幸福を掴むには柔らかすぎる掌(1)

 伝蔵の部屋を出た利吉がくノたま長屋の名前の部屋へと赴くと、ちょうど名前が自室の障子を、換気のために中から開けたところだった。帰ってきて着替えたばかりなのか、頭巾からはみ出した髪が一部丸まって頭巾の中に引っかかったようになっている。それを見ただけでも、名前が利吉を待たせまいと急いで帰ってきたことが窺えた。
 名前は廊下を歩いてきた利吉に気が付くと、ぱっと顔を輝かせる。額には汗がにじんでいて、そのせいで前髪が額にぺったりと張り付いてしまっていた。利吉は近寄って前髪を払い、頭巾に引っかかった髪もほどいてやる。
「お待たせしてすみません、利吉さん」
 心なしか息も弾んでいる。余程急いで帰ってきたのだろう。そんなところもまた健気なように思われて、ついつい利吉は心を和ませる。
「いや、先に父上のところに寄っていたから。名前は今戻ったところ?」
「はい、今さっき。待ってくださいね、今お茶の準備をしますから」
「ゆっくりで構わないよ。それと饅頭がある」
「お饅頭! さすが利吉さん!」
 飛び上がらんばかりに喜ぶ名前を見て、利吉は苦笑した。かんざしをあげた時にも名前は喜んでいたが、あの時はもっとじんわりとこみ上げるものに感じ入っているような喜び方だった。今のように分かりやすく喜んでくれる方が、やはり贈り甲斐もあるというものだ。
 ──まあ、饅頭なんて私じゃなくても買ってくるだろうし、その点かんざしを贈った人間は私だけだというのは気分がよくもあるけれど。
 てきぱきとお茶の準備をする名前のことを、利吉は座布団にあぐらをかいて無言で見つめる。
 見たところ、今日もかんざしは名前の頭の後ろにきっちり挿さっている。かんざしをつける習慣などないと言っていた名前だが、そこは女子としてきっちりと使い方は心得ているらしい。いや、もしかしたら利吉から折角贈られたものを何とか身に着けようとして、誰かほかのくノたまに上手い使い方を指南してもらったのかもしれないが。
 そんなことを考えながら名前がお茶の支度を終えるのを待ち、淹れたばかりのお茶に口をつける。それから利吉は「ところで」と物々しく口を開いた。
「昼間のあれはなんだ」
 あれ、というのは城ですれ違ったことを言っているのに他ならない。そのくらいのことは名前にも察しが付くので、名前はへらりと眉を下げて頬を掻いた。
「いやぁ、まさか利吉さんとあんなところでばったりお会いするとは」
「それはこちらの台詞だよ」
 何せ身元を偽って入城しているのだ。うっかり名前でも呼ばれようものなら、折角成功裏に終わった忍務もおじゃんになりかねない。
 しかし今の利吉にとっては、一番の問題はそこではない。問題は、何故名前があの場にいたのかということだった。何の事情も知らなかった利吉が肝を冷やしたのも無理はない。普通、その城の忍びがよその忍びを城内に招き入れることなど有り得ないことだ。となれば、何かただならぬ状況なのかもしれないと考えてもおかしくはなかった。
 あの時、名前の様子があまりにも普通だったこと、そして約束を取り消しにしてほしいというような雰囲気もなかったので、利吉もひとまずは何事もなかったように振る舞った。しかしそうでなければ、あそこで大立ち回りが始まってもおかしくない──それほど異様な光景だった。
 ところが利吉の心境など知る由もなく、名前は常の通りにのほほんとした顔で饅頭に手を伸ばしている。利吉からの険を含む視線に口の中の饅頭を飲み込むと、ようやくのんびりと口を開いた。
「何というか、まあ、いわゆる就職活動ですよ」
「就職……?」
 名前の言葉を、利吉は気の抜けた声で繰り返す。はい、と名前が大きく頷いた。
「わたしももう次の春には最上級生の六年ですから。そろそろ卒業後の身辺のことも考えねばならない時期なのですよ」
 言われてようやく利吉も合点がいった。たしかに就職活動というのであれば、そろそろ情報収集を始めてもおかしくはないころだろう。何せ組織だっての忍びの仕事には、その実力もさることながら、信用関係が肝要である。男の忍者とくノ一とでは多少勝手が違うのだろうが、組織に所属する以上はその職場風土や雰囲気を気にするのも当然だった。
 しかしながら、就職活動。
 フリーの利吉にはついぞ縁のない言葉だが、忍びの就職活動とは何とも間抜けな雰囲気が漂う話である。そんなことを考え、しかし目の前には今まさに就職活動中の名前がいるので笑うに笑えず、利吉は奥歯を噛みしめ笑いを噛み殺す。
 と、そこで利吉はふと気が付いた。
「ん? ということは、名前はあの城に就職するのか」
 わざわざ城まで出向いているのだ。その気がなければそこまでのことはしないのではないだろうか。
 利吉があの城からの依頼を受けたのは一度や二度のことではない。いわばお得意様のようなものである。しかし自軍に忍者隊を組織しておきながら定期的に外部の利吉に依頼をするというのは、利吉のような立場からしてみれば、有難くはあれどもあまり信用のできる相手でもない。外部を頼るということは、それだけ内部に信用がならない、あるいは突発的な問題に人員を割けるほどの余力がないといっているようなものだからだ。
 もしも名前があの城に就職を決めようとしているのなら、利吉としてはあまりおすすめはしない。もちろん利吉が仕事を受けているのだから、勢力としては所謂「悪い城」でないことはたしかなのだが。
 利吉の懸念を知ってか知らずか、名前はやはり呑気に首を横に振る。自分で淹れたお茶をずっとすすると、
「それはまだ何とも。今日は採用担当の方とお話しただけなので」
 と、これまた気の抜けたことを言った。
「採用担当って」
 今どきの新人忍びの就職活動状況および諸国の忍者の採用方法がよく分からず、利吉は苦笑して首を傾げた。とはいえ忍術学園の生徒であれば、ある程度は実力も保証されている。「採用担当」と銘打って卒業生をがっちり捕まえる窓口を作るというのは、それはそれで合理的といえなくもない。うっかり町の忍術塾の卒業生を雇ってしまうよりは、余程即戦力の獲得につながることだろう──今日も入門票片手に何もないところで躓いていた小松田のことを思い出す。
 ──いや、まあ小松田くんは小松田くんでほとんど唯一無二みたいな能力があるんだけども。
 忍術学園のサイドワインダーと名高い小松田である。果たしてその尖りすぎた特性が忍者として幅広く応用が利くかといわれれば怪しいが、今のところは適材適所ということで事務員におさまっている。いや、事務員としての適性だって実際にはかなり胡乱なものではあるのだが、それはそれ。
「というか名前、今更だけど本当にくノ一なるんだな」
 本当に今更なことを言い出す利吉に、名前は「まあ、はあ」と曖昧な返事をする。利吉が眉をひそめた。
「……ん? なんだその煮え切らない返事は」
 そう尋ねられ、名前は暫し思い詰めたように手元の茶碗を睨む。やがて、何か心を決めたようにきゅっと一度くちびるを引き結ぶと、名前は茶碗をわきに戻し、腰を浮かせて利吉の方へと身を乗り出した。
「利吉さん、よろしければ進路相談に乗っていただけますか……?」
「えっ? ええと……私でよければ」
 その名前らしからぬ気迫に気圧され、利吉は迫られるままに承諾する。まだ思い詰めた顔で利吉を見つめている名前の顔を見返し、利吉は「この様子だと今日の『ご褒美』はお預けだな」と不埒な思考を遠くへ追い払った。

 さて、と名前は仕切りなおすように、再び姿勢を正す。どこか遠くで鹿威しがカポンと音を立てた。
 こういう時、先に切り出すのは利吉の方だった。
「それで、進路相談というのは」
「単刀直入にお聞きしますが利吉さん、利吉さんはわたしがくノ一向いているとお思いですか?」
 真剣な目をして何とも答えにくい質問をぶつけてくる名前に、思わず利吉は視線を逸らした。その利吉の反応が何よりもの答えである。名前ははあ、と嘆息した。とはいえ、そう落胆した様子もないので、利吉は「おや」と引っかかりを覚える。一口茶を啜ってから、名前は続けた。
「くノ一教室の山本シナ先生には、有難いことに私はくノ一に向いていると仰いました。それももう、入学して一年経つか経たないかの頃だったかと思うので、四年以上前のことになりますが。以来、これでもがむしゃらにやってきたつもりです」
 先ほど利吉の方に身を乗り出してきたのとは打って変わって、静かな声で名前言う。名前の言う「がむしゃらに」というのも、利吉には容易に想像がついた。生来真面目な性質の名前である。恐らくひたむきに、まっすぐにやってきたのだろう。
 利吉も以前、山本シナ先生から「名前はよいくノ一になる」と聞いたことがある。あれはたしか、名前が鍛錬場で薙刀を振るっているのを盗み見ていたときのことだ。まだ名前と恋仲になる前、ただの知己としてしか名前を見ていなかった頃。その頃に、そういう話をちらりと聞いた。その意味を追求しようとして、けれどできなかったことを利吉はぼんやりと思い出した。
 利吉と山本シナ先生はけして親しく言葉を交わす間柄ではない。だから利吉に話しているような話題ならば、当然当事者である名前に話していても何の不思議でもない。その言葉を励みに今日まで名前がやってきたというのも、やはり分からない話ではなかった。
 ──しかし、今ここでその話を持ち出すと言うことは。
 名前の真意を量りかねた利吉は、直截に聞くことにした。
「名前はくノ一になりたくはないのか」
 その問いに、名前は表情を曇らせる。どう返事をすべきか分からないとでも言うように、落ち着きなく視線をうろうろと彷徨わせた。
「……分かりません。ずっとくノ一になろう、くノ一になれるように頑張ろうと思ってやってきた、けど……なりたいのかと言われると、分からなくて」
 これまでくノ一を目指して学んできた、その原動力たる思いには一切の嘘偽りはない。くノ一になろうと思ってこの四年以上を過ごしてきたし、それ以外の進路はこれといって考えてもいなかった。学友たちが次々に嫁ぎ先を決めて退学していくを見送りながらも、名前は心の何処かで友人たちの運命を自分とは無縁のことと思ってきた。
 しかしいよいよ五年の秋を迎え、名前の心は揺らいでいる。漠然と切り捨ててきたものが今になって気になっている。反対に、漫然と取り組んできたものに不安を覚えている。
 夏休みに帰省した先で見た、子をあやす姉の姿──あれがこのところ、名前の瞼の裏にぺったりと張り付いている。これまで一度も顧みることのなかった「幸せ」の形が、今になって名前の心をぐらぐらと揺らすのだ。あんなふうな幸せだって、名前はこの先求めることができる──名前さえ望めば。
 そんな名前を見て、利吉は思う。
 ──女の名前にはふたつにひとつの道しかないんだ。悩むのも無理はない。
 利吉の場合、仕事と安定した家庭生活、その両方を得ようとすることはけして難しいことではない。むしろ家族を持とうと思えばより一層働かなければならず、両立しないことには話にならない。
 しかし女の名前はそうではない。結婚すれば、遅かれ早かれ子を生すだろうし、そうなれば生み育ててゆかねばならない。手仕事や商家を切り盛りするのと違い、くノ一は子連れで働くことなどできない。
 ふたつにひとつ。
 どちらかを取れば、どちらかを失う。
 利吉に名前の心境は分からない。利吉は忍者になることを迷ったことなどなかったし、迷う必要だってなかった。才能もあり、環境に恵まれ、人にも恵まれた。忍者以外になりたいと思えるものも、したいと思えることもなかった。だから名前の心境は想像するしかないのだが、それにしたって適当な事を言って済むほどに軽い話ではないことくらいは分かる。
 名前の食べかけの饅頭は、半分残ったまま一向に減らず、忘れられたように皿の上に載っている。普段あれほど食い意地が張っている名前が饅頭を食べることも忘れて悩んでいるのだ。名前にとってみれば何とも業腹な判断基準だが、やはり生半なことではないのだと利吉は改めて確信した。
「そもそも、名前はどうして忍術学園に入ろうと思ったんだ?」
 再び利吉が問う。最終的な結論がどこに辿り着くかは別としても、くノ一になりたいかなりたくないかを論ずるのであれば、まずは事の起こり──つまり忍術学園に入学することになった経緯まで遡った方が分かりやすい。そうして順序だてて感情を整理していけば、やがては何か核心に触れることもあるかもしれない。
 利吉の問いの意図を察し、名前は記憶を探るように視線を天井へと遣った。
「入学しようと思ったのは……ええっと、実は親戚にここの卒業生がいるんですよ。おじなんですけど。それで昔から忍者になるための学校があることは知っていましたし、くノ一教室という女子のための学び舎があることも知っていました。それで、わたしがそこに入学しようと思ったのは……」
「思ったのは?」
「あの、自分でも本当に浅はかだとは思うんですけど……、家を出たかったんですよね」
 心底恥じ入るように言われ、利吉はぽかんと名前を見つめた。名前の故郷は紛れもない田舎である。だからほかの多くのくノたまたちのように、親の勧めで忍術学園に入学したとまでは利吉も思ってはいなかったが、だからといってまさかそのような理由で忍術学園入学を決めていたとは思いもしなかった。
 利吉の目から見える名前は、ある程度しっかりはしているものの主張は控えめで、どちらかといえば長たる人物の決定に諾諾と従う娘である。とてもではないが親元を離れたいがゆえに全寮制の学校への進学を希望するような、思い切った性格には見えない。
 実際、名前本人も柄にもないわがままを通した自覚がある。だからこうして利吉に話すのにも、恥じらいというよりはただただ恥をかいているような顔でいるのだ。
 それでも、名前は自らのその選択を後悔したことは一度もなかった。つい最近まで、正しい選択をしてきたと信じて疑わなかった。
「あそこにいたら、わたしは多分お嫁に行くまで家にいて、お嫁に行ったらそこの家を守って……折り目正しく単調に、その生活が正しいとか間違ってるとか、そんなことすら考えずに漫然と日々を生きていく──そんなふうに、なあなあに一生を終えることになる気がして。あっ、でももちろん、そういう生き方が悪いとは思わないです。わたしの姉だって、そうやって嫁いでいった先で今は幸せに暮らしているし、多分、そうやって生きていく人の方が大多数なわけで、そしてそれは多分、尊いことでもあって」
 名前の田舎のあたりは、忍術学園の周辺と比べると良くも悪くものどかである。戦乱は遠く、人々は日々を淡々と営んでゆく。時にはドクタケが山岳部設立だなんだと乗り込んできたりもするが、基本的には生活は守られていることの方が多い。
 淡々と代わり映えのしない毎日を送ることは、この時代においてきっと何にも勝る幸福なのだろう。名前はそう思う。いつ病が、戦火が、飢えが人々の生活を襲わないとも限らないのだ。その恐れを少しでも遠ざけて、生まれ、生きて、生んで、育てて、そして死ぬ。それが簡単なことではないことくらい、十四にもなれば嫌でも理解する。
 何より忍びの仕事は、そうした人々の生活を守る仕事でもある。戦禍を最小に止め、無益な殺生を避けるべく奔走するのも忍びの仕事のうちだと、名前はそう思う。利吉を見ていて、さらにその思いを強めてもいる。
「だけど、わたしは外の世界を見てみたかったんです。氷ノ山の家だけじゃない、もっと広い世界。そのためには家を出る理由が必要で……それで。でも、もちろん卒業まで通わせてもらうからにはきちんと学びを修めて、手に職つけて働くつもりですけれども」
 しかしそれがくノ一である必要はあるのだろうか。くノ一を養成する教室に身を置くからと言って、みんながみんなくノ一にならないことを名前はこの四年以上の間に嫌というほど知った。さすがに六年で卒業した先輩たちはくノ一として身を立てる道を選んだが、それだって強制されてそうなるわけではない。卒業した後のことは、すべて名前の意思に任されている。
「だから、就職活動をするにあたって自分がどうすべきか、どうしたいのかが分からなくなってしまったと言いますか……こんなふうに悩むことができるという時点で、わたしはきっと、すごく恵まれているとは思うんですけど……如何せん最初の動機が不純だったもので」
 果たしてくノ一に不向きとしか思えない自分が、くノ一になったところでひとかどの人物になれるだろうか。いや、たとえそこまでの高みを目指さないとしても、雇い主から求められた仕事をきっちり過不足なくこなせるだけの実力あるくノ一になれるだろうか。
 ──そんなくノ一に、自分は果たしてなりたいのだろうか。
 思考はぐるぐると同じ場所を回り続け、何処かにええい、と一歩踏み出すこともない。さながら自分の尾を追いかけまわす犬のような生産性のない悩みは、しかし犬の愛らしさとは異なり名前の心を和ませるどころか鬱々とさせるばかりである。
 どうしたものかときっぱりとした答えも出ず、名前は深々と溜息をついた。
 と、溜息を吐き出しきったところで名前は気付く。先ほどから話しているのは名前ばかりで、利吉はもうずっと一言も発していないのだった。
「利吉さん……?」
 もしかして、呆れられてしまったのだろうか。そんな懸念が名前の胸を掠める。恐々と利吉の名を呼べば、利吉は「え? ああ」とぼんやりした返事をした。利吉らしくもない。
「ええと……もしかして、私の話がしょうもなさすぎて呆れ果ててしまった、とか……?」
「いや、そうじゃないんだ」
 利吉は苦笑まじりに答えた。「ただ、ちょっと驚いたんだよ。君はもっと堅実で、野心なんか少しもないおっとりした娘だと思ってたから」
「ええ……? そうなんですか……?」
「ああ」
「いえいえ、そんなまさか。だってわたし、これでも実家ではじゃじゃ馬扱いされてるんですよ。昔、兄や姉に混ざってわたしが山を駆け回っていたのをお忘れですか?」
「たしかに、それもそうだ」
 実家での名前を思い出し、さもありなんと利吉は納得する。おっとりとしているのは確かだろうが、だからといって名前は利吉が思うほどに穏やかな気性の娘ではないのかもしれない。決まりきった一生など嫌だと自分の意志で家を飛び出し、良家の子女ばかりの環境で不慣れな言葉や生活に四苦八苦して、それでもどうにかこうにか五年生までこぎつけた──名前とはそういう娘である。ただ呑気で穏やかなだけの娘のはずがないのだと、今更利吉は気付く。
 自分の中に形成されていた名前像を微修正し、利吉はふうむと頷いた。そんな利吉のことを、名前が不安げに見つめる。
「……もしかして利吉さん、ちょっとがっかりしました?」
「えっ、なんで?」
 沈んだ声で尋ねられ、利吉は驚き尋ね返した。その声に、名前がさらに、
「だって利吉さん、おしとやかな女の人が好きそうだし……!」
 と言葉を返す。
「待て待て、誰もそんなこと言ってないだろ。名前の知らない一面を見られて嬉しいなと思っただけだよ」
 もちろん今の名前は、利吉が最初に抱いた印象とは多少ずれている。利吉が最初に名前に抱いた印象は先ほど利吉自身が口にした通りの堅実でおっとりとした娘である。
 だからといってその「ずれ」が落胆に繋がるかと言われれば、必ずしもそうではないだろう。利吉は常々、名前と疎遠だった期間のことを惜しいと感じており、少しでも名前のことを知りたいと思っている。こうして名前の新しい一面──利吉が知らなかった名前を知るのは、単純に面白い作業である。
 ──それに、名前が思った以上に強情な娘だったとして、それで嫌いになれるほど私の気持ちは軽いものでもない。
 利吉の中にくすぶる感情の重みは、利吉自身が一番よく思い知っている。むしろこの感情の重みを名前に知られ怖がられることの方が、利吉にとっては余程有り得そうな未来に思えた。
 ──本当は、くノ一にならなくたっていいんだよと、そう唆(そそのか)してやりたくて仕方がないんだよ。
 そんな思いを胸に秘めたまま、利吉はまだ取り乱している名前の頭をやさしく撫でた。


prev - index - next
- ナノ -