2.1



 結局のところ、私は私でしかなかった。当然のことだ、と馬鹿にする人間もいるだろうけど、もしかしたら、努力をすれば人間報われるのだと、少なくとも私は信じていた。
 一五の頃までの私は、天才ピアニストだった。大小さまざまな大会で数多くの賞を受賞し、大人たちを自慢に満ちた顔で見ていた。私はこれだけできる人間なんだ、子ども扱いをするんじゃない、馬鹿にするな、と。
 一五の夏、私は家のすぐ近くの四つ角で、大きな事故に巻き込まれ、将来、ピアニストとしての道を失った。
 『もう無理でしょう。現代医学ではどうにもできません』
 数週間後に控えた手術でも、失敗をすれば切断は必須。いくら手術が成功したとしても、もう一度、事故前のような演奏は、絶対的に不可能と断言された。
 『今度の五〇二号室に入院してきた女の子のこと、知ってる?』
 『何でも天才ピアニストだったんだってよ』
 『一二で大人の部で優勝して、将来期待されてたらしいよ』
 『可哀想だけど、良い機会だわ』
 『今まで上手くいきすぎてただけよ』
 ひそひそと話す他人の声が、これほどまでに居心地の悪いものだと思ったのは、この時が初めてだった。今までは、どこか皮肉の意を込めた陰口であったとしても、その人の努力が劣っていただけで、私がわざわざ気にして心を暗くするほどのことではない。少なくとも、私は彼女たちよりも上なのだから。生まれつきの才能と人二倍以上の努力。師とする先生でさえも、私の才能と結果に目を丸くし、何度だって「すばらしいわ、さすがよ」と言ってくれた。
 この事故は、私の心のどこかで、他者を見下すことを当たり前としていたから、天が怒り狂って、私へびっくり箱をプレゼントしてくれたのかもしれない。
 だから、手術前日の夜までは、数えきれないほど、たくさん泣いた。父親や母は、すっかり腫れた目をした私を見て、きっと家で泣いていたのだろう。入院生活で必要だから、と渡してくれていたタオルが、決まって冷たくて、悲しかった。いつも私を担当してくれている看護師さんだって、事故で指が動かなくて、もうピアノを二度と弾けないことを知った上で言う。
 『あら、今日は楽譜を見なくても大丈夫なの?』
 『ピアノの練習はどうしたの?』
 くすくすと笑う彼女たちに、私は何度も隠れて泣いた。
 手術前日の晩、きっと私は絶望していたのだろう。心底、悔しかったのだろう。あの時に私に刃物を与えていたら、きっと手首を傷つけていたのかもしれない。
 『死人の目、だな』
 窓辺から突然聞こえた声に、私は驚かずにいた。希望も夢もプライドも、何もかもを無くしてしまったこの時の私に、正常な判断はできなかった。たとえ、病院の八階の窓から、誰かが入ってきたとしても、だ。
 『ありがとう』
 『ほめてねえわ、馬鹿娘が』
 男の人の声だった。月の光で顔が照らされることはなかった。体格がよくわからないように、と思ったのか、紺色のウインターコートを着て、フードをかぶり、ほぼ同系色のマフラーで顔の下半分を隠している。どんな人かもわからない。ただ普通の男の人よりも低い声に、あの時の私は狂っていたのかもしれない。私を殺してくれ、何度も彼に訴えた。あんまりの絶望で声すら出なかったけど、活気のない瞳で願った。
 もう、これ以上絶望したくなかった。
 両親を泣かせたくなかった。
 くすくすと、失墜の天才ピアニストとして、もう、これ以上、笑われたくなかった。
 『安心しろ、お前さんはこんなところで死にゃあせんよ。大丈夫だから、胸張って生きろ』
 ぐしゃぐしゃと、やたらと乱暴に私の頭を撫でて、私をじっと見つめたあの人は、まじないのような言葉を口にした。
 『おまじない?』
 一五の小娘にだって通用しない、痛みが治るおまじない。
 返答はなかったけれど、代わりに彼が私のけがをしている手をしっかりと包み込んだ。大きくて温かな掌に、ほんの少しだけびっくりした。お父さんのような大きな手だと、純粋に思えた。
 もう大丈夫だから心配するなと言って、自身の名前を告げることなく八階の窓から出て行った彼に、私は呆然としていた。一体何が起きたのかもわからない、彼が私に何をしたのかもわからないまま、私は不思議な一夜を過ごた。
 『か、完治してる! どういうことなのっ?』
 翌日の朝の検査で担当にの先生を驚愕させ、診察室に悲鳴を響かせたのち、午後には退院した。誰しもが目を丸くしていた中、数名の方は私を憎たらしい瞳で見ていた。
 漸く事実が分ったのは、退院してから半年後の小さなコンクールで特別賞を頂いた時だった。
 この世には、三種類の「他者を癒す方法」が存在する。一つは医師や看護師。科学と己の知識と技術を用いて、生きとし生けるものを治す。ただし、相応の限度がある。
 二つ目は魔法師。治す側が人であることに変わりはないけど、彼らは東洋で言う「気」を用いて、生きとし生けるものすべてを治す。こちらにも相応の限度はあるけれど、決まりさえ守ってしまえばいい、らしい。
 『おそらくレイ嬢、あなたがその日の晩、魔法師である彼に両腕を完治してもらったのでしょう。しかもたった一晩で、たった一回だけであれだけの怪我を完治させたのですから、かなり腕のいいものかと思われますよ?』
 何はともあれ、特別賞おめでとうございます、と機械じみた言葉を告げた審査員のおじ様に、会場いっぱいの拍手。
 この時に心の底から思った、魔法師になろう、と。
 ピアノ以外では、才能らしきものを全く開花してくれない私は、魔法師になるために、とにかく自分に厳しく、他人に優しくをモットーとした。馬鹿な頭ではあったけど、何とかして国立大医学部へ合格。もちろん現役合格で。優秀な成績を得られたら、きっと魔法師にもなれると思っていて、寝る時間さえも削って努力した私に、
 『魔法師? 今時一体何を言うんだ? 君は魔法師がいると、本気で信じているのかい?』
 この教授の笑い声一つで、女医の資格を投げ捨て、魔法師の聖地、亡国リガルハへ向かった。












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