今日の授業は、散々なものだった。
 「先生は正直に言えば、怒りません。先生は平然とうそをつく人が嫌いです。」
 朝、ホームルームが終わり、さちちゃんにノートを見せ、あと三分もすれば授業が始まる。はたして先生が来るのが先か、さちちゃんがノートをうつし終わるのが先か、なんてことをのんきに考えていた。
 教室の扉ががらがらと音を立てて開く。これはさちちゃんの負けか、なんてことを思い、軽くため息をこぼした。きっと放課後ぐらいにこってりと怒られるんだろうとばかり思っていた。クラスメイト達は先生が来たと、もう一時間目が始まるから各自、席に戻らなければとでも思ったのだろうけど、彼らは焦っていたし、私だって十分にあせった。
 教室に入ってきたのは、学校内でも指折りで厳しいと評判でバーコード頭の中年男性の先生で、一時間目の先生でもなく、おっとり天然で美人との常磐の担任の先生でもなかった。
 みんなの「どうして」をかきけすかのように校長先生は、教壇で叫ぶように言った。
 「一体何のことだよ」
 「………さあ? 何があったんだ?」
 一体何が起きたのかもわからず、一体誰が何を隠そうとして嘘をついたのかもわからず、ざわめく教室内で、校長先生は大きく息を吸い込み、もう一度叫んだ。
 「一体どこの誰なんだ! 一体どこの誰が『この車の主はズラ』なんて落書きをしたんだ! スキンヘッドを隠すためにかつらをかぶって、一体何が悪いというんだ! 何も私の愛車にスプレーで書くことはないだろ!」
 何人かが下を俯き、何とかして笑いをこらえている。
 時々、ほんの時々校長先生の頭がおかしいとは思っていたけれど、まさかだ。
 ズラだった。
 このことが今日一日頭の中から離れなかった。校長先生は五十分近く同じことを繰り返しながら言うと、やっとすっきりしたのか、教室をスキップで出て行った。
 今頃部活動に勤しんでいるさちちゃんも、先生が完全に教室を出て行ったのを見計らったかのように、机を勢いよく叩きながら笑っていた。
 ふと、真っ赤に染まった空を見上げる。
 一人で帰るのには、もう慣れてしまった。最初は、学業復帰したての頃は、理由こそわからないけれど怖くて、恐ろしくて、悲しくて、とにかくどうしようもなかった。
 特に何もない田舎道を歩く。さきちゃんは、都会のようになってほしいと、よく言う。買い物だって不便だ。コンビニなんて、ましてやカラオケなんてない。道だってしっかりと整備されていなくて、所々ガタガタ。
 「けど、私はこのままがいいな」
 変わってほしい、もっと便利になってほしいとは思わない。十分、このままでいいと思う。
 近所のスーパーまでは車で片道一時間程度。最寄駅はバスで乗り換えを二回ほどして、揺られることおおよそ二時間半。コンビニは、五キロほど離れている。
 手入れの施されていない雑草の上を、鳥たちが優雅に飛んでいく。小学生ぐらいの子供たちの遊びは、近くの森でターザンごっこがメインで、夏場ともなれば近くの川で水遊び。
 なにもかわらなくたっていいと、心から思えた。
 「智絵!」
 誰かが私を呼んだ。誰だろうかと後ろを振り向き、だけど声の主はわからなかった。おそらく私と同じぐらいの年齢の男の子。真っ黒な髪と、何度も履いていると思わしきジーンズのズボン。紺色のTシャツには白い縁取りと黒色で書かれた侍魂。
 誰だろうか、この人は? 真っ白な頭を無理に働かせる。
 小中高合わせて一クラスの子の田舎町で、知らない人間はいない。幼い子供の面倒は、都会であれば親がみて当然なのだけれど、この田舎町では中学生や高校生が面倒を見て当たり前となっている。だから学校の生徒たち全員がお友達、親戚状態。名前も顔も知らない人間なんていない、はずだった。
 なのに、今、目の前にいる男の人は、とてもうれしそうで、懐かしそうな顔をしている。
 「智絵、久しぶり! 約束通り帰ってきたよ!」
 「や、くそ、く?」
 「覚えてないの? 五年後、必ず帰ってくるって」
 一体何のことなのか、全く分からない。
 私の手を握り、嬉しそうに言うこの人は、一体誰なのだろう?
 「………智絵?」
 きっと男の人は、今目の前にいる久しぶりにあったはずの女が、自分のことを一ミリも覚えていなくて、愕然としているのだろう。だからこの人は、こんなにも困惑していると思った。私が、自分の頬から落ちる涙に気がつくまでは。
 「あっ、あの」
 震える体が止まらない。今までこんな経験は一度たりともなかった。
 何かしら大きなこと、たとえば事故があって、だから自分には記憶がないのだ。今までそのことに対して、恐怖心を抱いたことは、一度たりともなかった。
 「ごめんなさい!」
 彼の手を思いっきり振り切って、ガタガタの道をローファーで走る。足がもつれそうになるけれど、今の私にとってはどうでもいいことだった。
 たった数秒前までは「変わらなくたっていい、今のままでいい」と思っていた感情が、ほんの一瞬にして「変わってほしい」と思ったのは、どうしてだろう?








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