4.2



「よっこいしょっと」
 桶を持った椿は、足元がふらつく中、どうにかして中身をこぼすことなく処理場へと持っていく。もう少し自分に体力があれば、自分が男であれば、アキラから心配と不安の目で見られることが無かったのかもしれないと、悔しさが募る。
 「椿、それはこっちだよ」
 手を大きく振りながら言った瑞樹のもう片手には、しっかりとスコップが握られていた。一度地面に置いた桶を再び瑞樹のところへと移動させた椿は、ふと懐の中に入れていた物に気が付いた。
 「瑞樹君、これ、ちゃんと洗ったから。昨日はありがとう」
 懐から取り出したのは、一枚の手拭い。藍色で、少しどころか、女の子が持つのには、かなり不釣合いの手拭いは、綺麗に畳まれていた。
 「わざわざ? そんなの必要ないのに」
 「でも汚しちゃったし。こういったことに関してはちゃんと洗濯をして返すべきですよって、恵美子(えみこ)さんが」
 「……恵美子さんって、誰だよ」
 「えっ? さか……」
 まさか、言えるはずがなかった。『坂木原(さかきばら)恵美子さんと言って、宮中で働いている人』とは言えない。決して隠しているわけではないにしろ、おそらく瑞樹は知らない。目の前にいる自分が、この国の姫君であることに気が付いていない。
 椿は慌てて頭を下げ、治療所へと戻ろうと、後ろへ振り返った時だった。袴の裾で転び、顔面から地面へとぶつかった椿を見て、瑞樹だけでなく、作業をしていた者までもがくすりと笑った。

 生次郎君は決して悪い子ではない。
 「昨日アキラに抱きついて、マンホールの穴から出てきたもぐら少女。あの女の子って恋人なの?」
 ほんの少しの休憩時間に、生次郎君が言った。生次郎君の言う「もぐら少女」とは、ひょっとしなくても椿姫のことだ。いいネーミングセンスをしている、ではない。
 「生次郎君、誰と誰が恋人だって?」
 耳を疑うほどの発言。
 ありえない。
 家にお金がなくて軍へ入った自分と、一国の姫君が恋仲など、畏れ多いにもほどがある。第一に、自分は恋人など作れない。
 「良いんじゃねえの? 年の差って言ったって少しだろ?」
 「年の差云々じゃない」
 「じゃあ何? 女性がダメとか?」
 「そうじゃない」
 「すでに恋人持ち?」
 「恋人なんていないし、作れない」
 「じゃあなんで? もぐら少女、将来美人になるよ?」
 美人、との言葉にぴたりと反応してしまった。
 「それは」
 決してゼロではない可能性。椿姫だって一国の姫君。どう転ぶかわからない。
 「手中におさめておくなら、今しかないでしょ?」
 クラスメイトに一人はいる「いたずらっ子」。少し仲のいい男女の友達が「お前ら夫婦!」なんて言って、本人たちをからかう男子学生。残念なことに、生次郎君はあの手のタイプが、そのまま成長したお兄さんといった人。中身に難癖がありそうだな、なんて思っていた。
 「手中におさめるって、酷い言い方だな。あと、生次郎君の言うもぐら少女とは付き合えない」
 「将来どうなるかわかんねえよ、あの子」
 まだ言うつもりなのか?
 「生次郎君」
 「うん?」
 自分の出自に、王はいない。今となっては滅んでしまったリガルハが、自分の故郷だ。多くの民族が集い、一つの国としていたリガルハにも、王はいなかった。
 「少しは周囲の目を見たらどうだ?」
 自国の姫君と異国の自分が付き合え。王が存在しない国で生まれ、育った自分には理解できないほど強い愛国心と敬意を持つ人たちの瞳。滅んだ故郷にも、すっかりと慣れ親しんでしまった国にも、王は存在しない。
 それでもはっきりと理解できた。
 うちの元気で明るい姫様と、あの国の兵士の男を一緒にさせるな。
 不敬ともとらえられるべき生次郎君の発言。本人がいくら無自覚であったとしても、おそらく口に出してはいけない言葉。周りの目もきついものとなった以上、生次郎君も馬鹿なことは言えないだろうと、思っていた自分が間抜けだった。
 「それで? 将来美人になるかもしれないもぐら少女と付き合う気はないの?」
 ただ単純に馬鹿なのか鈍いのかは知らない。
 だけど、これだけは言える。
 「しつこい!」
 もうやけくそだった。正直、違うと言っているのにもかかわらず、何度も「そうなんでしょ?」と言われると、感情のコントロールが難しくなる。特技、と言えるのかどうかはわからない回し蹴りを一発やってから気が付いた。小さく声を出したのは、蹴った後。洗濯かごを手にしたどこかの奥様が「あらあら、まあまあ」と、のんきに笑っていた。
 いつもであれば、力いっぱいやっている。というか、本気モードでやっている。
 これは、相手が自分と同じ「日ごろから体を鍛えた人間」だから、力強くやっても、何の問題もない。殴ったとしても笑いながら許してくれる。蹴ったとしても、まず飛んでいくことはない。
 なぜなら「日ごろから体を鍛えているから」と「受け方を身につけているから」であって、間違っても、今の生次郎君のように、力強く蹴りを一発やっただけで飛んでいくことなど、決してありえなかった。
 やってしまったと思い、すぐさま謝罪の言葉を口にする。おそらく体力はそこそこあるけど、決して日頃から鍛えているわけではない。蹴った時に、なんとなくわかった。
 「ごめん、生次郎君! ついうっかり」
 ついうっかりで許されるとは、少しも思っていないけど、やってしまったのだ。吹っ飛んだ生次郎君の元へ行き、ふと気が付いたのだ。小さな男の子たちの視線に。
 「思いっきり蹴っただろうが」
 「本当にごめん……つい、いつもの癖で」
 「だけど、兵士ってなると、これぐらいが普通なんだな。やっぱりかっこいいわ」
 自分が想像していた言葉とは違っていて、何が、と言いかけて、口を閉ざした。
 きっと生次郎君は知らない。
 戦争に行って死んでしまう兵士のこと。
 映画のように銃器で撃たれ死んでしまう人間よりも、餓死してしまう人間の数のほうが多いこと。
 給与こそいいかもしれないけれど、過酷な長時間労働に加えて、仲間の死を目の前で見てしまうこと。
 体力さえあればいくらでもなんとかなるけれど、先に精神が参ってしまう人間が、ぼろぼろと出てくること。
 「兵士なんて」
 かっこよくもない、と言いかけて、背後を見た。幼児たちの輝いた瞳が、やたらと痛かった。
 「給料がいいだけだよ」
 子供たちがいるのだ。まだ、事実を知るのには早すぎる子供たちの前では「兵士なんてつらいだけだ」や「やめておけ」よりも、むしろこの言葉だけのほうがいいと思った。この子たちの前で「目の前で何人も先に死んで逝ったし、精神的な病におかされた」とは言えない。
 治療所の前に置かれている桶を見ては、手にしてみてやっと気が付いた。
 さっきのを、教えてほしいのだ、あの子たちは。きらきらと輝いた瞳には「自分もできるようになりたい」と「今のを自分もやってみたい」の希望があふれている。
 「でも、アキラ君ぐらいの年齢で軍に入って国を護るなんて、かっこいいし、偉いと思うよ?」
 「家に金がなかったから、高給職の軍に志願しただけ。かっこいいとか、偉いとかまったくないよ……あと、これ持って」
 汚物の入った桶(おそらく一つ約三キロ)を五つほど生次郎君に持たせる。自分はしっかりと六つ持つ。
 正直に言うと、桶が小さすぎる上に、まったく人手が足らない。いくら若くて体力のある男たちのほとんどが出征し、男女の比率がおかしい。若くて体力のある男はごくわずかとは言っても、これだと頑張っても二月程度。
 いくらなんでも限界がある。
 おまけにあの金髪の姐さんだって、たった一人で頑張っている。
 重い、二回に分けて運びたいと不満を言う生次郎君。
 「たかだかそれぐらいで弱音を吐くな!」
 「分けて運んでも」
 「一回で運ぶ!」
 文句を言う生次郎君。重い、重いと言いながらも足取りはしっかりとしているし、体の軸を上手く使っている。これが使えないと、いろんなところで均衡が保てなくなって、体力をつけるのにも至難の業となる。
 つまりは、生次郎君には体力があるのだ。加えてバランス感覚もよし、と見た。うらやましいこと、この上ない。
 「アキラ君、少し休もう?」
 「弱音を吐くな!」













[ 22/33 ]

[*prev] [next#]
[mokuji]
[しおりを挟む]



人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -