雷鳴の名手

 部屋の外で、気が早い蝉が一匹だけ鳴いている。
 じわじわと蒸す部屋の中、お茶を運んできた小松田秀作が下がったのを確認して、伝蔵はひとつ咳払いをした。対面する利吉は、父親のその物々しい雰囲気に何事かと視線を向ける。
「利吉、お前最近よくくノたま長屋に顔を出しているようだが」
 初夏のある昼下がりのことである。忍術学園から依頼されていた調査の結果を伝えにきた利吉は、そのまま父である伝蔵のもとへと顔を出していた。伝蔵の受け持つ一年は組は、この時間は土井半助による座学の授業の真っ最中である。伝蔵は空いたこの時間、自室で仕事の書き物をしていた。期末試験が近い。
 小松田に出された茶を啜り、利吉は頷く。伝蔵の言う言葉には身に覚えがあったし、わざわざ隠し立てするようなことでもなかったからだ。
 外はすでに夏の兆しを見せているというのに、お茶は舌を火傷しそうになるほどに熱い。心中で小松田に呪いをかけながら、利吉は平静のとおりに口を開いた。
「ああ、はい。実は少し前に、名前という昔馴染みがくノ一教室に通っているのだということを母上に聞きまして。それで最近また交流が復活したので、ちょくちょく顔を出すようになりました。母上からも、名前のことは気に掛けてやってくれと言われていますし」
「そうか」
 利吉の返事に、伝蔵は特に何と言うこともなく相槌を打った。伝蔵のその様子に、利吉は自分が今話したような事情も、伝蔵は大体のところを把握していたのだろうということを察する。既知の事実をわざわざ利吉の口から説明させたことへの正確な意図は定かではないが、おおかた女の園であるくノ一教室に顔を出すことへの、父親としての牽制のようなものだろう。良くも悪くも自分がおなごの気を惹きやすいことを、利吉は重々承知している。
 ──父上も回りくどいことをするな。
 思わず内心で苦笑した。そも、父の勤め先である忍術学園の女子生徒に手を出そうなどというつもりは、利吉にはさらさらない。仮に何らかの不貞や不埒を働くとしても、少なくとも忍術学園の中で事に及ぶことはないだろう。
 利吉がくノたま長屋に顔を出しているのは、今まさに伝蔵に言ったように名前の様子を見に行くのが理由である。そしてその名前に対して抱いている感情があるとすれば、それは昔馴染みに寄せる気安さ以外の何物でもなかった。名前の穏やかでゆったりとした気性は一緒にいて心地よくは思えども、胸を高鳴らせるような恋情ではない。利吉にとっての色恋とはそういう類のものである。名前とは結び付きようもない。
「それにしても──父上はご存知でしたか? うちの近所の娘がこの学園に通っていることを」
 改めて利吉が問う。伝蔵は呆れたように眉を下げた。
「そりゃあお前、わしが何年ここで教師をやっていると思ってるんだ。くノ一教室の生徒も含め、生徒の素性は一通り調べてあるわい」
「しかし父上は忍術学園の先生になる前からあまり家にはおられなかったものですから。ご近所づきあいだって母上に任せきりだったじゃないですか」
「馬鹿者。あそこに家を建てたのはわしだぞ。近所の顔くらいは覚えておる」
「これは失礼いたしました」
 分かりやすくむくれる伝蔵に、利吉はやれやれと言わんばかりの顔をした。
 とはいえ、利吉の言葉もまったくの的外れというわけではなかった。伝蔵が記憶しているのは、あくまでも家を建てた時点での住民の顔ぶれである。その頃にはまだ名前は生まれていなかったから、近所に名前という娘がいるということは知っていても、実際にその娘と顔を合わせたことは一度もなかった。伝蔵が名前と言葉を交わしたのは、名前が忍術学園に入学してからだ。もちろん名前の方は伝蔵を知っていたので、忍び装束を着た伝蔵の姿を見た彼女が大層驚いたことは言うまでもない。
 が、伝蔵は意図的にそのことを利吉には伏せておくことにした。近所の娘の顔も知らなかったなどとうっかり口を滑らせれば、それに託けて利吉がまた家に帰れだなんだと言いだしかねない。不毛な言い合いを避けるためには、余計な弱みは見せない方が利口である。
「とはいえ、わしが自力で気が付いたわけじゃあない。最初に名前に気が付いたのは、たしかくノ一教室の山本シナ先生だったな」ようやく冷めてきたお茶に口をつけ、伝蔵が言う。
「わしが目を通すより先にくノたま名簿に目を通すのは、学園長先生と山本シナ先生くらいだろうから」
「山本シナ先生が、父上に?」
「そうだ。新入生名簿の中に、生家が氷ノ山の者がおるが知っているかと尋ねられた」
「ああ、なるほど」
 山田家が忍術学園から遠く離れた氷ノ山の山奥にあることは、忍術学園ではよく知られたことである。そのような秘境から遠路はるばる入学してくる生徒がいるというのだから、名前の入学にあたり伝蔵が口添えをしたと思われてもおかしくはない。
「それで父上は名前のことをご存知だったんですね」
「まあ、そうだ。名前はわしのことを覚えておったから、声を掛けたら驚きながらも嬉しそうにしておった」
「嬉しそうに? それは父上の勘違いでは……」
 誰がいい年をした中年の顔を見て喜ぶものか──そんな利吉の本音が見え隠れする言葉を、伝蔵は咳払いで一蹴する。
「まだ名前が一年の頃の話だ。生まれ育った故郷をはなれてひとり、心細かったところに多少でも知った顔があれば、十の娘はほっとするもんだろう」
「まあ、そうかもしれませんが」
 たしかに、そう言われてみれば伝蔵の言うことにも一理あった。忍びの利吉や伝蔵ならばともかく、年端もいかぬ幼い娘の足には氷ノ山と忍術学園はあまりにも離れすぎている。たとえ自分の意思で忍術学園入学を決めたとしても、心細く感じられるのは当然のことだろう。そこに見知った人間が優しく声を掛けてくれるとなれば、そしてそれが忍術学園の先生となれば、名前にとっては心強いことこの上なかったに違いない。
 ──そういえば、初夏の頃には帰るに帰れずたけのこご飯を食べそびれたという話もしていたな。なかなか生家にも帰れないのだろう。
 五年生にもなればさすがに、十の頃と比べて移動も簡単に長距離を稼ぐことができるようになっているのだろうが、それでもやはり、そうそう気安く実家に帰れるわけではないのだろう。大人の男である利吉ですら、氷ノ山まで帰るとなると多少の心構えが必要になるのだ。名前の場合も推して知るべしである。
 そもそもくノ一教室には、名前ほど遠方から入学してくる者はほとんどいない。全寮制とは言っても大抵はいつでも帰れる距離に実家があり、だからこそ親も安心して娘を学園に任せる。生徒のうちのほとんどが由緒正しい家の娘であるくノ一教室だからこそだろう。
 ──そう考えてみると、名前が家を出ることをよく親が許したものだ。
 男子ならばいざ知らず、名前は気性もおだやかな女子である。その上きょうだいとは年の離れた末娘なのだから、親もそれなりに可愛がっていたに違いない。利吉は名前の両親を知らないが、それでも生家の土地柄、おなごに学をつけさせようなどと先進的なことを考える親であろうとは思えなかった。そこまでして名前を手放し、大人の足でも数日かかる忍術学園に遣ろうなどとは、普通の親ならばまず考えないのではないだろうか。
 そんなことを思っていると、黙ってお茶を飲んでいた伝蔵が、
「それにしても利吉、お前これまでの四年間、まったく名前の存在に気付かなかったのか」と、これまた呆れたように言った。
「名前に口止めされていたからお前には言わなかったが、これまでもちょくちょく、名前はお前の周りをうろついておったぞ。何というか、気付いてほしそうな感じがひしひし伝わってきてな、見ていてなかなか不憫というかいじらしいというか」
「ええ? 人が悪いんだから。ご存知だったのなら教えてくださいよ。私だけ四年間も気付かずにいたなんて、まったく阿呆のようじゃないですか」
「プロ忍びが何を腑抜けたことを言っとるか」
 そう言われれば返す言葉もない。ないのだが、しかし利吉の言い分としては自分に気がありそうなくノたまなど数え切れないほどいるわけで、そんな娘たちの顔をひとつひとつ覚えておくなど、さしもの利吉とて到底不可能だった。
 特に名前は目立つタイプではない。よく見れば味わい深い顔をしていると言えなくもないが、一目見ただけで男の目を惹きつけるような美貌や妖艶さは持ち合わせていない。良家の子女揃いのくノ一教室の中にあっては、どうしたって見劣りするというものだ。
 十四という年のこともあるし、名前個人の資質のようなものもある。いずれにせよ、名前は利吉の記憶に残るような顔立ちをしているわけではなかった。それなのにただ利吉を薄情だと断ずるというのは、あまりにも酷な話である。
 如何にも納得していない顔をする利吉を見て、伝蔵が小さく溜息を吐く。
「昔は名前のことも遊んでやってたんじゃないのか」
 伝蔵に問われ、利吉は首をひねった。
「うーん、それがそういうわけでもないと言いますか。いえ、あの家の子どもとは年が近いこともあってそこそこに交流があったんですが、名前とはよっつも年が離れているものですから遊んでやっていたというよりは、勝手に名前が付いてきていたという感じですね。名前の兄姉が遊んでいる最中に名前のことをそう気に掛けてやっていたかと言われると、そういう記憶もなく」
「ほお、そうだったか」
 意外そうな伝蔵の表情が引っかかり、
「なんですか、その顔は」
 と、利吉が突っかかる。伝蔵が苦笑した。
「いや、名前のやつが昔お前に遊んでもらっていたと嬉しそうに話していたものだから、わしはてっきりそういうものかと思ってたんだ。たしかにお前は年下の女の子を相手してやるタイプでもなかったが、親には見せない一面もあるかと思ってな。お前は一人っ子だし……しかし、そういうわけではなかったということか」
「別に邪険にしていたわけでもないですが」
「まあいい。子ども時分の記憶なんて胡乱なものだろう」
 お前も、名前も。そう言って、伝蔵はまたお茶をすすった。すっかり温くなったお茶の水面を眺め、利吉は何とも腑に落ちないものを胸に感じる。
 伝蔵の言うとおり、幼いころの記憶など胡乱であてにならない。それは利吉にも分かる。しかしそれでも、名前が思い出を美化できるほどに利吉のことを知っているとは、利吉にはどうしても思えなかった。名前の姉というのなら、まだ話は分かる。名前よりも年の近い兄や姉とは、利吉もそれなりに遊んでいた記憶がある。
 どうにも釈然としないものを抱えながら、しかしその曖昧模糊とした違和感を正しく伝蔵に伝える自信もない。結局利吉は伝蔵の話に納得したような顔をして、黙ってお茶を啜るしかなかった。

 それから暫し世間話を交わし、利吉は伝蔵の部屋を後にした。今回は明日以降に仕事を抱えているため、伝蔵が溜めた洗濯ものを受け取ることもしない。代わりに馬借を呼ぶよう揶揄うと、伝蔵はむっつりとして利吉を部屋から追い出した。
 職員用の長屋を出ると、迷いのない歩みで利吉は門へと向かう。忍術学園の敷地は広大だが、幾度となく出入りをしている利吉の頭の中には、ある程度の見取り図が完成している。特に正門から職員用の長屋までのルートは最もよく歩くルートなので、今では目を瞑っていても門から伝蔵の部屋まで辿り着くことができた。 
 しかし今日は職員用の長屋を抜けたところで、ふと気分が変わった。たまには忍術学園の中の、普段は寄り付かない場所に立ち寄ってみようと、そう思ったのだ。なぜそのようなことを思ったのか、利吉自身にも理由はよく分からない。しかし日はまだ高く、今日はもう仕事もない。そんな余裕が利吉に気まぐれを起こさせたのかもしれなかった。軽い足取りで利吉は学園内を散策する。
 まっすぐに抜けると門に向かう門を、思い付きで右へ曲がる。決まった時間割で授業をする低学年は授業の真っただ中の時間である。そのためか、思ったよりも学園内は静かだった。時折、鳥の鳴く声だけが大きく響く。
 暫く足の向くままに歩いてゆくと、ひときわ拓けた場所に出た。忍術学園はその周囲をぐるりと高い外壁に囲まれているが、度重なるトラブルのせいで崩れた外壁の補修が追い付いていない部分もある。一瞬、視界の変わりようにそうした抜け道から学外へと出てしまったのかとも思ったが、歩幅と歩数から割り出した距離を考えれば、まだ学園内からは出ていないはずだった。
 目の前には整備された砂地がある。遮蔽物もなく、ただただだだっ広いだけの空間が広がっている。
 ──こんなところ、あっただろうか。
 幾度となく忍術学園に足を運んでいる利吉だが、だからといって学園内の施設と位置関係すべてを網羅しているわけではない。自分は学内の人間ではないという自制心があるから、普段であれば伝蔵の立ち寄りそうな場所くらいにしか近寄らないことにしている。だから学園内に利吉が知らない場所があったとしても、それは何ら不思議なことではない。
 ──何かのために更地にしてあるんだろうか。
 目的や用途が不明のものには好奇心がくすぐられるのはいつものことだ。とはいえ、あまりにも見晴らしがいい場所の真ん中に無防備に近づいていくというのは、忍びの性として抵抗があった。忍術学園の中といえど、まったく危険がないわけでもない。どこから襲われるか分からない生活をしている利吉には、さも狙ってくれと言っているようなお誂え向きの場所にのこのこ出ていくような向こう見ずさはなかった。
 仕方がないので、すぐそばにある手水場の壁伝いに歩いて行こうと、利吉が一歩踏み出しかけたその時。
 利吉の耳に、ふいに長物が空を切るヒュッと高い音が届いた。その音に、利吉は踏み出しかけた足を反射的に下げ、そのまま音もなく一歩後退する。すわ、敵襲か──そう思い、気配を消して壁に背を寄せると、今度は注意深く、そっと物陰から窺うようにして音の聞こえた方向を確認し──そして息を呑んだ。
 そこにいたのは、桃色の忍び装束を纏った見知った少女──名前だった。
 拓けた場所はおそらくくノたまたちの鍛錬場として利用されているのだろう。小柄な名前が身の丈ほどの薙刀を振るい、順繰りに型をつくっている。
 くノ一教室では剣術と同じように薙刀の扱いについても指導しているということは、以前利吉も聞いたことがあった。忍たまたちのように得意武器を決めることこそしないが、くノたまとて武術を修めはする。利吉も以前、くノたまに乞われて火縄銃の練習方法を指南したことがある。
 もっとも、忍びの武器としてはあまりにも長大な薙刀は、どちらかといえば子女の護身術体得を目的として授業の一環に組まれているとも聞いている。くノ一を目指し、すでに五年生まで進級しただけの実力を持つはずの名前がこうして薙刀を振るう理由は、利吉にもよく分からなかった。
 ──薙刀か。
 暫し、ぼんやりと名前の鍛錬風景を眺める。利吉も武器については一通りの心得があるが、薙刀は実戦における不便さから型通りの用法くらいしか会得していない。忍びとしてそこにあるものを武器にとることが鉄則とはいっても、いざという時にすぐに手に取ることができる位置にある武器として薙刀が刀に今一歩劣るのは否めなかった。
 ──まあ刀を振るうよりは、名前っぽくはあるけれど。
 しかしそもそも、名前が武具を取り扱うこと自体が利吉の目には何か不思議な事のように見えてしまうのだ。先日、五年生の尾浜と言葉を交わした際に感じた、今の名前のことを知りたいと言う欲求──その欲求よりも、利吉の中で漠然と形作られている「利吉の知っている名前」とのずれから来る違和感の方が、どうしたって勝ってしまう。
「暑いなか、精が出ますね」
 と、ふいに利吉の背後からやわらかな声が聞こえた。いきなりのことに、利吉がはっとして振り返る。
 そこには白髪のふっくらとした媼が、いかにも人のよさそうな穏やかな笑みを浮かべて立っていた。
「──山本シナ先生」
「ほっほ、驚かせてしまいましたか?」
 茶目っ気たっぷりに微笑む山本先生に、利吉はがくりと脱力する。
「いえ、……まあ、少し」
「利吉さんは素直でいらっしゃる。ですが背後を疎かにしてはなりませんよ。忍術学園の中といえど、まったく安全というわけではありません」
 出会いがしらに早々忍びとしての心構えを説かれてしまった上、それは至極まっとうなものであった。利吉はぐうの音も出ず項垂れる。
 気を取り直し、利吉は姿勢を正した。今日の山本先生は派手な桃色の忍び装束の媼の姿をしている。名うてのくノ一とは分かっていても、その可愛らしい媼ぶりには利吉も多少毒気を抜かれるというものだ。
 その山本先生は、壁ぎわに立つ利吉の隣に寄ると、先ほどまでの利吉の視線の先──相変わらず一心不乱に薙刀を振るう名前に視線を送った。山本先生のその眼差しは、愛する生徒を見守るあたたかさで溢れている。利吉はその視線から、名前が優秀で、大切に育てられたくノたまであることを感じ取った。
「彼女、なかなか様になっているでしょう」
 山本先生がにこやかに言う。利吉も素直に頷いた。
「はい。正直驚きました。私はこう、のほほんとした名前のことしか知らないものですから」
「そういう方の方が多いでしょう。名前ちゃんは穏やかないい子ですから」
 ここでもやはり、名前の評判は尾浜や伝蔵に聞いたのと似たり寄ったりであった。「穏やかないい子」。利吉が名前に対して抱いている印象とおおむね同じである。しかしまだ付き合いの浅い利吉が名前をそう評するのと、四年以上名前の面倒を見ているくノ一教室の山本先生が言うのでは、そこに含まれる意味合いもまた違うだろう。利吉は曖昧に頷きながら、先ほど感じた山本先生と名前の間にある関係について、自分の中で微修正をする。
 ──山本先生が名前に向ける眼差しはあたたかいが、だからといってくノ一に向いていると思っているわけではないのか。
 利吉がそう考えなおしたのは、「穏やかないい子」という評価がくノ一に向いている生徒に対する評価とは、利吉にはどうにも思えなかったからだった。
 利吉の母を見ても分かる通り、優秀なくノ一になるのには時に苛烈ともいえるほどの気迫が必要とされる。忍びと比べれば直接的な戦闘となることは少ないくノ一であっても、死線をくぐることがまったくないわけではない。そういうときに生き延びることができるのは、ただのんびりとした気性の人間よりも烈しさを秘めた人間であることを、利吉はすでに知っていた。
 だから、名前がくノ一に向いているとは思えない──利吉はそう思う。ああして薙刀を振るっていても、そこにあるのは型を忠実に守る技能であり、気迫のようなものはまるで見えてこないのがその証拠だ。
 しかし利吉の思考を知ってか知らずか、山本先生はやはり柔和な笑みを浮かべたまま言った。
「あの子はよいくノ一になりますよ」
「山本先生? それはどういう──」
 利吉の問いに、山本先生は答えない。問いかけを遮るようにして足を踏み出すと、そのまま利吉とともにひそんでいた物陰から抜け出して、ひとりさっさと名前の方へと歩いて行ってしまった。
「おつかれさまです、少し休憩なさい」
 声を掛けられ、名前がはっと山本先生を見る。慌てて薙刀をおろし、ぺこりと頭を下げた。
「山本先生! いつからご覧になられていたのです?」
「少し前からですよ。邪魔をしては悪いから、こっそりと見ていたのだけど」
「声を掛けて下さればよろしいではないですか。先生ったら意地が悪くていらっしゃるんですから」
 ころころと楽し気に笑う女子ふたりの声を聞き、利吉は溜息をつく。出ていくタイミングを完全に見失ってしまった。しかし今日はこれといって名前に用事があったわけでもない。暫しそこで名前と山本先生の会話に耳を傾けていたが、やがて利吉は踵を返すと門扉へと向かって歩き出した。


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