* 「とってきてあげるよ」 そう言うとナナシは、助走なしのジャンプで一番背の低い──低いと言っても2メートルはある──木の枝にぶら下がり、腕の力だけでいとも容易く、器用に登り上がっていく。 黄色や紅色に色付いて落ちた、渇いた葉のパリパリッという快音は、地上に残されたアンディと小さな少年の耳に、気持ち良く残った。 ナナシとアンディは買い出し帰りに、近くの公園の並木道へと寄り道して散歩を楽しんでいた。 その途中でひとり、きょろきょろと辺りを見回したり、しきりに空を見上げてうろたえている様子の少年を見かけたのだ。目の悪いアンディは気付かなかったが、少年の視線の先を追ったナナシは、彼が困っている事と、なぜ困っているのかをすぐに突き止めることが出来た。 手放してしまったのだろう。木のかなり上の方の枝に、星型の青い風船が引っかかってしまっていた。 だからナナシは今、木登りをしている。 まるで猿のように……と言えばナナシは悲しむかもしれないが、次々と適した足場や手の置き場を見つけ、すいすいと登り上がるその姿は猿そのものだとアンディは心の中で思った。 彼女のすごいところは運動神経だけでなく、直感力と言うものなのかもしれない。 少年も圧倒されながらも、キラキラした目でナナシの動きを見つめている。 建物の2階をゆうに超えるほどの高さまであっという間にたどり着き、風船の紐を掴んだナナシはふたりの方に目を向けて微笑んだ。少年は、すごい!すごい!と大はしゃぎで喜んで拍手を送る。 「ねえ、あのおねえちゃんすごいね!! オリンピックのひと?! おにいちゃんもオリンピックのひと?!」 少年は興奮気味にアンディの足もとにまとわりついた。 笑わないからか、あまり子どもに懐かれることのないアンディだったが、この人懐こい少年を見て、少し、懐かしいと思った。 10年程前になるだろうか。いとこがまだこの少年くらい小さかった時、たまに顔を合わせるそのたびに、こうやって同じようにくっついてきたのだ。 アンディは腰を落として少年の目線の高さに合わせると、人差し指を口の前に立て、小声で 「ひみつ」 と囁いた。 おしえておしえて! と、騒ぎたてる少年を横目に、アンディはナナシの方を見た。 彼の目には木の上のナナシの顔は薄ぼんやりとしか見えなかった。それでも、すぐに降りてこようとしないナナシの考えがどうしてか、手に取るよう分かってしまった。 ──着地点を探してる。 高所平気症と言う言葉を聞いた事がある。高さに恐怖を感じない、ある意味危機感が麻痺している異常感覚の事だ。彼女はおそらくそれだろう。 飛び降りるには、彼女は今、常識的には考えられないくらいの高さにいる。自殺行為と言っても過言ではない。ただ、カンダナナシと言う、特殊な訓練を受けた人間ならやりかねないし、死にもしないとは思うのだが……。 ナナシに託された分も含め、大事に抱えていた買い物袋達を少し離れた場所に丁寧におろすと、アンディは少年に 「オリンピックの人になるための大事なものだから、これちょっと守ってて」 と伝えて、引き離した。 ナナシのいる木の下に戻るとアンディは無言で腕を広げた。 「いくよー」と言うナナシの声が聞こえた3秒後には……ものすごい衝撃とともに、当たり前のようにバランスを崩して背中から地面へ倒れ込んでいた。 「わ! ごめん、兄貴の時の感覚で飛び込んじゃった。大丈夫?」 「天使が舞い降りてきたかと思ったよ……ナナちゃんこそ怪我無い?」 「あー、はい。おかげさまで」 ナナシは苦笑いをしながらアンディの上から降りて、目を輝かせながら荷物の番人をしている少年のもとへ急いだ。 「はい、どうぞ。これでもう離さないね」 風船の紐を輪っか状に結び、少年の小さな腕へはめてあげた。すると少年はひそひそ声で「おねえちゃんオリンピックのひと……?」と尋ねてくるので、ナナシは悶絶し、つい、振り回すように抱き上げた。 「ひみつ!」 きゃっきゃと戯れるナナシと少年の姿を無表情で尊びながら、アンディは頭の中で、リョウイチやレイゴなら倒れずに彼女をキャッチ出来たのだろうか、角度的に悪かったかもしれない、木からの距離をもう少し離しておけば、いやむしろ彼女ひとりで着地した方が安全だったかもしれない……などと、無意味な一人反省会を開いていた。 「アン、いつまで寝てんの。この子家まで送るよ」 日が沈むのがいつのまにかとても早くなっていて、気が付けば、夕焼けの橙と紫が綺麗なグラデーションとなって一面に広がっていた。 「ひとりで遊んでたのか」 「あのさ、おうち近いからさ、風船だけもらいにいったの」 何かのイベントが終わった後だったらしい。向かいの広場で飾りのない金属のアーチや看板がぽつんと佇み、その下には外された飾りの数々が控えめに寄せられていた。 ナナシとアンディが荷物を持とうとすると、両手が自由になった少年はふたりの間にそっと割って入り、左手でナナシの右手を、右手でアンディの左手を握った。 自分は末っ子で、兄達に甘えてきた立場だったナナシ。だから少年の気持ちがよく分かるし、こうやって甘えられる立場になって、ふつふつと喜びが込み上げてくる。憧れた兄に、少しは近づけただろうか。 「風船持って帰ってどうするの?」 「あのね! いもうとにあげる! もうすぐうまれるんだって! ぼくおにいちゃんになるんだよ! それでね、ママ、おなかおっきくて大変だから、ぼくが代わりに風船もらってきたんだよ!」 「すごーい! 頼りになるかっこいいお兄ちゃんだね!」 「それならオリンピックのひとにもなれるな」 「ほんと?! やったー!!」 そうやってたわいもない話をしながら、少年の歩調に合わせてゆっくり歩いていたが、彼の家は本当に近かった。10分もしないうちに到着してしまったのだ。 そして、別れ際はあっけなかった。 少年は家を見た瞬間 「ありがとー! じゃーね! ばいばい!」 と、繋いだ手をブンと離し、大きな声で、ただいまー! と家の中へ飛び込んでいった。 どこからか、コオロギの鳴き声が聞こえる。 突然空いてしまった右手と秋の空気に、小さな寂しさを感じずにはいられなかった。 「私たちも帰ろ」 ナナシがそう呟くと、アンディは静かに空いた左手を差し出した。 「よければ」 ナナシは目を丸くして、彼の顔と手を交互に見て、少し考えてから反応を返した。 「……んじゃ、今日はお言葉に甘えて」 寒いねー、などと言いながら、ナナシは軽くなった両手をポケットの中に入れてアンディの数歩先を足軽に歩く。 荷物を両手で持ちながら、その背中をぼんやり見つめるアンディは、彼女には一生敵う気がしないとただただ、思うのだった。 |