静謐は緑青(1)

 名前と再会してから一週間。
 すっかり通常の仕事漬け生活に戻った利吉は、その日もまた、忍務で潜入する屋敷の周辺を、あくまで人目を引かないよう何気ないふうを装って偵察していた。
 とある城から受けた此度の依頼は、領内に突如出現した怪しげな屋敷の実態を調査・偵察するというものである。調査の結果たとえ怪しげな集いが開かれていたとしても、それを利吉がどうこうする必要はない。兎にも角にも怪しいのか怪しくないのか、そこのところをはっきりさせてくれというのが利吉への依頼だった。何かと忙しいことが多い利吉にとっては、ほかの忍務と比較して気楽な、小休憩のような忍務である。
 とはいえ、仕事である以上は利吉とて手を抜くわけではない。報酬をもらって受ける仕事であれば相応の責任も伴う。それなりの仕事をするのがプロというものだ。気を引き締め、忍務に臨む。頭の中でその日すべき仕事をまとめながら、利吉はいつの間にか止まっていた足を再び踏み出した。

 ◆

 その日、朝から動き詰めだった利吉は、夕方近い時間になってからようやく空腹を感じ始めていた。偵察の途中途中に給水こそしていたが、起きてすぐの朝食以来、食事や間食は一度足りとも挟んでいない。
 過酷な忍務であればある程度の断食や絶食も覚悟する利吉だが、今回の忍務はそういうわけではない。無理に断食をする必要がないと分かっている分だけ、利吉の身体は素直であった。先ほどから腹のむしが頻りに騒ぎ始めている。
 ちょうど利吉が見張っている屋敷のすぐ目の前には手頃な団子屋があった。どうやらなかなかの人気店のようで、いつ店の前を通りかかっても常に客が入っている。仕事柄客の出入りが激しい時間には入りづらかったが、すでに夕刻であり店が忙しい時間も過ぎている。
 ──監視している屋敷にはこれといって動きも見られないことだし。
 自分に自分で言い訳をして、利吉は団子屋で一服することにした。
 軒先にかかった暖簾をくぐる。利吉の読み通りちょうど客足が途切れたところなのか、店内からは客の声は聞こえてこない。店の中に踏み込みきょろきょろと窺っていると、
「いらっしゃいませー」
 従業員らしい娘がひとり、明るい声で利吉を迎える。
 その声に、利吉はぎょっとした。
 人のよさそうな笑顔で利吉を迎えたのはついこの間、忍術学園で数年ぶりの再会を果たしたばかりの娘──誰あろう、苗字名前であった。
「あらまぁ、どなたかと思えば……」
 木盆片手に目を瞬かせている名前は、当然ながら忍術学園の制服ではなく、淡い色の小袖を纏っている。小袖の上から簡易の前掛けを引っ掛けたその姿は、誰が何処からどう見ても、団子屋のアルバイト中にしか見えない。
「……何してるんだ、こんなところで」
「ご覧のとおり、団子屋さんの看板娘です」
 一応聞いておこうと言わんばかりの利吉の問いに、やはり名前は胸を張って答える。袖を持ち上げてくるりと一周して見せるあたりが、年相応に子どもっぽい。
 名前本人の言うとおり、この店で働いている以外に名前がここで前掛けを掛けて利吉を迎えている理由などない。とはいえ先日再会したばかりの人間にこうも立て続けに会う機会があるというのは、利吉にはどうにも何か奇縁めいたものがあるように思えてならなかった。それもこれも、万物に理屈を見出したがる忍びの性のようなものである。
 しかし生憎と、此度の再会に奇縁などというものはまったくなかった。名前がここにいるのはただ単純にこの団子屋でアルバイトをしているからにほかならず、利吉が誘われるように団子屋に入ったこととはまったくの無関係である。奇縁というよりはむしろ、ひと度相手の存在を認識したことで目につく頻度が上がったとか、そのような理屈の方がまだしも事実に近かった。
 と、そんな遣り取りを店先で繰り広げていると、奥から団子屋の主人がひょこりと顔を出した。名前と同じくやはり人のよさそうな初老の男である。客が来たのに名前がなかなか注文をとってこないことを訝しんだのだろう。
 主人は向かい合う利吉と名前を交互に見遣った後、
「おみつちゃん、知り合いかい?」
 と名前に尋ねた。慌てて利吉が口を開く。
「いや、私は──」
「はい、実は!」
 はきはきと名前が答える。元気のいい返事に、主人がうっすらと目を細めて笑った。
「そうかいそうかい。それならちょうどいい。朝からの客の波も引いたところだから、おみつちゃんも休憩なさい。今お茶を入れてあげよう」
「わぁい! 旦那さん、ありがとうございます!」
 ここまで、ほんの数秒。その束の間に、利吉の制止の言葉は意味をなさぬまま、とんとんと事が運んでしまった。もはや利吉が口を挟む余地もない。
 そんなわけで、忍務中にも関わらず、思いがけない形で利吉は名前とお茶をすることになったのだった。本来ならばそれでも忍務を理由に断るところだが、今のところ監視先の屋敷にこれといった動きは見られない。一応店内ではなく、常に屋敷を視界に入れておくことができる店先の床几でという条件で、名前とふたり、のどかな初夏の風に吹かれながら一服することにした。
 こまごまとした片付けを済ませてくると言って店の奥に引っ込んだ名前をぼんやり待ちながら、利吉は出された茶に口をつける。十分に冷やされた茶は、すでに夏の訪れを感じさせる天気のもと活動し続けていた利吉の喉に冷たく心地よく感じられた。吹く風にはみどりの匂いがたっぷりと含まれている。何とも牧歌的で平和そのものだ。
 ──まさかこんなところで名前に会うとは。
 暫しぼんやりと屋敷に視線を遣っていると、ほどなくして前掛けを外した名前が店の表へと出てきた。手には団子の載った皿を持っている。休憩ついでに給仕を頼まれたのだろう。
「お待たせしました、えーと……」
 言い淀む名前に、利吉が眉を下げた。
「名前で呼んでも大丈夫だよ。人通りもないし」
 利吉に言われ、名前はほっと表情をゆるめると、
「お久し振りです、利吉さん」
 と、改めて挨拶を口にした。
 仕事中の忍びの名前をみだりに呼ばないようにということは、くノ一教室の五年ともなればすでに徹底されている。利吉も名前がそうして気遣っていることを察していたから、わざわざ許可を出したのだった。
 名前が運んできた団子に手を伸ばし、
「ところで、おみつというのは?」
 今度は利吉が尋ねる。先ほど名前が主人から「おみつ」という名で呼ばれていたことを、利吉は聞き逃してはいなかった。名前の名前とはかすりもしていない呼び名である。十中八九、偽名だろう。
 しかし名前は利吉のその問いに、
「ここの団子屋で看板娘をしている娘の名前です」
 と、悪びれた様子もなく飄々と答える。
「……君の名前は?」
「おみつですよ? ──今は、ですけど」
「……ああ、そう」
 あくまでおみつと名乗る名前に、利吉はそれ以上何も言わなかった。お互いに──たとえ片方はまだたまごだったとしても、忍びと忍びの間柄であることには違いない。となれば、無用な詮索はしないのがルールだった。プロの利吉がそのルールを破るわけにはいかない。
 名前のことはそれ以上追及しないこととして、かわりに利吉は小袖姿の名前を、そうとばれないよう横目でこっそり盗み見る。思いがけずに名前と鉢合わせしてしまうすっかり流していたが、よくよく考えてみればくノたまの名前がアルバイトをしているというのも不思議な話だった。
 ──この店でアルバイトをしていると言っていたが、もしかして名前もきり丸と同じように、学費を自分の手で稼がねばならない身の上なのだろうか。
 のほほんと団子を頬張っている名前を見ながら、そんなことをふと、思った。
 名前の実家はけして裕福なわけではない。どちらかといえば山奥で慎ましく暮らし、生きるのに必要な最低限の蓄えだけを糧に生活しているように見えた。名前の家が特別に貧窮しているというわけではない。あの辺りに住まうものであれば、程度の差はあれど大体似通った生活を送っているものだ。斯くいう利吉の生家も同じようなものだった。それを特別不自由に感じたことは、今までに一度もない。
 山の惠を大いに享受する一方で、けして余剰を生まず質素倹約につとめるというのが、山で暮らす人々の古来より続く在り様であることを、そこで育った利吉は早くから理解していた。
 翻って、忍術学園は私立全寮制の教育機関である。入学金も授業料も、相応の負担が強いられる。質素倹約で素朴な生活をよしとする山の民の性質とはどうしてもそぐわないところがあるのは、揺るぎようのない事実だった。
 そも、忍術学園の存在を知るような人間は人里離れたあの辺りにはそう多くはないはずだ。そんなところに働き手となるであろう年ごろの子どもをひとり、授業料を払ってまで遣るというのは生半なことではない。名前の家にはきょうだいも多い。利吉の目から見て、名前の家に末の娘をくノ一教室にやれるほど蓄えがあるように見えるかと問われれば、実際には微妙なところだとしか答えようがなかった。
「利吉さんは、今日はお休みですか?」
 名前の生家の家計に思いを馳せていると、やにわに名前が切り出した。素早く思考の風呂敷をたたみ、利吉は名前に視線を戻す。
「いや、今日は仕事だよ」
「ふふ、利吉さんが今抱えているのがどんなお仕事か、わたしが当ててみましょうか」
 にやりと笑う名前に、利吉は思わず目を眇めた。
「君が?」
 思わず疑うような声が出た。利吉はけして名前のことを侮っているわけではない。とはいえ彼女はまだくノたまの五年生である。プロの忍びである利吉が請け負うような案件がどういうものなのか、そう簡単に想像がつくとは思えなかった。利吉はここまで一言も自分の仕事の話は口にしていない。
「くノたまの名前に分かるのか?」
 本心からそう尋ねれば、名前は浮かべた笑みを少しだけ引っ込めて、挑むような目で利吉を見返す。彼女には珍しい挑戦的な瞳である。
「あ、利吉さん疑っておられるますね? ふうむ、それでは……」
 そう言って、名前はぴっと人差し指を一本立てると、それを向かいにある屋敷にまっすぐ向けた──利吉が見張っている、くだんの屋敷である。
「あそこ──この店の斜向かいにある屋敷の、ひとの出入りを調べていらっしゃる──とか?」
 利吉は黙るよりほかなかった。名前の予想がそのままぴしゃりと正解だったためである。
 しかし名前に正解されたら正解されたで、利吉としてはただ感心しているだけというわけにはいかなかった。知らず、利吉の眉根がわずかに寄る。
 利吉にもプロの忍びとして生計を立てているという矜持がある。まだ半人前のくノ一でしかない名前に、本来ひた隠しにしなければならない忍務の内容が露見したというのならば、それは名前が想像している以上に由々しき事態であった。自分の何が秘密を漏らすに至ってしまったのか、それを突き止めねばならない。最悪の場合、今後の仕事に支障をきたしてもおかしくはない。
「……どうしてそう思うんだい?」
 慎重さをあらわすような低い声音で利吉は尋ねる。団子を頬張った名前は、口の中のそれを飲み込むと、
「私に特別な観察眼があるというわけではなくって……、実は先週あたりから、ドクタケと思しき男たちが入れ代わり立ち代わり、あの屋敷に出入りしているので」
 と、事もなげに答えた。
「それにこのあたりはどこかの街道に繋がる道というわけでもありません。利吉さんが仕事で御用があるとすれば、その仕事先に向かう道中というよりも、ここが目的地であると考える方が自然かなと思いまして。だからそのふたつを結び付けて考えると、あの屋敷が利吉さんのお目当てなのかなと推測したんですけど──どうですか、正解していましたか?」
 勝ち誇ったような顔をするでもない、ただ促されたままに自分の推測を訥々と話しただけというような名前の態度を見て、その推察を認めないわけにはいかなかった。利吉は軽く頷く。
 しかし成程、種を明かせば単純な話だった。あの屋敷に出入りするドクタケの存在を名前が知っていたというのなら、利吉がここに現れたこともそれ絡みと推理しても何ら不思議ではない。また、この店でアルバイトをしている名前が、今日ここにやってきたばかりの利吉が知らない変化にいち早く気付いているのも、考えてみれば当たり前のことだった。
 多少張っていた気をゆるめ、利吉はふっと溜息まじりに笑う。種明かしをすれば呆気ないものとはいえ、名前の観察眼はたしかなものだ。忍びの先輩として、利吉は素直に感心した。
「それにしても、驚いたな。まさか本当に言い当てられるとは思わなかった」
「ちなみに、先ほどの話は何日か前に忍術学園の学園長先生にお伝えしてあるので、そろそろ何か動きがあるかもしれません。今朝がた先生方が、学園長先生の庵に集まっていらっしゃいましたし」
「それじゃあ名前はその件でこの団子屋に?」
「いえ、まさか。わたしがここにいるのは本当に、ただのアルバイトです。わたしが勤労に勤しんでいたら騒動の方から転がり込んできたんですよー。これも忍たま、いえくノたまの定めってことなのかな」
 照れたように答える名前に、利吉は閉口した。忍たまたちが散々騒動を引き寄せる現場を目撃している利吉としては、名前のその根拠はないが何とも言えない説得力のある言葉に、納得するしかない。
 しかし図らずも、利吉の仕事はこれで達成されたことになってしまった。己の目で確認していない以上はもう少し調査が必要ではあるが、とはいえ忍術学園が動くような事態というのだから名前の話には一定の信頼を寄せてもいいのだろう。利吉の今回の忍務は屋敷に怪し気な動きがあるかを調べるだけなので、事態を忍術学園が解決してくれるのならばそれはそれで一向にかまわなかった。
 ──報告は、事態が収束してからでも遅くはないな。
 胸のうちでそう結論づけると、途端に気が抜けた。まだ監視の目は外せないとはいえ、今回の仕事はもうほとんど終わったようなものである。相変わらず暢気な様子の名前の雰囲気にあてられ、利吉もまた肩の力をゆるりと抜いた。


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