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 優しく笑いながら言う綾は、楼が見る限りでは病人らしさがどこにも見当たらず、けれど、病室のプレートには確かに「甲野綾」と書かれていた。真っ黒な髪を毛先十センチ上でゆるく結び、真っ白な肌を桃色の寝間着でさらに目立たせている。おそらく病院生活が長いのか、骨と皮しかないのではと思うほど細い彼女の左手の薬指には、きらきらと輝く指輪。ほっそりとした体に小さな顔。そしてなによりも、
 「失礼ですが」
 「何? 年齢なら教えないわよ?」
 「……………ですよね」
 もしも劉黄が自分と同じ年齢であれば、綾はどう考えても三十代ぐらいだと楼は計算したのだが、真っ白な肌とどう見ても二十代を後半ぐらいだろうかと思わせる彼女の顔立ち。楼は、失礼だとわかっていながらも、心の中で綾の年齢を考えていた。
 「女性に年齢を聞くのはタブーよ。これぐらい覚えておきなさい」
 「……………はい、でも綾さん、本当に劉黄の母親ですよね? 若すぎやしないかと思いまして」
 「あら、やだ! そんなことないわ! わたしあの子を周囲から大反対されながら二三の時に産んだのよ?」
 「…………………えっ?」
 『周囲から大反対されながら』と『二三の時に産んだ』のキーワードが楼の心の中で嫌なぐらいに引っかかったが、綾の次の言葉ですべてがどうにでもなった。
 「それでも、あの子が元気にやってくれて、頭は馬鹿だけど、なんとかして地元の公立高校に行ってくれて本当に助かってるし、自分のやりたいことを早くに見つけてくれて…………親としては助かってるわ」
 優しく笑う綾の顔が、本当にこれでよかったのだと、まだ一六の楼でもわかった。
 「もっと、他の所へ行ってくれとかは、思わなかったのですか?」
 「あら……あの子の頭を考えれば上等よ? そりゃあ本当はせっかく公立に行ける学力があったってわかったんだからもっと上の高校に行ってほしかったけれど」
 ここで一度言葉を切らせた綾は、目を大きく開き、やがて言った。
 「楼君、あなた、ひょっとして」
 目を大きく開き、体の重心を後ろに置く綾に、楼はゆっくりと首を縦に動かした。
 「父は、父親は『自分のやりたいことだから』と言ってくださりました。けれど、母親は、泣いてました。もっと、別の所の学校でいいだろう、なにも日本に留学する必要なんて、どこにもないだろう。もっといいところがあるだろ、と」
 歯切れの悪い言葉で言った楼は、ゆっくりと自分が故郷を発つ時のことを思い出していた。思い出そうと思えば、あの時のことはいつだって思い出すことができるから。
 「母親は、最初は馬鹿を言うなと、言ってました。けれど、次第に、日々、行かないでくれと言うようになって………日本への留学が決まった時は、泣いていました」
 かちかちと、目覚まし時計の秒針が動く音だけが、病室に響く。それで、と綾が静かに続けるて言った。
 「楼くんは、強行突破で日本に来たの?」
 静かに、何も言わずに楼が頷けば、綾は一息つきながらゆっくりと窓辺を見つめた。空が、ゆっくりと確実に夜の色へと染まる中、カラスたちが山へと向かっていくのがよくわかる。
 「楼君は」と、綾が明るい声で言った。
 「楼君はもしかして中学校受験とかしたかな?」
 秒針が十回は動いたころ、あんまりにも突然のこと言うから、楼は最初こそ目を丸めたが、やがて意味が分かったように答えた。
 「………一応、合格も卒業もしました」
 「そこの学校、頭よかったりする?」
 「……………頭がいいかどうかは、自分にははっきりと分からないので、なんとも言えませんが、頑張れば入れるとこではあると思います」
 「そっか……受験した人は自分の出身学校を『頭のいい学校でした』なんて言わないよね?」
 悔しそうに笑う綾。どうしてそんなことを言うのかと思い、楼が言おうとした時だった。きっとさ、と綾が羨ましそうに言った。
 「楼君のお母さまは、せっかくそこそこの学力のある学校を入学できて、卒業までできたのに、異国の田舎で、しかも将来性のあるかどうかも分からないような、一応のつく公立高校で、さらに芸術高校に行くなんて信じられないって、思ったんじゃないのかな? 普通はさ、受験できるだけの学力があれば将来有望な職に就いてほしいと思うのが、どんな国でも親として共通の思いじゃないかな?」
 紺色と夜の色に染まる空を背中に向け、羨ましそうに、けれどどこか寂しそうに笑う綾の顔は、少しだけ悲しそうだった。








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