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 「帰国してくれ? 一体何を言うのさ」
 受話器を耳に当てながら、少年は確かめるように言った。部屋には段ボールが二つと、大きな旅行用バッグが二つ。それ以外の荷物らしい荷物が、何一つとして存在しない。かろうじて、さみしそうに置かれている机の上には、一枚の写真が彼を見守っていた。
 よく言えば「殺風景な部屋」、悪く言えば「生活感が何一つとして存在しない」。そんな空間だ。
 「自分の好きなことをしろと言ったのは誰ですか?」
 少年は敢えて丁寧な口調で言うと、受話器の向こうにいる人物は、何も言えなくなった。
 「自分が本当にやりたいこと、好きなことであれば、どんな苦なことであっても楽となる。だから留学しても良いとおっしゃたのは貴方ではないですか。今更帰国してくれとは、一体どういったおつもりですか?」
 夕焼けで真っ赤に燃える空に背を向け、少年は机の上に置いてあった写真を手にした。
 「………近々」と、受話器の向こうの人物が、重い口調で続けるように言った。
 「近々、そっちでとんでもないことが起こるかもしれない。そうなったら、楼くん、君も必然的に巻き込まれてしまうんだ。だったらせめてもの、日本よりも危険が及ぶであろうアメリカではなく、君の故郷、中国への帰国をお願いしたい。これは、なにも」
 「断る」
 少年は今度こそ、強い口調で、はっきりと言った。
 「あなただってご存じのはずです。余計なことは慎んでいただきたい」
 少年は言いたいことだけ言うと、受話器の電源ボタンを力強く押す。もう聞こえなくなった声を確認して、やっとの思いで一息つく。
 これで良いのだと、何度も自分に言い聞かせてきた。今更、どうということはないはずだ。
 「電話、大丈夫だった?」
 綺麗な日本語に、少しだけ青色が入った瞳。真っ黒な髪の色と、ほんの少しだけ日に焼けた肌色からして、彼は日本人なのだろうが、すらりとした長身と、彼を包み込む空気が、どこかしら別の国の人間だと感じさせる。
 「…………劉黄か、どうした?」
 振り返れば、段ボール箱二つを重ねて床に置いた劉黄は、ゆっくりと近づき、大きくため息をついた。
 「さっきの電話、ご両親?」
 ぴくりと、少年の肩が揺れた。
 「ちゃんと日本に行くって言ってなかったの?」
 「………言ったさ」
 「それじゃあ、帰国って言うのは?」
 鋭い指摘だ、としか感じられなかった少年は、口を少しだけ開けては、やがて言葉を押し殺した。
 「なんでもないし、気にしないでほしい」
 そうだ、なんでもないのだと、自分に何度も言い聞かせた言葉だ。電話の相手が戸籍上の「父親」である人物だとか、彼から帰国しろと言われたのが、実は今回でもう何度目になるのかわからないだとか、なんでもないのだと、何度も自分に言い聞かせた。
 彼もまた、母親と同じなのだと、少年、楼は思った。
 「他人の家の事情に深入りはしないつもりだけどさ、言うべきことはしっかりと言っておかないと、後々厄介ごとやめんどくさいことになると思うんだけど」
 はっきりと言った劉黄に、楼は意味が分からなかった。
 「事情も何も知らないけどさ………日本の高校に留学するって、ご両親にはちゃんと言って、了承は取った? 自分で全部何もかも決めて、それで大丈夫だなんて勝手に決め込んでない?」
 「そんなことは」
 『ない』とは、言いきれなかった。ぐっと、歯を食いしばる。劉黄の言っていることは、決して間違ってなどいない。
 「そんなことないがもしも本当だったら、今の電話で『帰国』の言葉は出てこないと思うな? 少なくとも、楼君の留学、ご両親は許してないと思うよ?」
 ちらりと、劉輝は段ボール箱の中に、乱雑に積まれた一冊の本を目にする。日本で言うところの「中学校の卒業アルバム」だと判断し、よほど手に取り、中身を見たいとも思ったが、やめた。
 「父は」と、続けるように、楼は小さな声で言った。
 「父は、あの人は許してくれた。自分の好きなことを一生懸命やればいい。周囲の目なんて気にするな。そのことに対して反対できるほどの権限を親はもっていないって……………でも、母さんは」
 どうだっただろうかと思い出そうとしても、一向に思い出せない。
 血が父親しかつながっていない妹は、どこか不安そうな目をしていた。
 父親は、頑張れとだけ言ってくれた。
 ならば、母親はどうだったのだろうかと、楼は頭を動かす。が、思い出そうとすればするほど、思い出せないのだ。故郷を発つあの日の母親のことを、どうしても思い出せなかった。
 「まあ、いいさ」と、劉黄は重い腰を上げて言った。
 「俺はよそ様の家のことについてとやかく言うつもりはないし、文化も違えば考えも違う所出身の楼君に、どうこうしろなんて言えないからね」
 どすんと、段ボールを床に置いて一息ついた劉黄は、やっとの思いだった。何が入っているのかを聞こうとは思わなかったが、かなり重かったのだ。
 「劉黄はさ」
 「うん、何?」
 「今の学校に行くって自分の親に行って、反対されなかった? もっと別の所があるだろ、とか」
 俯きながら言った楼の声は、どこか不安そうだった。
 「だったら、本人に聞いてみる?」
 「…………へっ?」
 にやりと笑った劉黄に、楼は意味が分からず、手にしていた受話器を床に落としてしまった。







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