3.9



 毎日毎日同じことを強いられていた椿は、頬を膨らませた。
 「ねえ、毎日毎日お勉強は嫌よ! もっと別のことがしたいわ」
 机の上に重なった本を一切手につけることなく言った椿に、蓮は大きくため息をこぼした。
 「裁縫でもしますか? 料理でもいいですよ?」
 「違うの! 街のみんなのお手伝いがしたいの!」
 机の上に乗せた本を気にすることなく、思いっきり机を叩いた椿は、我慢の限界だった。
 この国に医者がいないことはよく知っている。今までは、ほんの数カ月前までは椿の双子の姉、紅葉がいてくれたから、大丈夫だった。紅葉がいるから医者がいなくても大丈夫。蓮だけではない、宮中の大人までもが口をそろえて言っていたのだから、椿も「よくはわからないけれど、紅葉お姉さまがいるのであれば」と、すっかり安心していた。
 だが、今は違う。紅葉はもう、殺されてこの世にはいない。おまけにこの国に医者は一人もいない。否、このアルゼリア王国出身の医者は、一人もいない。他国の人間にお願いをするしかない。きっと街では大変なことになっているのではないのか? 戦争に行かせてしまい、若くて体力のある成人男性は、ほとんどいない。自分も、何かしら手伝うことがあるのではないのか? 
 用意してほしいと頼まれたものは、大至急ですべて用意したのはいいけれど、本当にこれだけでいいのだろうか? 
 「十を少し過ぎただけの小娘一人が行ったところで、一体何ができる?」
 低い声で言った蓮の顔をじっと見た椿は、今は一国の宰相様として言っているわけではない。一人の、少し年の離れた男性として忠告をしているのだとわかった。
 いつもこうだ。
 椿が「どうしても」ということを聞かないとき、「わがまま」を言うとき、蓮は口調が大きく変わる。いつもは丁寧な言葉のみを使用し、たとえ国王様がお酒で暴れようとも「冷静さ」を決して失わない彼が、丁寧な言葉を使わない場合は、相手にしっかりと自分の気持ちを伝えたい、わかってほしいと思うときだけなのだと。
椿はしっかりと理解もしている。今の自分が集落へ行ったとしても、何かが出来るとは、到底思ってもいない。
 アキラのように「男」であれば、何かが出来たのかもしれない。
 生まれるのがあと五年と早かったら、少しは違っていたのかもしれない。
 何も出来ないのは、自分がまだ十を少し過ぎただけの「少女」でしかないからと思うと、悔しくてたまらなかった。
 姉の紅葉が殺されてしまったのは、蓮や国王様たちの言いつけを守らなかったからだ。だから紅葉は殺されてしまった。
 もう貴女は大人しくしていなさい。これ以上馬鹿な真似はやめなさい、少しは頭を冷やせとでも、蓮は言いたいのだろうか?
 「ちょっとは役に立つかもしれないじゃない!」
 自暴自棄。
 余計に迷惑をかけるだけ。こんなことはわかっている。「ちょっと待て」との蓮の言葉を無視して、宮中をばたばたと走る。
 どうせ真正面から行っても捕まる。せっかく蓮の忠告を振り切ったのだ。また戻されるなど、真っ平ごめんだ。
「私だって、わかってるわ」
 医学の知識もない。体力だって平均もない。誰かを助けようものであれば、自分以外の誰かの手がどうしても必要となってくる。蓮の言うことが分からないわけではない。むしろ、痛いほどよくわかる。
 ただ、認めたくなかった。少し走っただけで息切れを起こしてしまうほど、自分には体力がほんの少ししかない。改めて自分自身の体力のなさを実感した椿は、目的の部屋の前まで来ると、ぴたりと足を止め、周囲を見渡す。一応、念のためだ。
 静かに部屋に入ると、物音をできるだけ立てずに、戸を閉める。やがて大きく深呼吸を三回ほど繰り返す。
 乱暴に重ねられた書物には、異国の文字が書かれている。
 一体何が書かれているのかもわからない。大人一人が何とかして入れると思わしき木箱は、三つほど積み重ねられた山が、もう五つもできている。
 埃のかぶった紅色の布には、金色の刺繍が施されているが、最早着れるものではない。
 太陽の光が届くかどうかも危ういこの部屋は、別名「物置部屋」。しつこく交易を求めてくる商人や国からの「手土産」が、乱暴に置かれている。
 どうせ使わないのだから。
 どうせ必要ないのだから。
 だけど貰わないのは失礼。空いていた一室を物置部屋として使用し始めたのは、ここ数年の話ではない。棚から一つの籠を取り出した椿は、埃がかぶっていないことをしっかりと確認し、来ていた打掛を手際よく脱いでいく。これを着ていたら、裾が床についてしまう上に、どうにも走りにくいのだ。続いて晴着を脱ぐ。今日は特別祝い事なんてないのにこれを着た理由は、椿を宮中の中に閉じ込めておくためと、いざという時、椿が走りにくいと感じさせるためだ。肌着の状態で棚から青い籠を取り出すと、その中には一枚の着物が入っていた。
 ただし、椿が着るような物ではない。地味な色合いのものだ。大きくうなずいた椿は手にしていた者に腕を通し、近くに畳まれていた帯でしめ、簪も金色の美しいものから地味なものへと変え、ふと目にしたものに悲鳴を上げるかと思った。
 乱暴に置かれた木箱の奥に、人の手と思わしきものが見えたのだ。普段であれば叫んでいた。むしろ、今叫ばなかったことに関して、誰かほめてと言いたいのだが、なんせ時間がない。自分が棚から取り出した籠をもとの位置に戻し、もう一度奥から見えた手をよく見る。
 「あれ?」
 わずかに、ほんの少しだけではあるものの、動いた気がした。一体どこの誰がこんなものを「手土産」として渡したのだろうか? こんな物置部屋で寝る人間などいない。きっと何かの人形なのだろうと、大きく頭を振った椿は、部屋の出入り口から数えて五枚目の板を外す。
 どうしてここだけが畳ではないのか? どうして五枚目の板を外すと、地下へとつながる道があるのか? これらの「どうして」の答えはわからないが、少なくとも宮中を抜け出すときには、この通路は大いに役立っている。

 地下へとつながる階段を降りて、やがて一本の道が見えてきた。周囲は薄暗く、灯籠があっても、目の前がぼんやりとしか見えない。かつん、かつんと、椿一人の足音のみが響く。
 二年前に見つけたこの地下道は、不自然なまでに手入れが施されている。地上の音など一切聞こえない。しっかりと頑丈に建てようと思い実行したのか、壁は煉瓦ではなく、コンクリート。どうしてこんな地下道が出来たのかは、椿自身も分からない。
 ただわかるのは、この道を使えば宮中を出られることと、この道を走れば十中八九転んでしまうこと。頑丈に作られ、不自然なまでに手入れされている。なのに、足元が滑りやすい。これでは走ることすらできない。
 「私だってもう十は過ぎてるのに」
 かつかつと、そこの低い木靴の音が響く中、椿はとある場所でぴたりと足を止めた。右手には、少しだけサビがついてはいるものの、鉄製の梯子がかけられている。これがあるということは、
 「ここから地上に出られる」
 後ろを振り返り、目を凝らして誰もいないことを確認する。手にしていた灯籠の灯を消し、そっと梯子に手を置く。途中で壊れたりはしないだろうが、万が一ということだってあるのだ。強く引っ張っても梯子は外れない。むしろ十を少し過ぎただけの椿の力だけで、鉄製の梯子が壊れてしまえば、それだけでも十分問題なのだろうが、一応確認のためだ。
 「……よっし、行くよ」
 着物の裾が汚れてしまおうが、どうだっていい。椿は梯子をしっかりと持つと、やがて一段、また一段と上へ目指す。














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