名残夏(1)

 三者三様の表情を浮かべてはいるものの、この場における全員が戸惑ってはいるという点においては、おおむね共通していた。しかしこういった場合、最初に我に返るのは最も経験値が高い者である。伝蔵は年の功から一番最初に我に返ると、ごほんと大きく咳払いをした。その慣れ親しんだ咳払いの音に、遅れて名前と利吉もはっとする。
 ふたりが顔を見合わせ、それからまた、揃って伝蔵に視線を戻す。名前と利吉が正気に戻ったのを確認してから、伝蔵は重々しく口を開いた。
「お前たち、これはどういうことか説明してもらおうか」
 さながら悪事のばれた生徒を叱る教師のような物言いである。普段からそうして叱られる下級生を見る機会の多い名前は、反射でひゃっと首を竦めた。今にもマラソンを言いつけられそうな気分になる。しかし利吉の方はといえば、そうしたお叱りには幼いころから慣れている。
「どういうことと言いますか、まあ、こういうことです」
 あくまでも堂々と、そう言い放った。その開き直りともとれるような態度に、再び伝蔵がわなわなと震える。伝蔵にとって、名前は名前の親から預かった大切な「生徒」である。その生徒の行いについて不適切であると思われることがあれば、正しく指導しなければならないと考えるのは、教師として当然の思考であった。
「お、お前……」
 ほんの数間離れただけの距離で父と息子を、はらはらとして名前は見つめる。あわや一触即発というところまで空気が最大限に張りつめたとき、満を持して名前が口を開いた。それと同時に立ち上がり、勢いよく伝蔵に向けて頭を下げる。
「すみません、山田先生! 大切な息子さんを……」
「名前、それはどちらかというと私が言う言葉だから」
「いやっ、でも私なんかより利吉さんの方が大切なお子さんという感じですよ!」
「そもそも私、もう『お子さん』って年でもないからね」
 ごほん、と再び伝蔵の咳払いが響く。名前と利吉は顔を見合わせるが、結局、利吉がふたりの代表として口を開くことになった。
「ともかく、こういうわけです」
 それだけ言えば十分だった。妻子と離れて暮らし、浮いた話題のひとつもない伝蔵ではあるものの、さすがに妻帯者だけあってその辺りの機微には聡い。先ほど見た、今にも口づけしそうな距離の若い男女の姿から、ふたりの間柄を連想できないほどに抜けてもいない。
 伝蔵は苦々し気にふたりを見る。もちろん伝蔵とて若い男女のことをとやかく言いたくなどないのだが、何せ利吉の相手は名前なのだ。それこそ大切なよその娘をあずかる教育者としての立場から、苦言を呈さないわけにもいかない。
「いつからだ」
 伝蔵の問いには、やはり利吉が答える。
「ほんのつい先日……私が忍術学園にお世話になっていた期間の、その最後の日です」
「そうか……」
 その頃のことを思い返し、伝蔵は低く呻いた。
 伝蔵が何かにつけて利吉のもとを見舞っていたのには、当然無理をしがちな息子の体調を心配する親心もあったものの、それとは別に利吉が必要以上に生徒と近しくなっていないか──より具体的に言えば、くノたまと親しくしていないかを確認する役割もあった。
 利吉のことは信用も信頼もしている伝蔵だが、反面、利吉が年ごろの娘には目に毒なほどに魅力的な青年であることも知っている。そのルックスを利用して仕事を円滑に進めることが少なくはないことだって、知っている。ゆえに日常の些細な所作にすら、無意識のうちに女を誑かす要素が潜んでいることだって十分にありうることだというのが、忍びとして、また父としての伝蔵から見た利吉の評だった。
 静養する利吉の世話役を名前が買って出たと聞いたとき、伝蔵はひそかにほっとした。名前に対しては何の感情も抱いていないことを、伝蔵はそのほんの数週前に利吉本人の口から聞いていた。
 ──だから油断した。まさかそれほどの短期間に名前と利吉がどうこうなってしまうことなど、想像もしていなかった。
「たしかに、利吉の面倒を名前がよく見てくれていたという話は聞いておる。そのことについては有難いとも思っている。しかしなあ……」
 やはり苦い顔をする伝蔵に、名前は一瞬不安げな表情を浮かべた。それを見た利吉は、視線を険しくして伝蔵に問う。
「父上は反対ですか。私と名前が──恋仲になることに」
 そのあまりにも直截的な物言いに、伝蔵は思わず息を呑んだ。
 ──利吉がこうもはっきり物を言うのは珍しい。
 どちらかといえば、飄々としてうまく相手を煙にまくのが普段の利吉である。さすがにそんな小賢しさを親にまで見せることはなくても、あくまで冷静に利口に振舞うのが利吉らしさのようなものだと、伝蔵はそう思っていた。
 正直に言えば、諸手を上げて賛成とはいえない。それは名前の人柄や利吉の仕事の問題などではない。当人同士でもどうにもならない──あるいはまだ気が付いてすらいない、そういった俯瞰の立場でこそ見える類の問題ゆえの不都合のためだった。
 しかし目の前の利吉を見るに、やはり利吉も名前もまだそういった問題に思い至る段階にはないのだろう。挑むような目つきの利吉に、伝蔵は深く溜息をつく。
「なにも反対するとは言っとらんだろう。むしろお前がようやくひとりの女子に心を決めてくれたことに、安心しているくらいだ」
 そう言って、伝蔵は視線を利吉から名前へと移す。
「しかし名前、お前は利吉でいいのか」
 名前はやはりまだ不安げな表情を浮かべ、伝蔵からの視線を自信なさげに受け止めていた。伝蔵の厳しい言葉に、ぎくりと表情をこわばらせている。小さく肩が揺れたのを、目敏い伝蔵は見逃さなかった。畳みかけるように言う。
「わしが言うのも何だが、こやつは仕事一辺倒で遊びに欠ける。碌に休みをとろうとしないし、家にだって寄り付かん。その上忍者の仕事の性質上、隠し事も多い。確実に苦労するぞ」
「いや、父上にだけは言われたくないのですが……」
「馬鹿者、わしだから言えるんだ。忍者としても男としても、わしはお前よりずっと先輩だ」
 はっきり言われ、利吉は首を竦めた。伝蔵の言い分にも一理あるからだ。
 利吉の母は元くノ一である。くノ一、あるいはそれに準ずるものと、忍者が恋をする──ただ利吉と伝蔵が同じ忍びという職についているというだけではない共通点が、今の利吉と伝蔵の間には存在していた。あらゆる意味で自分と名前の先輩である伝蔵の言葉を無下にするわけにもいかない。
 となれば、後は伝蔵に問いかけられている張本人である名前が答えるのを待つことしか、利吉にはできることはない。それを分かっているから、伝蔵も敢えて名前に問いかけているのだろう。名前はおどおどとしながらも、黙って伝蔵の言葉に耳を傾けている。
「忍びの男を相手にすることは、恐らくはお前たちが思っている以上にままならんことだぞ。ほかのくノたまを見てみろ。一時のことであれば話は別だが、最終的に忍びを伴侶に選ぶのがどれほど残る?」
 厳しい意見だが事実でもある。利吉は知らず、手のひらをぎゅっと握りしめた。忍びの仕事ゆえに家になかなか帰らない父と、その父に振り回される母の姿を利吉は長年見ているのだ。伝蔵の言葉がただの脅し文句でないことは、誰より利吉がよく分かっている。
「わしは名前のことは一年の頃から知っている。一時の遊びで利吉を選ぶような娘じゃないことも知っている。だからこそ思うのだ。名前、お前は本当に利吉でいいのか?」
 名前はじっと、身じろぎひとつせず伝蔵の言葉を聞いていた。伝蔵が深い意図なくこんなことを言うはずもない。彼は恐らく、親身になって名前の身の心配をしてくれていた。まだ若い──幼いとすらいえる名前が、軽率な判断をして道を違えないように、教育者として年長者の目でもって名前に問いかけている。
 その真摯さに、生半可な返事を差し出すことなどできるはずがない。
 名前はひとつ、大きく息を吸う。先ほどからの緊張と沈黙でかたくなった肺腑を、めいっぱいに広げて空気を取り込むと、ぐっと目に力を込めて伝蔵を見た。
 心臓はどきどきと、うるさいくらいに鳴っている。けれどここで、これ以上不安そうな顔や物怖じした表情を見せるわけにもいかなかった。
「たしかに──たしかに、わたしはまだプロの忍びがどうあって、どう生きていくものなのかを正しく知っていないのかもしれません。わたしはくノたまで、たまごで、五年生で、まだ本格的な実習にも入っていないひよっこです。山田先生や利吉さんが身を置かれている世界の、ほんの端っこを垣間見ているだけに過ぎないのかもしれません」
 プロの忍びである伝蔵を相手に心を偽ることは無意味だ。どのみち嘘や見栄をつきとおしたところで、遠からずそれらが看破されることは目に見えている。半人前の名前にできることがあるとするのなら、それは唯一、自分の心に正直にある──それだけだった。
「山田先生のおっしゃることは正しいのだと思います。わたしは多分、まだ何も見えていないし、何も分かっていない。それでも、わたしは利吉さんに好きだと言っていただけて嬉しかったですし、わたしも利吉さんのことをお慕いしております。それでは、それだけでは駄目なのでしょうか……」
 拙い言葉は、そんなふうにして語尾を曖昧にしたまま伝蔵へと投げ返された。拙く、そして幼い。伝蔵のように理に照らして語られているわけでもなければ、理をものともしないような屁理屈がこねられているわけでもない。
 しかし時として、そうした拙い──感情をまとめきらなかった稚拙な言葉が心を動かすこともある。ともすれば賢しらで隙のない言説より、余程胸を打つことだってある。
 今がその時だった。伝蔵の教師として、忍びとしての意見を折れさせることまではできずとも、少なくとも名前が真剣に考えた末に利吉の手をとったことだけは、正しく伝蔵に伝わった。
 名前の言葉に心を揺すられたのは伝蔵だけではない。名前の隣の利吉もまた、名前の嘘偽りのない掛け値なしの本音に心を揺さぶられていた。
 思えば心が通じ合ってからというもの、ここまではっきりと名前に胸の内を率直に伝えられたことはない。氷ノ山までの道中でそれらしきことを聞く機会はあったものの、それはどちらかといえば今の名前の状況を端的にあらわしただけのものだった。もちろんそれはそれで利吉にとっては嬉しい話ではあったのだが、今こうして聞かされた名前の本音と比べればずっと可愛いだけのものだった。
 今、名前が口にしているのは気持ちをあらわすだけの言葉ではない。それは言い換えれば覚悟の言葉だ。まだ恋仲となって間もないながらも、くノ一の端くれとして決めるべき覚悟。忍びの利吉と結ばれるにあたって決めねばならない覚悟。それらの話を名前はしている。
 そんな言葉を聞かされて、利吉がただ黙っていられるはずがない。
「父上、私も名前と同じ気持ちです。私は名前を大切にしたいと思っていますし、大切にする覚悟も決めています。それに父上は何だかんだといっても母上と睦まじくしておられる。私は父上と母上を見て育ちました。忍びが誰かと添うことのままならなさも、うまくやっていくための努力の在り方も学ばせていただいたつもりです」
 息子からの意思表示を受け、伝蔵は思う。覚悟などという言葉を軽々しく口にして、それが覚悟の甘さの何よりもの表れである──そう思ったことをはっきりと言えてしまえば、きっと簡単だったのだろう。十八になって、一端の忍びとなって──しかし、まだまだ心の底から大人と呼ぶには、利吉は世間を知らなさすぎる。忍者とくノ一の色恋がそこまで甘いものではないことを、利吉はまだ知らない。その辛苦を受け容れ呑み込めるほど、まだ人としては成熟しきっていない。
 それでも──
「……まったく、口ばかり上手くなって敵わんわ」
 そう吐き出して、伝蔵はひとつ大きな溜息をついた。視線を地面に落とすと、名前の足先が言葉とは裏腹に自信なさげに内側を向いていることに気付く。その無意識のうちの弱気を見て、伝蔵はふっと苦笑する。
 教え子と息子にここまで言われ、それを一顧だにせずにいられるほど、伝蔵も非情ではない。熱と心のこもった言葉を聞けば、それに胸を打たれるくらいには人情にも重きを置いている。それはただ仕事をこなすだけではない、子どもを相手に教鞭をとる生活に長くなじんだ弊害でもあった。
 再び視線を名前と利吉に戻す。見るといつの間にか、利吉の手が名前の手をぎゅっと握っていた。その臆面なさに一瞬ぎょっとしてから、伝蔵はものものしく咳払いをした。
「お前たちの言い分はよく分かった。ひとまず名前、お前はもう家に帰りなさい。じきに日が暮れる。利吉はわしと一緒に来い」
 有無を言わさぬ物言いだが、声に険しさはない。名前はほっとした顔で、
「はい」
 と浅く頷いた。利吉も頷く。名前を帰して伝蔵とふたりで話をする方が、利吉にとってもずっと気が楽だった。いちいち隣の名前を心配していては言い返せるものも言い返せない。
「それでは失礼いたします。利吉さん、また明後日」
「ああ、また明後日」
 名残惜しくはあるが、明日になればまた会える──とぼとぼとひとり山をくだる名前の背中に視線を注ぐ利吉を、伝蔵は呆れたように見つめた。


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