私の母は、たいそうな悪人だった。薬に手を出さなかっただけまだ良い、と言えるのかもしれない。
 人の命を奪う。
 人の物を奪う。
 こんなことは当たり前だった。こんな女に心底呆れ返ったのか、私が生まれる前に、私の父親はどこかへ行ってしまった。だから、私に「お前の父親はどんな人だったのか?」と言われても、答えることが出来ない。
 「母さん、どうしたの、それ?」
 あの日も母さんは、腕にきらきらとしたものを身に着けては、とてもうれしそうにしていてあ。
 「たくさんあったのよ? 一個ぐらいなくたって気がつきやしないわ」
 また盗んできた。
 服についた赤い液体は、おそらくだけれど、元の持ち主の物。
 また、誰かの命を奪い、物を奪ったんだ。
 このひとはまた、罪を犯したんだ。親戚中からいい加減にしろと言われ、しまいには手を離されても、自分のことを好きだと言ってくれた人からの忠告を無視してまで、たとえ見捨てられてもなお、まだ続けているんだ。
 「ほんの一時よお? ちょっと借りるぐらいいいじゃない」
 「そうして無断で借りて、ぼろぼろになるまで使った後、足のつかなさそうなとこでお金に換えて、借金を返してはまた無断で借りるの? 少しは懲りたらどう? 周りからなんて言われてるか知ってる? 『いい年して働かず常識すらない、借金をいつまでも繰り返す最低な女』なんだよ? いい加減目を覚ましたら?」
 ぴたりと母の肩がわずかながらに動いた。実の娘から言われ、少しは頭が冷え、目を覚ましてくれれば、私も少しは助かる。
 「………どうして?」
 小さく、母が言った。
 「どうしてあなたにそんなことを言われなくちゃいけないの? 私はあなたの母親よ? あなたを育てたのはこの私よ? なのにどうしてそんなことを言うの?」
 「どうしてって、そんなこと」
 『当然のことを言ったまでだ』と言いかけて、振り返った時には血の気が一気に引いた。
 自然と後ろへ下がってしまったのは、幼いけれど、私の身についた防衛本能か、何か。気がついた時には、もう遅かった。母の手には包丁が握られていた。
 人は、本当の恐ろしさに直面した時、いつもであれば難なく出るはずの声が出ない。口から出てくるのは、のどを通る空気の音。もしくはいいたことが言えないのだと知ったのは、この時だった。
 「かあ、さん?」
 母の瞳に、光はどこにもなかった。
 私が悪いんじゃない、私は悪くない。あの人が勝手に出て行って、あの人が勝手にいなくなったのは、私が悪いんじゃない。私は何も知らない。私は何も悪くない。
 こんな言葉を呪文のように繰り返し、私に近づく。ゆっくりと、確実に近づく母。
 お願い、やめて、たすけて。
 こんな言葉が出てこない。父が出て行き、前の家とは比べものにはならないほどのぼろぼろの家に住んでいるからか、壁がやたらと薄い。ほんの少し頑張って大きな声を出そうものならば、お隣さんから苦情が来る。
 だから大きな声を出せばいい。誰かに助けを求めればいい。
 だけど、肝心の声が出なかった。一番かなめともなる「たすけて」の声が、言葉が、口から出てこない。
 私の背中と壁が、ぴったりとくっつく。
 「かあさ、ん……やめて」
 やっとの思いで出た小さな言葉が、これだった。
 大きく、母の腕が上がった。きらりと光る包丁が、やたらと輝いて見えた。
 もう無理なんだと、この時は思った。幼く、非力な自分では、母を止めることはできなかった。母は、この人はまた誰かの命を平然と奪う。私には、何も出来なかった。実の娘の言葉も届かなかった。
 何かの音がしたのと同時だった。金具と金具がぶつかるような、鈍い音がしたのとほぼ同時に、母の手から包丁が離れた。くるくると何度も空中で開店した包丁は、薄い木の床に突き刺さった。
 「そこを動くな」
 随分と低い声だった。男の人にしては、随分と低い身長だけど、女の人にしては、長身すぎる。紺色のコートはこの人の膝ほどまでの長さがある。冬用のコートに白いマフラーって、今は真夏なんだけど、なんて考える余地はなかった。
 逆光で表情こそ見えないけれど、この時の私は「これで自分の命は助かるんだ」と思えた。警察か、軍か、どこの誰かかは知らないけれど、私の命はここで助かるんだと思えば、もう一度だけ銃声音が響いた。
 「お前はあんまりにも多くの人間を殺しすぎた。仁義も情けも、お前には必要ない……それに、人を殺してもいいのは、殺される覚悟のある人間だけだ」
 声からして男の人であることには間違いないのだろうけれど、なんせ身長が小さすぎる。ふと、白煙がのぼる銃器を持つ人は、じっとわたしを見た。やっぱり逆光で顔が見えない。男の人なのか、女の人なのか。
 「来なさい、お前はこれからこっちで生活をするんだから」
 やっぱり声だけで考えると男性だけれど、身長を考えると女性の人が言った。
 来なさいって、私は一体どこへ行くのだろうか?








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