だれかに贈る日記

 利吉の静養生活は、実際にはそれなりに多忙な名ばかりの静養であった。それは利吉の問題ではなく、忍術学園という慌ただしい場所ゆえの多忙さであったのだが、ともあれおかげで病床の利吉が暇持て余す時間は存外に短く済んだ。
 忍術学園での生活三日目、朝方からの来客に一通り対応し終えた利吉が夕刻になってようやっと縁側で一息ついていると、丁度学外から戻った名前が利吉が臨む中庭を通りかかった。
 今日はいつもの桃色の忍び装束ではなく、外出用の私服の小袖を纏っている。名前は利吉に気が付くと、子犬が跳ねるようにぴょこぴょこと駆け寄った。十四の娘とは思えないようなその落ち着きのなさに、利吉は思わず苦笑する。
「あら、利吉さん。もう起き上がって平気なのですか」
「やあ、名前。さっき新野先生からお許しが出たよ」
 渋い顔で答える利吉に名前が事情を察したのか目尻を下げた。
 ただの過労と聞いて甘く見ていた利吉だが、ひとたび布団でゆっくりしたことで却って蓄積した疲労が一気に噴出したのか何なのか、全身を襲う疲労で、ろくに布団からも出られないような状態に半日ほど襲われた。その恐ろしいまでの絶不調ぶりには新野先生も閉口するほどで、これまで騙し騙し自らの身体を欺きながら仕事を詰めてきたのが遂に祟ったかのようであった。そんな利吉の生態は、さながら動き続けていないと呼吸ができない回遊魚のようである。
 そのような体たらくから、ようやく足腰が立つようになったのが昨日の昼過ぎのこと。そこから新野先生に診てもらい、学園の中でならば少しずつ動いてもいいとようやく許可が出たのがさらに一日経ったつい先ほどのことである。ただでさえ思うように身体を動かすこともままならないというのに、利吉の看病を買って出た乱太郎や心配してたびたび様子を見にくる伝蔵、思い出したように襲来する一年は組のせいで、利吉にとってはむしろいつもよりも慌ただしく感じられてならなかった。
 そんな一日の終わりにこうして名前の顔を見られたことで、利吉は何とはなしにだが、ほっと心が落ち着くのを感じた。名前が自分の隣に寄るのをちらと見て、縁側から投げ出した足をぶらぶらと振り子のように揺らす。全身を動かすのに違和感はあるが、動けないほどではない。
「動けるようになってよかったよ。無為にゆっくりするのには慣れていないし、自分の間とは関係なく人が来るのも煩わしいし」
「利吉さんったら昨日、新野先生の許可なく勝手に出歩いてこっぴどく叱られていましたものね」
「怒った新野先生が、まさかあそこまで怖いとは思わなかったよ……」
 その話題にしょんぼり項垂れ利吉が言った。
 昨日、横になり続けていることに辟易した利吉が布団から脱走し、四半刻も経たないうちにまんまと新野先生に見つかった上、忍たまのようにこってり絞られたという醜聞についてはすでに忍術学園中に知れ渡っている。客人といえど、新野先生にとっては利吉は一人の患者でしかない。その辺りを読み間違え、温厚な新野先生の逆鱗に触れてしまったのは間違いなく利吉の失態であった。
 以来、今日やっと新野先生から自由行動の許可が出るまで、利吉は厠以外では一歩も部屋から出ていない。いい年をして大人から叱られるのなど一度で十分だった。
「それにしても、昨日の今日ならぬおとといの今日でもうこんなに元気だなんて、さすが利吉さんですね」
「はは、おばちゃんのアコウが効いたかな」
「それもあるかもしれませんよ。季節のものを食べると精が付きますし」
「たしかにここの食事は健康に良さそうだけど」
 少なくとも普段利吉が口にしている食事よりは各段に人間らしいものを食べている。初日こそ食欲がなく粥しか食べられなかったが、すっかり回復した現在は、いつでも食堂のおばちゃんの料理を食べられるという何とも恵まれた環境を有難がっている利吉である。
 しかしそのおかげか、利吉の顔色はすこぶる良好である。名前の眼から見てもそのことは明らかだった。
「この分ならすぐにまたお仕事に戻れそう──」
 と、そこまで言って名前ははっとした。
「元気になられたということは、まさか利吉さん、もうすぐにでも発たれるのですか?」
 その雷にでも打たれたような名前の表情を見て、利吉は如何に普段の自分が仕事中毒だと思われているのかを理解した。さすがに一度倒れたにも関わらず、静養もそこそこに仕事に復帰しようとするほど利吉も考え無しではない。が、「利吉さんなら復帰してもおかしくない」と思われるような働き方をしてきた自覚はあったので、名前の衝撃にむっとすることもできない。
 こうして過労で倒れている以上それは否定しようもないことなのだが、しかし人からどう思われているのかを改めて目の当たりにすると、どうしたって苦笑を禁じ得なかった。それでも自分ではそれなりに余裕を持った大人ぶっていたつもりだが、少なくとも名前やほかの忍たまの目にはそう見えてはいなかったのだということを、思いがけず思い知ることとなってしまった。
 ──四つも年下の娘に心配されるというのも、いやはや情けない話だ。
 自分の至らなさを実感し、利吉は内心溜息をつく。
 とはいえ名前に対しては、すでにこれ以上ないほどの醜態を晒した後である。今更そんなことを考えたところで、これ以上名前の中での自分の像が崩れることもないだろう──そんなふうに無理矢理前向きな解釈をして、利吉はせめてもの余裕のあらわれのように笑みをつくった。
「さすがにまだ復帰はしない。実はもう何日か、ここでお世話になることにしたんだ。幸い今は急ぎの仕事もないし、むしろ忍術学園にお世話になっている方が都合がいい仕事がいくつかあってね。その代わり、臨時で一年は組の補習授業に付き合うよう父上から言い渡されているんだけど」
 すらすらと述べた言葉は嘘ではなかった。
 利吉が今のところ予定している仕事の中には、足を動かすよりも文献をあたった方がいいものがいくつかある。加えて忍術学園の図書室におさめられた膨大な図書の中には、利吉のように顔が広いものですら、日ごろなかなかお目にかかれないような代物が混ざっていることがあった。そういった書物をあたれば、次の仕事に活かすことができる何かしらを得られる可能性は大いにある。
 は組の補習に付き合うというのも事実。こちらに関しては利吉も気乗りしないのだが、しかし宿泊代のかわりだと伝蔵に言われれば、お世話になっている以上利吉に断ることなどできるはずもない。は組の成績を知っているだけに気は進まないが、フリーの忍びとして何事も経験と割り切ることだけが利吉に許された唯一の選択肢である。
 そんな利吉のどんよりとした心情とは裏腹に、名前は愉快そうに笑っていた。濡れ縁に腰掛け、利吉の隣で足をぶらつかせながら、
「利吉さんならいい先生を務められますよ。面倒見がよくていらっしゃるから」
 と、何とも無責任なことを言う。あまりにも堂々とした無責任ぶりなので利吉も眉を下げるしかない。
「そうかな。そんなこと言われたことないけど」
「でも、私のことは何かと気に掛けてくださっているじゃありませんか。面倒見がよくなければそんなことしてくださいませんよ」
 自信たっぷりの名前に、たまらず利吉は気まずげに視線を逸らした。
 たしかに利吉は名前のことをよく気に掛けている。しかしそれはけして、名前が今言ったような面倒見のよさから来るものではなかった。どちらかといえば利吉は他人への干渉を避けて通るタイプである。名前のことを何かと気に掛けているのは、単に利吉の個人的な事情と感情によるものにほかならない。
 ──名前は私にまつわることは何でもいいように受け取ってくれるが、その認識が必ずしも正しいわけではないということを知らないんだ。
 だからといって、わざわざ自分の株を下げるようなことを教えてやるつもりもない。利吉はぎこちなく視線を地面に投げ、無理矢理に話題を変えた。
「──それよりその格好、どこかに出掛けていたのか」
 忍術学園の中では制服代わりの忍び装束を着用することが決められている。それを守っていないのだから、どこかに外出にしていたのは一目瞭然だった。利吉の言葉に名前は「はい、ちょっと」と簡単に返す。明言こそしていないものの、取り立てて何かを隠す様子でもなかったから、利吉はもう少しその話を続けることにした。
「またアルバイトに?」
「いえ、今日は学外課題です」
「学外課題?」
 首をかしげる利吉に、名前はこくりと首を動かす。
「魚売りをしながら、城下で情報をとるんです」
「へえ」
「五年生の夏なのでまだそこまで踏み込んだ実習ではないんですけど、この課題をちゃんとパスできないと秋以降の本格的な実習に参加できないので」
 くノたまとはいっても行儀見習いで入学してきた生徒たちは、秋以降に始まるより本格的で実践的なくノ一としての実習には参加しない。くノ一としての活動には色事がつきものだが、そもそも自分の家の大切な娘に、仕事だからと男と共寝をさせたい親などそう多くはないだろう。いずれ良家に縁づかせるとなれば、できるだけその身を清く保たせたいと思うのが親心であり、また嫁に出す親としての責任でもある。
 だからこそ、この時期のくノ一教室は慌ただしい。秋以降の実習に参加するものと、実習にこそ参加しないが学園には居残り卒業を目指すもの、そしてここを一区切りとして退学していくものが入り混じり、それぞれがこれからの進路にくらくらと頭を悩ませてる、いわば分水嶺のような時期にあたる。
 名前の場合は最初からくノ一としての授業を修めることを目標としているから、そういった悩みは限りなく少ない。それでも、そうして自分の悩みがない者のところへは進退に悩む者が相談に来るのがお約束で、名前生来のおっとりとした気質もあってか、名前のもとを訪れるくノたまはここのところ連日引きを切らない。
 こうして今名前が利吉のもとにいるのは、連日の悩み相談から逃避したいという思いもある。そうでなければ今頃、名前はさっさとくノたま長屋の自室に戻っていただろう。
 名前のぼんやりとした横顔に、利吉は名前もまた、何も言わないながらも抱えているものがあることを察する。しかし名前が話そうとしない以上そこまで踏み込むつもりもなく、気にかかりつつも、
「それで、ちゃんとパスできそうなのか」
 と、その憂いには気付かないふりをした。名前もまた、憂いなど何もなさそうな笑顔を利吉に向ける。
「お陰様で無事に。これから山本シナ先生のところに伺って課題の報告をしてくるところです」
「そうか、引き留めてしまってすまなかったね」
「いえいえ。そうだ、よろしければそこまで一緒に行きましょう。どうせ利吉さん朝から何も召し上がっていないんでしょう。くノ一教室と食堂は目と鼻の先ですから」
「たしかに腹は減ってきたけど。さすが、察しがいいな」
「そろそろ夕方ですからね。早くしないとおばちゃんが食堂を閉めてしまいますよ」
 食堂で食事が出るのは朝と昼だけである。夕飯については各自で準備をしなければならないが、客人である上に自由行動が制限されている利吉は自分で食べものを調達することもできない。まだぎりぎり食堂が開いている時間だから、滑り込みで夕食を作ってもらう必要がある。
 そんなわけで名前に誘われ、名前と利吉はそれぞれくノ一教室と食堂を目指して歩き始めた。

 ◆

 歩きながら、利吉はつと隣を歩く名前に視線を遣った。
 当たり前のことではあるのだが、とてもではないが忍びらしいとは言い難いような性格をしている名前であっても、くノ一を目指し忍術学園に通っている以上くノ一の術を学ぶ立場にある。良家の子女が箔付けのために忍術学園に通うのとは違い、名前の場合はくノ一として生きる術を学ぶために通っているのだ。当然、卒業した後にはくノ一になることを想定しているのだろう。
 以前、名前が薙刀を振るっているところを陰から盗み見ていた時、居合わせた山本シナ先生が言った言葉を利吉はふいに思い出す──曰く、名前はくノ一に向いている。
 しかしここまで名前を近くで見ていても、やはり利吉にはそうとは思えなかった。名前の気性──良く言えば優しく、悪く言えば呑気で楽観的な気性は、どう考えても忍びには不向きである。単純な戦闘となる場面が男の忍びよりも少ないくノ一にとっては、身体的な強さよりも、精神的な強さが重要であることは言うまでもない。プロとして活動する利吉の目には、名前の気性はいつか彼女自身の足元をすくいかねない諸刃の剣のように思えてならなかった。
 ──どう考えてもくノ一には向いていないと思うんだけど……。
 しかしそう思うのと同時に、それが利吉自身の願望であることにもまた、聡い利吉は気付いていた。利吉は名前に、日常を期待している。平凡で凡庸で、どこまでも変わらないことを望んでいる。忍びの世界の血生臭さなど縁遠い場所でぼんやりと揺蕩うように──あるいはつまらない日常を、ほかの多くの人々と同じように送っていってくれることだけを、名前に求めている。
 それが自分勝手な願望であることは承知の上だ。利吉は名前の家族でもなければ恋人でもない。名前の将来について意思決定に口を挟める立場にはないのだ。名前がくノ一を目指すことについても、不満や違和感を抱いたところでどうすることもできない。
 ──ままならないよなあ、色々と。
 つくづくと思い知り、そっと嘆息した。いっそ氷ノ山にいる名前の親が、ほかのくノ一教室の生徒の親のように名前のことを呼び戻してくれればとすら思う。しかし現実的に考えれば、四年以上も名前を自由にしている親に今更そんなことを期待したところでどうせ無駄なことだろう。
 しかしそれにしたって、やはり名前にはくノ一は不向きであるようにしか思えない。どうにかして名前がそのことに気付いてくれないだろうか──と、そんなことを考えていた利吉の様子を傍らの名前が不思議そうに窺う。
「利吉さん?」
 名前を呼ばれ、利吉は名前に視線を遣る。ついついぼんやりと考え事をしていて、自分の世界に没入していた。名前が何か言ったかもしれないが、その声すら利吉には届いていなかった。
「ん? 何か言ったかい?」
「いえ、ぼんやりされていたのでどうかしたのかと」
「特にどうもしないよ」
 まさか名前の進路をどうにか変更させられないだろうかと思案していたなどと、そんなことを正直に打ち明けるわけにもいかない。不自然なほどに爽やかな笑顔でぬけぬけと嘘をつく利吉だが、名前はすんなりとそれを信じた。
「そうでしたか。すみません」
「構わないけど、なんで謝るの」
「だって、ぼんやりしているなんて言われたら利吉さん心外かもしれないと思って」
「そこでむっとするほど狭量ではないつもりだけど」
「それはそれは。重ね重ね失礼いたしました」
 何が面白いのか、名前がくすくすと笑った。つられて利吉も笑う──笑いながら、思う。
 ──やはり名前はくノ一に向いていない。
 利吉のこんな簡単な嘘すらも看過できないようでは、くノ一としての仕事がまっとうに務められるとは到底思えなかった。化かし合い情報を操作し合うことこそ忍びの腕の見せ所なのだ。名前はその一歩目で躓いている。寧ろこれでよくぞ五年生まで進級してきたものだとすら思う。
 ──山本シナ先生は一体名前の何を見て、この子がいいくノ一になるなどと思ったのだろうか。
 まさか山本先生に限って口から出まかせを言うとも思えない。名前本人に対してならばまだしも、利吉にそんなお世辞を言う理由もない。ということは、山本先生が利吉に語った言葉についてはひとまず山本先生の本心であると仮定してもいいだろう。そこについてはまた機会があれば山本先生に直接確認しよう、と利吉はひっそり思う。それから思い出しついでに、
「そういえばこの間、君が薙刀の練習をしているところを見たよ」
 と、何でもないことのように切り出した。
 名前はぱちくりと瞬きをする。それから少しだけ頬を染め、咎めるように口を尖らせた。
「そうなんですか? それならそれで、声を掛けてくださればよかったのに」
「君がそれを言うのか」
 呆れて利吉が眉をひそめる。
 声を掛けてくれればなど、本来それを言いたいのは利吉の方である。何せ名前は四年間も利吉に声を掛けずにいたのだ。名前がそれを言うにはあまりにも自分を棚上げしすぎている。一年の時点で名前の方から声を掛けてくれてさえいれば、今頃はもっと名前と利吉は親しくなっていたかもしれない。
「いや何、集中して鍛錬に取り組んでいるようだったから水を差すのも悪いかと思ってさ」
「そうでしたか。それはお気遣いいただきありがとうございます」
 歩きながらぺこりと頭を下げた名前の髪が、はらりと揺れた。それを見るともなく眺め、利吉は言葉を続ける。
「私は長柄武器の類はやらないけど、くノ一教室では剣術よりもあちらの方が主流なのか」
「いえ、そういうわけでは……。というより、武術全般に関して言えることですが、上級生になるとそう熱心にやることもありませんね。身体が出来上がってくるので火縄は多少やりますが、そもそもそういう直接的な攻撃となるとどうしてもくノ一本来の戦い方とはずれてくるので」
 淡々とした名前の声は、しかし的確にくノ一としての在り様や限界を利吉に突きつける。
 そもそも、忍びの本分は戦うことではない。身軽な装備に徹し最低限の武器しか持たず、加えて余計な筋肉をつけない忍びは当然、直接的な戦闘となればどうしても武士に遅れをとるものだ。何でもそつなくこなす利吉であっても、忍び同士での戦闘ならばともかく、本格的に武をきわめる武士を相手取って戦うことになどなれば、逃げの一手を選ぶしかない。
 男の忍びでそうなのだから、くノ一となれば尚更だった。男の忍び以上に戦闘は本分ではない。くノ一が武器をとって戦うことがあるとすれば、せいぜいが敵の手から逃れるときや主に防衛を目的に用いる暗器や手裏剣術だろう。積極的に攻撃を仕掛けるということは、まずない。もちろん戦う用意を身に着けてはいても、それを用いるのは最後の手段になるのが普通だ。
 忍術学園は必ずしも忍者になる者ばかりを育成する機関ではない。だから武人になるにあたり求められる一通りのことは授業で取り扱う。しかしことくノ一教室についてのみ言えば、そこでの指導はあくまでも護身術としての習いの域を出ないものだった。
「わたしが薙刀を続けているのは単に身体を動かす感覚を忘れたくないのと、後輩の指導のためですね。忍術学園には高名な剣術師範の戸部先生がおられますけど、薙刀となると山本先生おひとりですから」
 もちろんくノ一教室には伝蔵たちも出入りし授業をしているが、くノ一教室独自の授業となると山本先生しか教鞭をとることができない授業も多い。ゆえに多忙の山本先生に代わって、上級生で教えられる内容は教えることがくノ一教室での通例となっていた。学生間での自助を推奨しているくノ一教室においてはごく自然な流れであり、薙刀もまた、その一例である。
 そんなようなことを名前が淡々と説明するのを、利吉は意外そうな面持ちで黙って聞いていた。やがて名前が一通りの説明をし終えると、
「前にも思ったけれど、君はぼんやりしているように見えて案外くノ一教室の運営面にしっかり取り組んでいるな」
 と、何とも本筋とは外れた失礼な感想を述べた。名前が苦笑まじりに眉を下げる。
「そうでしょうか。ほかの上級生も大概こんな感じですけれど」
「ふうん。まあ、男子に比べるとどうしても上級生の数が少ないから、しっかりせざるを得ないのかな」
「それでも行儀見習いとして入学してくる子たちが抜けた穴を埋めるという意味では、どうしてもしっかりしなければという感覚はありますね」
 まるで他人事のように言う名前に、利吉は小さく「そうか」と返した。
 果たして名前は、行儀見習いで入学してきた知己朋友が学園を去ってゆくことをどう思っているのだろうか。同じ年ごろの娘が当たり前に決められた流れのようなものに乗って、順当に幸せをつかもうとするのを見送って、名前は一体なにを思うのだろう。
 隣を歩く名前のゆるやかな頬の線を見下ろし、利吉はその問いを自らの胸のうちにそっとしまい込んだ。


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