幸せに手を伸ばした

 忍術学園の夏休みが始まって一週間ほど経った頃、遅ればせながら、ようやく名前も夏休みに入った。新学期の演習・実習の準備も滞りなく片付き、おまけにその頑張りの報酬として学園長からの寸志も出たことで、名前の表情は明るい。きり丸ほどの守銭奴ではなくても、一応は苦学生の部類に入る名前が褒美や報酬というものに対し、人並み以上に魅力を感じているのは紛れもない事実である。休み前にもらった団子屋のアルバイト代と合わせ、にわかに暖かくなった懐を嬉しそうにおさえ弾むように歩く名前を、利吉は隣を歩きながら微笑ましく眺める。
 ふたりは今、氷ノ山の自宅へと帰郷する、その道中である。
 利吉が名前に思いを打ち明け、名前がそれを受け容れてから、まだそう日は経っていない。利吉は体調が全快したことを機に忍術学園を辞しており、名前と顔を合わせるのもあの日以来だった。今こうして隣を歩いているのは、名前が今日この日に帰郷のために学園を出ると、事前に名前に聞いていたからである。名前と利吉では郷が同じ上に、利吉も今は仕事の量をセーブしている。折角なので一緒に氷ノ山まで帰ることにしたのだった。
 道はすでに町を離れ、人の往来の少ない田舎道へと景色を変えている。すぐわきには川が流れ、涼し気なせせらぎの音を聞かせていた。
 名前の夏用の小袖は生成りに模様が入ったものであり、淡い色合いが太陽の陽を眩しく反射している。利吉はうっすらと目を細め、名前を見た。
 ──こうして一緒に歩くことはこれまでにもよくあったことだけど、距離の取り方に悩みのははじめてだな。
 すぐ隣でつかず離れずの距離を保ったまま歩く名前を見て、利吉はぼんやりとそんなことを考えた。
 これまではただの知り合いだったがゆえに、却って名前との間に持つべき余地や距離については無頓着でいられた。無意識のうちに開いた距離をそのまま信じ、漫然と従っていさえすれば万事それでよかった。
 しかし今は違う。利吉が気持ちを打ち明け、名前はそれを受け容れた。言葉にこそしていないものの、利吉と名前は世間でいうところの恋仲ということになっている──はずである。
 ──しかしその割には色めいた雰囲気も、浮ついた空気もないし……。もしかして、付き合っているわけではないんだろうか。
 にわかに過ぎる不安を「いやいや、そんなまさか」と何とか宥めすかしてみるも、しかしその可能性はけして無視できるものではなかった。
 普通に考えれば恋仲になっているはずの遣り取りを交わしているとはいっても、それはあくまで「普通に考えれば」の話である。世間一般で言うところの「普通に考えれば」であり、また利吉がこれまで接してきたおなごにとっての「普通に考えれば」である。
 しかし色恋のことに関してはくノたまとは思えないほどにとんと生ぬるい名前には、「普通に考えれば」などという思考すらないという可能性は大いにあった。少なくとも、利吉がそれを疑うのも無理はないほどに、名前はそういったものとは無縁の場所で、呑気に生きている。何せくノたま五年生になるまで浮いた話のひとつもないような娘である。その鈍さたるや、女には困ったことのない利吉が扱いあぐねるほどであった。
 と、ふいに名前が利吉の袖を引く。背の高い利吉の視点からでは日除けに笠をかぶった名前の表情ははっきりとは見えないが、何となく機嫌がよさそうなことだけは、覗いた口元から察することができた。
「暑いですねえ。もう少しいったらお茶屋がありますし、一休み入れますか?」
 利吉が黙ったのを暑さのためだと思ったらしい。そんな提案をする名前に、利吉はゆるりと笑って首を振る。
「いや、大丈夫。それより日暮れまでに旅籠につくよう急ごうか」
「利吉さん、いつも旅籠にお泊りになられるんですか?」
「え? まあ、季節にもよるけど」
 もちろん夜通しでも歩いて家を目指すこともあれば、旅籠に一泊してのんびりと帰郷することもある。その時の天候と気分次第だが、夏場であれば夜でも構わず歩くことの方が多かった。旅籠に泊まろうと提案したのは、ひとえに今回の帰郷が名前との道行きだからである。くノたまの名前に夜通し歩くように強いるほど、利吉は鬼ではない。
 しかし利吉は忘れていた。利吉がいくら鬼ではなくとも、くノたまである以上は普段から、名前は鬼神がごとき教員にしごかれて育っている。
「別に、夜通し歩くのも野営も平気ですけれども。私がひとりで帰省するときにはいつもそうしていますし」
「えっ、そうなの?」
「はい。旅籠も安くはないですから。安普請でおちおち眠れないようなところに泊まるくらいなら、自分で安全そうな場所を見つけて野営しますよ。廃寺もおんぼろ旅籠も大差ないですし」
「さすがにくノたまだな。逞しい」
 ここで危ないだろうに、などと言ってやる精神を、生憎利吉は持ち合わせていない。半人前とはいえくノ一教室五年生の生徒を相手に、そのような女の子扱いをしても失礼にあたるだけだということは重々承知していた。
 とはいえ、今日はふたりである。利吉としてもそう急いで帰りたいというわけではなく、どちらかといえば名前との道中を楽しみたい気分が勝る。
「でも今日は旅籠に泊まろう」
 そう提案すると、名前は素直に首肯した。名前とて、好んで野営をするわけではない。利吉とふたりである分料金も安く済むし、出掛けにもらった寸志もある。そうかつかつ倹約する必要に迫られているわけではなかった。
 話がまとまったところで、再び先を急ぐ。しばらく、黙々と足を動かした。利吉は名前のペースに合わせているものの、そうそのペースに大差があるわけではない。さすがに山育ちとあって、名前の脚力もそれなりのものである。
「見た目よりずっと体力があるんだな」
 歩きながら利吉が言うと、名前が嬉しそうに顔をほころばせた。
「そりゃあもう。団子屋での私の働きぶりをご存知でしょう」
「そこは忍術学園での成績とか言うところじゃないのか」
「成績の方は、まあ、そこそこですけども」
「正直者め」
「悪くはないのでいいんです。十分及第点ですから」
「それは知ってるよ」
 よほど利吉との会話が楽しいのか、名前は声を立ててころころと笑う。長旅のために足元に無駄な動きこそないものの、これが常のように学園の中などであれば、身振り手振りまで大袈裟についていたところだろう。十四の娘としてはいささか子供っぽくもあるが、利吉にとってはその飾らなさも可愛らしく見える。
 ──しかし何だ、もう少しいい雰囲気になってもいいとは思うけど。
 先ほどと同じことを考えてしまい、うっかり溜息をついた。
 この屈託のなさ、やはり名前の方には利吉と付き合っているつもりはないのかもしれない──と、そんなことを思っていると、
「それにしても久し振りの実家です」
 名前が再び口を開いた。話すと喉が渇くとは分かっていても、ついつい楽しくなって話してしまうらしい名前の様子に、利吉は苦笑する。自分が笑われていることにも気付かずに、名前は続けた。
「利吉さんはご実家に帰られるのはどのくらいぶりですか?」
「私は初夏のころ──ちょうど君と再会する前に一度帰っているから、そう久し振りでもないよ」
 その帰省のときに利吉は母から名前の話を聞き、現在に至っている。発端は名前の母がうっかり娘が忍術学園の生徒なのだと口を滑らせたことだが、結果的にはそのうっかりが利吉と名前の縁を結んだと言えなくもないのだから、世の中何が起こるか分かったものではない。
「だからこの夏はもう帰るつもりはなかったんだけどね」
「あら、そうだったのですか。それなのにわざわざ付き合わせてしまって、どうもすみません」
 申し訳なさげに頭を下げる名前に、慌てて利吉は首を振る。
「ああ、いや、構わないよ。母上にもちょくちょく帰ってくるよう言い渡されているし、父上ももうじき仕事の目途がつくから帰れそうだと言っていたしね」
 休み中はきり丸を預かっている半助と違い、伝蔵は休みだからといって自宅に戻らなければならない理由もない。は組関連のこまごまとした仕事を半助の代わりに請け負っていることで休みに入るのは遅れているが、伝蔵もこの夏休みは久し振りにまとまった休みがとれる見込みが立っていた。名前や利吉と一緒にとはいかないが、一日か二日遅れで氷ノ山に帰る予定になっている。
「それでは久し振りの一家団欒なんですね」
 日ごろ何かと伝蔵の世話になっている名前も、この報告には嬉しそうな声を上げた。利吉はその返事に微笑み、「そうなるかな」と答える。
 こうして一緒に実家を目指し歩いていても、名前と一緒であれば大した疲れはない。身体的な疲労はもちろんあるが、今ここで利吉が考えていたのは、精神的な疲労感についてであった。
 フリーの忍者として個で動くことに慣れ切っている利吉だから、本来は誰かと道行きを共にすることは不慣れである。何事もそつなくこなすだけに、随伴する者があっても適当に相手を楽しませることはできるが、本音をいえば利吉はひとりで行動する方が気が楽だ。そもそも一緒に行動しても寝首をかかれないという確信を持てる相手は少ない。一年は組のよい子たち相手であればそうした気苦労はないが、反面別の徒労がある。
 女と行動を共にするのでも同じだった。何かにつけて面倒なことの多い女との道行きを、利吉はあまり好まない。護衛対象など仕事が絡んでいればまだ我慢もできるが、私生活であれば極力その場限りの関係しか持たないようにしているのは、そもそも「行動を共にする」「そばにいる」ことを億劫に感じる相手がほとんどだからに相違ない。
 その点、名前はそういった気苦労とは無縁である。名前自身、利吉を前に取り繕おうという気構えを一切持っていない。それもそれで女子としてどうなのかと利吉は思うが、少なくともやたらと猫を被られるよりはずっとまし──ましではあるのだが。
「それにしてもあっついですねぇ……。こう暑いと、そこいらの川にざぶんと飛び込んでしまいたい衝動にかられます。いっそ川が逆流してくれたら山の上までそのまま流れていけるのに」
「この川、氷ノ山が源流ではないと思うよ」
「そうなんですか……川が辿り着く先は海と相場が決まっているんだから、すべての湧水は氷ノ山ということにしてもいい気がしますけど」
「よくはないだろうね」
 ふうん、と口を尖らせる名前を見て、利吉はそっと溜息をついた。
 猫をかぶられるのも面倒だが、だからといってここまで呑気な雰囲気なのもいかがなものだろうか。そりゃあ利吉は名前の呑気でのほほんと気楽なところを気に入っているのだが、だからといって恋仲になった以上、朝から晩までこの調子でいられてはそれはそれで困る。時にはそれなりに心ときめく雰囲気になってもらわなければ、男女一組まとまったばかりの楽しい時期の空気を味わうことすらままならない。
 ──そんなことを名前に求める方がどうかしているような気もするけれど、それもこれも男の「さが」だしなあ。
 そしてまた、そういう雰囲気にならないというのならば、無理にでもそういう雰囲気をつくることは利吉にとって男の仕事であった。幸い、今晩は旅籠に一泊するのだ。さすがに付き合ったばかりで手を出そうとは思わないが、距離を詰めるくらいならば許されるだろう。いや、場合によっては手を出すこともやぶさかではないのだが。
 そんなことを考えながら歩いていると、思考が反映されていたのか、利吉はいつの間にやら自分が随分と名前のそばをぴったり沿うような位置取りをして歩いていることに気付く。歩いている間にだんだんと名前の方に寄っていってしまったのだろう。最初は往来がないのをいいことに道の真ん中近い場所を歩いていたはずが、気付けば名前は、道の端っこぎりぎりを歩いていた。すぐわきには川が流れており、名前はもう川に落ちる寸前の縁をおそるおそる歩いている。
「すまない、考え事をしていたら随分寄っていたね。そんな縁を歩いたら落ちてしまうよ」
 そう言って利吉が、道の真ん中に寄りながら名前の手を引こうとする。しかし手を伸ばした途端、
「えっ、あっ、あの」
 と、名前が慌てた声を出した。弾みで名前の身体が大きく傾いで、上体がぐらりと川の方へと傾く。
「あっ、わっ!?」
 反射で名前が腕を伸ばし、その手を利吉が慌てて引く。すんでのところで川に落ちずには済んだものの、利吉があまりにも思い切り腕を引いたことで体勢を崩した名前は、川べりの草叢にほとんど突っ込み──結果、頭から転ぶようにして蹲っていた。
 ──というか今、完全に腕をはじかれたな……。
 茫然として、利吉は今しがた名前の手をとったはずの腕を見た。そこには跡こそ残っていないものの、名前の爪が掠めたのであろう細くするどい感覚が残っている。
 利吉が腕を引いたのだから、本来であれば名前の身体はそのまま利吉の方に飛び込んでくるのが普通である。しかし名前は今、何故かひとりで草叢に蹲る羽目に陥っている。その理由は単純で、体勢を立て直した名前が、思い切り利吉の腕を振り払ったからに他ならなかった。結果、身体をひかれた力の行き先を見失い、草叢に蹲っている。何とも間抜けな図だった。
「……大丈夫?」
 その名前はといえば、利吉の声にびくりと肩を震わせて、それからようやく頷き顔を上げた──しかし利吉に向けられたその顔に、利吉は再び茫然として言葉を失った。
 見ると、名前は耳まで顔を真っ赤にしていた打ち震えていた。笠の陰になっていても分かるその赤面ぶりは、けして暑さのせいだけではないと確信が持てるほど、いっそ清々しいほどに真っ赤である。身のこなしに長けたくノたまでありながら川に落ちかけたという羞恥の気持ちもあるのだろうが、その赤面の最たる理由を、まさか色恋に関しては百戦錬磨の経歴を持つ利吉が見抜けないはずがない。
 ──あれ、これはもしかして。
「名前、君──」
 すっかりへたり込んだ名前に手を差し伸べる利吉を、名前はぎゅっと唇を噛んで見据える。見ようによっては威嚇しているようにも見えなくはないが、残念ながら利吉の視点から見た名前はといえばほとんど瀕死の窮鼠が猫を噛もうとぷるぷるしているようなものであった。精一杯の虚勢は、却ってその身の中に疚しさを隠しているといっているようなものだ。そして利吉は生憎と、窮鼠に噛まれてやるほど間抜けな猫ではない。
「とりあえず、立ちなよ」
 じっとへたり込んでいる名前に、利吉が優しく促す。名前は利吉に差し伸べられたその手をとると、素早く立ち上がるなり、
「だ、だって! だって、さっきから利吉さんが近いからっ!」
 と、半ばヤケクソのように言い募った。相変わらず利吉に向けた顔は熟れた柿のように真っ赤になっている。言葉の割には語調ははすっかり腰が引けてしまっていて、どこからどう見てもやぶれかぶれの感が否めない。
「え、近いって」
 何処が──利吉がそう言うより先に、名前が吠える。
「近いですよ! なんだかどんどんこちらに寄っていらっしゃるし! 私こっち川だし! これ以上避けられないっていうのに、それなのにずっと、手がっ、手の甲がっ、触れては離れ、触れては離れって! わたし、もう気が気じゃなくって……」
 名前らしからぬ取り乱しように、利吉はぱちくりと瞬きを繰り返す。いくら何でも名前がただ呑気なばかりではないことは知っていたが、こうも悲鳴のような声で文句を言われては驚かないわけにはいかない。
「そうだったのか。ごめん、全然気付かなかった」
 本当に気が付いていなかった利吉は、ここは素直に謝った。なんだかんだと考え事をしている間に名前の方に寄ってしまっていたことには先ほど気が付いたが、しかしまさか、そのせいで歩きながら手が触れては離れを繰り返していたとは思わなかったのだ。
 しかし、同時に利吉は確信した。
 ──名前はけして、私のことを意識していなかったわけではないんだ。
 呑気でどうでもいい話ばかりをしきりに口にしていたのも、けして本心から呑気でいたわけではない。意識して、意識しないようにしていた。どうでもいい話をして、何とか利吉から気を逸らそうとしていた。
 「いつも通り」を装おうとしていた。
 利吉に謝られたことで、名前もいくらか冷静になったらしい。すうはあと何度か深呼吸を繰り返すと、一瞬そっと視線を逸らす。しかしまたすぐに利吉に目を遣ると、最後にもう一度大きく呼吸をしてから、名前は意を決したように切り出した。
「す、すみません。あの、わたしの勘違いだったら本当に申し訳ないんですけれども……」
 そこで一度言葉を切り、名前はごくりと唾を飲み込む。つられて利吉も息を呑んだ。名前の視線は曖昧に宙を漂ったあと、ゆっくりと利吉の瞳に照準を定める。
「その、この間、利吉さんからすきと言っていただいて……それでわたし、てっきり利吉さんとは……その、」
 お付き合いをしている状態なのだと、思っているのですけれど。
 自分で言って恥ずかしくなったのか、名前はそれきり俯き黙った。利吉の視点からはもう、名前の表情は少しも見えない。それでも利吉には、今の名前がどんな顔をしているのか、手に取るように想像することができた。
 ──なんだ、名前も同じだったのか。
 距離を掴みあぐね、恋人としてどう接するか定めきれずにいる。それは何も利吉に限った話ではなかった。いや、むしろ名前の方が色恋に関する経験を積んできていない分、「定石」や「普通」が分からず右往左往にしていたに違いない。だからこそ、ほんの少し手が触れたくらいのことで、こうも取り乱している。
 ──雰囲気なんか、つくってやる必要もなかったな。
 わざわざそんなことをせずとも、名前はすでにこんなにも利吉のことを意識しているのだ。そのことが分かっただけでも、利吉にとっては十分すぎる収穫だった。
 依然として俯き羞恥を噛み殺している名前を、利吉はじっと見下ろす。その瞳には、慈愛にも似たやさしい色が滲んでいた。逡巡ののち、利吉はおもむろに、名前の手を両手でそっととった。
 名前の肩が震える。
「大丈夫、勘違いなんかじゃないよ」
 ただ、それだけ伝えた。名前の色恋における許容量がどの程度なのか分からない以上、たとえそれが本心であったとしても、余計なことを言いすぎて名前を困惑させたくはない。必要十分以上の言葉を連ねて、またいたずらに名前を動揺させるのは利吉にとっても本意ではなかった。
 ──そういう手練手管を使うのは、まだもう少し先だな。
 内心でそんなことを考えながらも表情にはおくびにも出さず、利吉は黙して名前の言葉を待つ。
 ふと、川の水がぽちゃんと跳ねる音がした。一瞬、利吉の意識がそちらに流れかける。しかしその意識をつなぎとめたのは、利吉の目の前で俯く名前だった。
 名前に差し出した利吉の手を、名前がぎゅっと握り返していた。
「名前──」
「お慕い申しております、利吉さん」
 やはり俯いたまま名前は小さく、しかしはっきりと呟いた。川のせせらぎがやけに耳につく。握った手は、炎天下のもとにあるにも関わらずひんやりと冷たい。
「わたしは、利吉さんのことをお慕いしております」
「うん。私もだ。私も、名前のことを慕っている」
 静かに利吉が返した。束の間、再び沈黙が流れる。
 果たして名前は卒倒してしまわないだろうかとも一瞬悩んだが、しかし「慕っている」と先に言いだしたのは名前の方である。同じ言葉を返される覚悟くらいは決めていなければおかしい。
 利吉の読んだ通り、名前は小さく肩を震えさせると、おもむろに顔を上げて利吉を見た。
 その顔には、はにかんだ控えめな──しかしどうにも押し殺せていないふくふくとした笑みを湛えていた。
「ふふ、何というか、照れますね。こういうのは」
 声にまで嬉しさをにじませる名前に、利吉までつられて恥ずかしくなってくる。足元からじわじわと熱が上がってくるのを感じた。
「そうだな。……駄目だ、私も照れてる」
「ええ? そうなんですか?」
 自分のことを棚に上げて言う名前は、どうやらだいぶ精神を持ち直したようだった。悪戯めいた瞳を利吉に向けると、先ほど利吉に握られた手をするりとほどき、握りなおす。指を絡めるわけでもない、ただしっかりと握り合わされただけの手のひらが、今のふたりの距離感を表しているようでもある。
「利吉さんともあろう方が、こんな小娘ひとりに照れていてどうするんです」
「仕方ないだろ。そこいらの小娘じゃない、相手は名前なんだから」
「名前はそこいらの娘ですよ」
「違うよ。君みたいなのがそこら中に溢れていたら──」
「溢れていたら?」
 名前が首を傾げて利吉を見る。利吉は一瞬言葉に詰まった後、名前の手を引き、歩き出す。引かれるままに尾いてくる名前の方を見もせずに、背中を向けたままでぶっきらぼうに言った。
「名前みたいなのがそこら中に溢れていたら、世界が平和になってしまう」
「平和、いいじゃないですか」
「よくない。忍びの商売あがったりだ」
「たしかに、それもそうですね」
 くすくすと笑うと、名前は二、三歩小走りに駆けた。利吉の隣に追いつくと、やはり手はつないだまま、嬉しそうに利吉を見上げる。眩し気に目を細めた名前の黒目には、ばつの悪そうな顔をした利吉が映っていた。
「心配しなくても、この世に名前は利吉さんの隣にいる私ひとりきりですから。忍びの利吉さんがお忙しいのはまだ当分は続きそうですね」
「そうだな」
「利吉さんの看病をする名前もひとりきりですから、あまり御無理はしないでくださいね」
「それはまあ、約束はできないけど……」
「約束はできないんですか……」
「善処はする」
「善処……また胡乱な言い回しで逃げの手を打つ……」
 川のせせらぎの音を隣に聞きながら、しっかりと手を繋いだままふたりは歩く。いつの間にか太陽は西に傾き始めていた。依然として往来に人影はないが、その方がふたりにとっては都合がよくもある。
 ふたり分のひとつの影が、灰色の道にぎこちなく、しかしたしかに伸びていた。


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