10
  どのくらいそうしていたかは知らなかったが異様な肌寒さで目が覚めた。一瞬、今までの出来事が夢であったかのような錯覚がしたがもう一度教室で目が覚めた事でその考えは儚くも消え去った。

教室内はすっかり暗くなっていて、今一体何時なのかも分からなかった。意識がハッキリしてくると同時に有沢は自分の服装に目をやった。何故かちゃんと衣服を着ていることに違和感を覚えて、すぐに雛木の存在を思い出した。

「雛木?」

 隣には雛木の姿は無かった。
 けれど、有沢から少し離れて、雛木の姿はあった。
 雛木は自分の机の傍に立っている。有沢に背を向けて、雛木は机の前に佇んでいた。

「雛木」

 もう一度呼びかけると雛木がゆっくりとこちらを振り返った。有沢は目の前にあった誰かの机に手をかけて身を起こした。腰が異様に痛いのは気のせいじゃないんだろう。

「……おはよう、有沢くん」

 そう言う雛木の表情には何かが欠落しているような気がした。有沢は雛木に一歩ずつ近づいた。

瞬間、背筋がぞっと総毛立った。

自分の中にある本能が雛木に近づく事を許さなかった。有沢は足を止めて雛木の様子を無言で観察した。

「どうしたの? 有沢くん、怖い顔して……」
「雛木、それは一体、何だ」

 雛木が左の手に握っていたものを見て有沢は戦慄を覚えた。

「……ああ、これ」

 吐き捨てるように言う雛木の顔はやはり感情に乏しく、無機質な物体を思わせた。雛木はその手に握っているものをちらつかせながら続けた。

「エサだよ、お兄ちゃんの。女をあげるのは初めてだからさ、嫌がられたらどうしようかなって思ったけど案外美味しそうに食べてるから安心した。良かったね、お兄ちゃん」

 雛木は机に置かれた自分の鞄を覗き込みながら、それは嬉しそうに呟いた。

「だからそのエサってのは何なんだよ! それとその鞄も……」
「見て分からないの? 手首だよ」

 雛木は切断された手首からその上をちらつかせながら、さも無邪気にそう言った。女のものと思われる手首にはどこかで見た、銀色のブレスレットがちゃらりと音を立てて揺れた。

「有沢くんも見たでしょ。さっきのヒステリックな女。ムカついたしね。丁度お兄ちゃんもお腹空いてたみたいだったから、バラして御飯にした」
「ふざけんな! その鞄は一体……」
「僕のお兄ちゃん。恥ずかしがりやだから、外には出てきてくれないんだよ」

 雛木がまたあの天使のような笑顔でにっこりと笑うと、口の開いた鞄の中に手首を放り投げた。鞄の中から何かを潰すような音がしたかと思うと、何かを食べるようなくちゃくちゃという嫌な音がしてきた。

 もうそれ以上、鞄に近づく勇気は無かった。

「信じられないなら、中覗いてもいいよ」

 それを実行する勇気も無い。出来ないと分かっていながら、そんな事を言っているに違いないのだ。
有沢は何も言えずに只呆然とその光景を見つめるほか無かった。

「どうして?」

 積もりに積もって出た言葉が、その一言のみだった。震える声で有沢がそう呟くと、雛木はまた微笑みかけてきた。

「泣きそうな顔しちゃって、可哀想。ごめんね、有沢くん。大好きな有沢くんを怖がらせるなんて、僕、最低だよね。うん、有沢くんのことは好きだから教えてあげるね」

 雛木は後ろで手を組んだ姿勢のまま、ちょこんと小首を傾げて有沢の目の前に立った。

「お兄ちゃんだってなりたくてこんな風になったわけじゃないんだ。でも、あいつらが好奇心でいちいち近づいてくるんだもの」
「あいつらって、桐島とか船本の事か?」

 雛木はしばらく何も言わなかった。

「……いちいち名前なんて覚えて無いよ。勝手に僕に欲情して、僕を一度抱いたくらいで勝手に所有物になったとか思いこんでる人だっているしね」

 それは桐島の事なのか、それとも船本なのか――考えるのももはや恐ろしかった。何故か、桐島が船本を殺している姿が容易に想像できた。でもきっと、雛木は何の指示も出していない。只、桐島が勝手にやったこと。そうすれば雛木が手に入ると思ったから……、でもそんな桐島を責める事は今の自分にはできない。だって、その気持ちが痛いほどよく分かるから。こんな簡単な答えに何故自分は今まで気がつかなかったんだろう。

「勝手に殺し合うのは構わないんだけどね。どうせ死ぬなら餌になって欲しいなぁ、最近お兄ちゃん、たくさん食べるようになったから……」

 俺はごくり、と唾を一つ飲んだ後雛木に恐る恐る問いただした。

「じゃあ、俺を食うのか?」

 雛木が目を丸くした。

「どうして? そんなことしないよ? だって、僕、有沢くんが大好きなんだもの。お兄ちゃんと同じくらい、好きになっちゃったから……そんな事はしないよ」

 言いながら雛木は無邪気らしく首を横に振った。微笑を浮かべる雛木の顔を見ているうちに全身を掻き毟りたくなるような、衝動に駆られてくる。有沢は、ただ、虚しく雛木の顔を見つめ返すほかなかった。

「けど食べ物がなくなったらお兄ちゃんは死んじゃう……。そうなったら僕は独りぼっちになっちゃうから」

 言い置いて雛木は張り詰めた表情を浮かべて有沢を見つめた。

「……じゃあ」

 有沢は再度、唾を飲み込んだ。

「無関係の人を、殺すのか? さっきの、女の子みたいに」

 雛木は何も答えなかった。

「雛木、お前だってそんな事はしたくないんだろ。だったらさ、別の方法を考えようよ。その、お兄さんは人間の肉しか食べないのか?」
「うん」
「じゃあさ、別の肉とか与えてみればいいんじゃないの、人間じゃなくてもっと違う」
「……有沢くん」

 言い終えない内に、雛木が一歩有沢の目の前に近づいた。雛木は有沢の手をゆっくりと取ると、憂鬱そうな視線でこちらを見上げた。

「駄目なの。これはどうする事も出来ない。だから……ね。有沢くん、お願い、今日見た事は忘れて。お兄ちゃんは僕のたった一人の家族なの。僕が守ってあげるしかないんだ」
「ひ、雛木」

 言い終えぬうちに雛木が視線を落として、はらはらと涙をこぼし始めた。張り詰めていた糸が切れたように雛木はそれまでの厳しげな表情から一変し静かに涙を流し始めた。

「ごめんね有沢くん。さよならだよ」
「雛木、待ってくれ」

 雛木の言葉を遮るように有沢は叫んだ。

「そんな事言うなよ。お願いだから、これで最後みたいな言い方はよしてくれ。……なあ、雛木。だったら俺が何とかするよ」

 自分でも何を言い出すのかと思っていた次から次へと喉を通って出る言葉を止められそうにも無かった。有沢は精いっぱいの強さで雛木の手を握り返す。雛木は不思議そうに目を丸くして見つめ返してきた。

「……どういう事? それって」

「食料がいるんだろ? なら俺が調達してやるよ、お前一人が手を汚す必要なんて無いし」

 自分の言っている言葉なんてほとんど聞き取れないくらい饒舌に喋っていた。雛木は有沢の言っている言葉をほとんど聞いていないような、呆けた表情を浮かべているように見えた。目を細めて、どこか遠くを見るような視線。そんな雛木の顔が益々有沢を焦らせる。

「だから、雛木」

 知らないうちに勝手に言い終えると有沢はその場に膝をついたかと思うとそのまま前のめりになって手をついた。

「お願いだから……俺を置いてかないでくれよ」

 全身が震えていた。雛木が有沢の肩にそっと手を置いた。

「そんな……有沢くん。置いていくなんて……そんな事。ただ、僕は、君を巻き込みたくなかっただけだよ」

 ほとんど反射的に有沢は雛木の手を掴んだ。

「雛木。俺は何だってする。嘘じゃないさ、何だって出来るよ」
「有沢くん……」
「お前の兄貴の事だって、俺が何とかするよ。簡単じゃないか。それに面白半分で兄貴に近づくヤツらだっているんだろ? 許せないよ、そいつら」

 それから有沢は立ち上がった。

「だったら、そいつらにも復讐……いや、これは単なる復讐なんかじゃない、贖罪さ。そいつらに贖罪させるんだ。雛木、俺にも手伝わせてくれないか?」

 しばらく雛木は黙って横に視線をずらしていたがやがてゆっくりとこちらのほうに視線を向けてきた。

「……簡単な事じゃないよ?」
「分かってるよ」
「本当に、僕を助けてくれるの?」
「ああ、もうこんな生活うんざりなんだよ。お前しか、俺の生きる目的は無いよ」
「じゃあ……」

 一旦、言い置いて握っていた有沢の手を雛木が両手で強く握り返してくる。有沢の顔を見上げながら雛木が先程の言葉を続けた。

「僕を、守ってくれるんだね」

 これまでに何度か見せた、妖しげな微笑を雛木は再び、今度ははっきりと見せてくれた。妖艶な口元が歪んだ笑みの形を作るものの、その生温い光を放つ瞳は全くといっていいほどに笑っていないようだった。

 けどそれは、残酷なほどに美しかった。この美しい皮を剥いだ先には何が潜むのだろうか、それは醜悪な素顔かそれとも……。

 雛木の頬に手をやった。爪を立てた。爪が痛々しいほどに食い込んで、皮膚を突き刺す感覚がしたがそれでも止めなかった。雛木の病的なまでに白い頬に、赤い鮮血が滲んでも尚止めようとはしなかった。雛木も雛木でその白い歯を覗かせてただただ笑うばかりだった。そうすると雛木の姿が一層尊く、神々しいようなものに感じられて有沢はまたぺらぺらと言いたくもない様な事をしゃべり始めた。

「ああ、いいよ、雛木。守るよ。俺、お前を守るよ。頼まれなくても守るよ。お前に利用されてもいいよ。それで用済みになったらエサになってもいいよ。だからそれまでは……」

 雛木がにっこりと笑った。
 つられるように笑ったけど、どういうわけか有沢の目には涙が浮かんでいた。何でだろう。不思議で仕方が無い。雛木と一緒にいられて嬉しいはずなのに。

「約束だよ」

 その一言の中に無数の意味を感じて、有沢は雛木から手を離すと目をぎゅっと瞑った。もう引き返せないところにまで来てしまったのだとただ思った。後悔は無い、今の自分にとって何よりも恐ろしく感じたのはこのまま雛木に捨てられてしまう事だったのだから。

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あーあ。
ここから有沢さんと雛木様の
長い長い因果関係が始まるっちゅうこった。

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