ろ盾もないままに忍びの道を生きている。己の行いを誰のせいにすることもせず、己の被る泥を己の汚れと受け容れて、そうして何年も生きている。
 そんな日々を続けていると、時折ふっと世間との途絶を感じることがある。
 安穏と太陽のもとで営みを続ける人々との間に──健全に生をまっとうしようとする人々との間に、如何ともしがたい隔たりを感じることがあるのだ。かつては自分もそんな世界にいたはずなのに、そしてそこにはたしかに自分の居場所があったはずなのに、気が付けばそこはもう、手を伸ばしてもけして届くことのない遠い世界になっているような、そんな気分になってくる。
 名前の存在は、そんな表の世界に利吉を引き戻す「よすが」のようなものだった。これまでは名前に対してそんなことを思ったこともなかったが、それでも潜在的に利吉は、名前の中に光らしきものを見出していた。
 ──馬鹿馬鹿しい、と、そう一蹴できたら気は楽なのだろうな。
 これまで利吉はひとりで忍びの世を渡ってきた。忍術学園のような集団での教育を受けたこともなければ、小松田が卒業した忍術塾のような私塾に通ったこともない。師と仰ぐ者はおれど、仲間はいなかった。闇の中をもがくような時期があったとしても、それを切り抜ける術はいつでも自分の中にあり、言い換えれば利吉にとってはての光とは、利吉が持つ自分自身への希望だった。
 けして自分の光を他人に託すようなことはしない。たとえ足場が不安定でも、そのことを恨むこともない。もとより安定など求めておらず、自分の才覚のみで行く生きていくことを誇らしいとすら思っていた。
 そんな自負が、あまりにも呆気なく瓦解しかけた。
 己の内に見えていたはずの光を失いかけた時、たまたま手を伸ばした先に名前がいた──手を伸ばした先に光を見出すには、それだけで十分だった。
 同じ故郷出身だから共鳴した何かが、利吉の中で名前をそんなふうに祀り上げたのかもしれない。光を求めた利吉の胸に浮かんだ感情は、実際には「救い」にこそ近しいものだった。
 ──十四の娘にそんなものを求めるのは間違っているのかもしれない。
 それでも利吉が名前によってとっぷりとした闇の中から救い出されたことはたしかである。そのことはどれほど否定しようとも否定できるものではなかった。新野先生の口から名前の名前が出たときに感じた違和感もまた、その事実を裏付けている。
 名前はもう、ただの昔馴染みではない。
 まだ出会って間もないはずの名前に、利吉はいつの頃からか何か特別な感情を抱いてしまっていた。一体いつからかすら分からない、あまりにも曖昧模糊としていて、それでいてのしかかるように重い気持ち。
 ──私は名前のことを、どう思っているのだろうか。
 その問いには、何か答えに近いものを見つけ出せそうな気がした。己の胸の中にはもう、その答えがきっと埋まっている。それを求めるかのように、利吉はかすかに目を細めた。ゆっくりと、ゆっくりと、己の胸の奥深くを慎重に進んでいくように、そっと覗き込む。
 けれどその思考の探索は、思いがけずすぐに中断することになる。
「利吉さーん! 大丈夫ですかー!」
「げえっ」
 正直な声がかすれた喉から漏れる。勢いよく障子をあけて入ってきた一年は組のよい子たちによって、利吉の「静養」は一時中断せざるを得なかった。


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