02 |
次の日、有沢は噂の渦中の人物である雛木が姿を現すのを待った。待ったと言うよりは無意識のうちに彼を待ち望んでいたらしかった。 「おはよう、雛木くん」 「うん、おはよう」 どこも変わった様子等微塵にも見せずに雛木はいつもの天使だと比喩される笑顔を振りまきながら席に着く。雛木の席は有沢の斜め前にあり、ここから見えるのは彼の後姿とほんのわずかな横顔のであった。 「有沢、有沢」 ふと有沢の背中を指の先でツンツンと突付いてくる奴がいた。どうせ山崎がまた宿題でも忘れて、写させてくれと頼みにでも来たんだろうとすぐさまに思った。 「やべー、グラマーの宿題忘れちゃった。俺今日当てられるし、ちょっと写させてくんねえ〜?」 予想済みの答えだけに反応は早い、有沢は返事する代わりに机の中からノートを取り出して無言のままずいっと差し出した。 「わりい、わりい。あんがとな。多分俺当たるのこの箇所だし、ここだけ写しゃあ問題ねえだろ? あ、でも念のためにその前後も書いとくか!」 「……全部書けばいいだろ」 「やだよ、めんどくせえし」 「その一箇所だけとも限らないだろ?」 「……そだね」 「ああ。だから全部写しとけって」 ふと、強い視線を感じて有沢はすぐに正面を向いた。 「ん、どした?」 「あ……いや。何でも」 有沢は何者の視線も無い事を、周囲を見渡して確認する。視界の端に映る雛木は別の生徒と楽しそうに談笑をしているのだから、単なる自分の思い過ごしに違いなかった。 気のせいか、と有沢はもう一度背後の山崎の方を見た。 「うえ、やっぱこのミミズみたいな字、俺には読めねえや。普通の文字で書いてよ!」 「――筆記体、な。慣れたら断然こっちの方が早く書けるし楽だぞ。だから無理してでも覚えろって……」 ぶつくさと文句を垂れながらも山崎はノートにペンを大急ぎで走らせ始めた。休み時間のうちに終わらせたいが故か、ノートの字はお世辞にも綺麗とは言えない。後で読み返して読めるのかどうか不安になったがそこまで指摘するのも何だか無粋な気がしてそれは止めておいた。 「なぁなぁ、有沢」 「ん?」 「雛木ってさ」 その言葉に少し胸の奥がざわめいた。 「何でいつもあの鞄、大事そうに抱えてると思う?」 ペンを動かすのを止め山崎が静かな声で言った。有沢は横目で、本当に一瞬だけ雛木の机を見た。そこに雛木の姿は無い。少し視線を動かすと、雛木が通学用の鞄を抱えてクラスメイトと話しているのが見えた。雛木にばれないようにすぐに目をそらす。 「さぁ。よっぽどのもんが入ってるんだろ」 極めて冷静に取り繕うように有沢が答えた。 「でも常に手放さないとか、変じゃん」 山崎の声の大きさが若干気になった。有沢は視線を気にしながら、声を更に潜めながら返した。 「何か事情があるんだろ、あんまりいじってやるなよ」 有沢は心の中で山崎が早いところ興味を無くしてくれるように願った。山崎はそれでも不服げな表情で手を止めたままだ。その様子がいい加減じれったくなったのか、有沢は思わずつっけんどんな声を出す。 「本人に直接聞けばいいんじゃないか。こんなとこで討論してるより早く結論が出るだろ」 それが出来ないと分かっているからこその返答であった。意地の悪い返しだとは思ったが、山崎はようやく諦めてくれたらしい。 「んなこと出来ねえよ。雛木、嫌がるじゃん」 「なら、余計な詮索するな」 たしなめるような口調で有沢が言うと山崎は一人で頷いた後、再びノートと睨めっこを始めた。 有沢が雛木に対する不信感を募らせる要因の一つは、彼がいつも大事そうに抱えて手放さない『鞄』の存在だった。 有沢はもう一度、雛木を一瞥した。雛木は楽しそうに友人と談笑をしている。相変わらず、片方の手には学生鞄を下げながら。 雛木は何故かいつでもその学生鞄を手放そうとしなかった。 何の変哲も無い鞄で、デザインもごくありふれたショルダーバッグだ。どちらかといえば女子生徒が持っていそうなデザインの紺色の学生鞄で、何てこと無い普通の鞄なのだが。 雛木はその鞄を移動教室の時は勿論の事、トイレへ行くときも、昼食を買いに行くときも……鞄を手放しているのは授業中くらいのもので、常に自分の目につく場所に置いてあるのだった。 体育の授業なんかは持ったまま受けようとした事だってある。さすがに教師に止められてしまったが、悪びれる様子も無く雛木は大きな瞳をぱちくりとさせて言った。 「駄目なんですか? どうしても?」 そう言う雛木の様子は本当に心から懇願しているように見えた。上目遣い気味に見上げるその瞳に捕らえられ、教師はたじろいでいるようだ。 「駄目というか……授業を受けるんだし、やはりきちんとした態度で受けてもらわないと……」 少しにやけながら、もごもごと口篭る教師の姿は少し……いや、結構痛々しかった。 「じゃあ、僕はこの授業の単位いらないです。見学しててもいいですか?」 拍子抜けするほどあっさりと雛木が交渉を放棄してしまったので、教師も焦ってしまったらしい。 「何もそんなことしなくていいだろう、そんなに大事な鞄なのか? 一時間ぐらいの間でも手放せないほどの?」 雛木はこくんと頷いた。 「はい。せめて僕の目が届くところにないと、駄目なんです。ですから、先生の許可が頂けるまで、僕はそこで座ってますね」 にっこりと笑顔で言った後、雛木は踵を返して走り出した。 そんな事もあったし、他にも似たような事例がいくつもある。そして今まで、誰一人としてその鞄の中身に関しては追及したことはない。はじめのうち何度かは、軽く問いただす事はあったが本人がそれに関しては口を閉ざしてしまい、結果、雛木が悲しそうな顔をしたりするので皆それ以上聞くのは止めてしまう。生徒達がそうなのは分かるのだが教師までもが同じように引き下がってしまうのだから、不思議というか不可解である。 とにかく雛木はその一見すると何の変哲も無い学生鞄をいつでも大事そうにして、いつも自分の傍に置くようにしているのだ。 一体あの鞄には何が入っているというのだろうか。 当然のように気になって何度か雛木の動向を見張ったが、鞄から出てくるのは教科書に筆箱、携帯電話にノート、財布……これといっておかしなものは何も出てこない。 授業のチャイムが聞こえ、皆が席に着き始めた頃、有沢はもう一度雛木とその鞄を見た。 雛木は相変わらず見劣りする事の無い愛らしさを称えている。だけどそれと同時に、得体の知れない醜悪な何かを感じるのも確かだった。 「有沢、何怖い顔してんの?」 「え?」 後頭部を軽くはたかれて振り返ると山崎がいつもの悪戯っぽい笑顔を浮かべている。 「元々こういう顔なんだが」 「そうだっけ。アハハ。まぁいいや。これ何て読むの?」 その日は何故かずっと斜め前の雛木ばかりが気になって仕方が無かった。雛木はやっぱりぼーっとした顔で、肘をつきながら興味が無さそうに授業を聞いている。時にはあくびまで交えながら、一応ノートに何かを記しているような素振りは見せる。 「ほいでェ、俺っちの実家には通学路にしょっちゅう蛇が出ての……」 この教師は田舎の出身らしく訛りがかなり強い。本人は出さないよう頑張っているつもりなのだが時々何を言っているのかよく分からないと言うのが生徒達の本音であった。教師は昔を懐かしむような調子で長々と語り始めた。 やれやれまたか、と生徒達の表情に呆れの色が見え始める。この教師は悪い人では無いのだが、一度話が脱線すると中々元には戻ってくれない。本人の満足がいくまで語り終えないと授業を再開しようとはせずに、その間授業は中断させられっぱなしなのだ。 「んでまぁ、アオダイショウちゅうでかーい蛇がなぁ……道路にデーンと……」 有沢はため息交じりに、今の授業とは違う、大学の為の勉強道具をコッソリと机から取り出した。付箋の付いたページを見ながら有沢は教師の話が終わるのを待とうとした。 「お前。知っとるか? それはそれはムチャクチャ綺麗な女なのよ。上半身だけは本当にべっぴんさんの女性だでな〜ぁ」 気が付けば蛇の話から女の話に移っているのに有沢は気が付いた。 「ンでな。俺らもまだ青臭いガキだったけ、その窓から覗いてる女の人いっつも見つめて綺麗やなぁ言い合ってたんやけども。でもなぁ不思議な事に、みんなその人の、上半身しか見た事無くての……」 珍しくクラスが聞き入っていると思えば、怪談めいた話を教師はしているらしい。聞くつもりなどなかったのだが有沢もつい耳を貸してしまう。 「そん人ば、いっつも窓から学校帰りの俺達見て、ニッコリ笑いながらおいでおいでしとるのよ。綺麗な笑顔と、本当に澄ん声でね……もうこの世の者とは思い難いくらい、美しかったよ。俺らは魅入られたように女の人に近づいたよ」 一同が唾を飲み込む。普段ならば興味の無さそうな顔をしている筈であろう生徒までも、続きを催促するかのように見上げているのだから不思議だった。 「けどな、途中でオカシイって気付いたんよ。何で誰もあの人の全身見た事無いの? っての。そういえばその女の人が出歩いとる姿なんて俺らだーれも見てないし。こんなせまい村ん中で、おかしいよなぁって」 「で、どうなったの?」 女子生徒の一人が先を急かした。 「んー……何かそこで怖くなってみんな無我夢中で逃げちゃったのぉ。その事実に気付いてから怖くて女の人のいる家に近づこうとは、ようせん」 「でもそれだけなのに可哀想ですね、その人も。只単に全身を見た事が無いってだけで」 「まぁ今にしちゃそうとも思うけどなぁ。こんな話知らんか? 神話に出て来る化け物でなぁ、上半身はめちゃくちゃめんこい女の人なんやけども、下半身は蛇っちゅう化け物」 生徒たちからの返事は無い。 「『ラミア』ちゅうんじゃなかったけか。美しい声と美しい姿で男をだまかして、エサにしよるんよ。まぁ神話もたくさんあるからのお、神話によって姿や性質は異なるっちゅーが、神話にはこの手の化けモンがようさん出て来る。女は身を滅ぼす、っちゅう昔っからある教訓みたいなもんかな。がはは」 美しい声と、姿……知らず知らず教師の言葉に耳を傾けていた有沢はそのどこか引っかかる響きに違和感を覚える。シャープペンのキャップを唇に押し当てながら有沢は何の気なしに雛木の方を見た。雛木は豪快な笑いをする教師を一瞥した後、またいつものボンヤリした表情で遠くの方を見ていた。 次の時間、有沢は何故か酷い頭痛を覚えた。何の兆候も無しにこんな頭痛に襲われるのはこれが初めてのように思う。堪えようとしたのだがそれでも我慢できないほど、痛みは激しさを増してゆく。果ては耳鳴りまでしてくる始末だ。 座っているのですら辛くなり、有沢はその場から立ち上がった。 「山崎、すまん。俺次抜けるわ」 「何? 具合悪いの?」 「何かすっげぇ頭痛い、保健室行くって言っておいて」 心配そうに覗きこむ山崎を置いて、未だ止んではくれない頭痛を抱えながら有沢は保健室目指して歩いた。ふらつく足取りでようやく辿り着くと、有沢は引き戸を開ける。 「あー、利用者はそこに名前書いて……あと温度測ってね、温度計はそこに――って、有沢くんじゃないの。どうしたの、真っ青な顔で」 保健室の女教師は驚いたように目を見開いている。彼女は奈々子先生と呼ばれ生徒達から慕われる美人教師だ。実際いくつぐらいなのかは不詳だが、まだ若く見える容姿とそのフランクな喋り口調から、男女問わずに人気がある。まだ独身という情報を得てからは本気で口説きにかかる男子生徒まで出ている程だった。その度に、軽くあしらわれている場面なんかもよく見られると言う。 普段なんかは彼女目当てに仮病の男子生徒で溢れかえっている筈の保健室が今日は珍しくガランとしている、ベッドに至ってはサボりの生徒で常に満員だったりもするのだが。 「何か……いきなり頭割れそうに痛くなったんですけど。もう立ってるのも限界で」 「アンタみたいガッシリしてても体調崩すんだねぇ。どうせ何か拾い食いでもしたんでしょ」 「痛いのは頭だってば。奈々子さん、ベッド借りていいっすか?」 「いいけど、私これから一時間ほどここからいなくなるよ? 平気?」 もう話すのも辛くなってきてしまい、ほとんど適当な相槌で返しながら有沢はベッドの上になだれ込んだ。 「鍵開けてくからね、体調悪い人他にも来るかも知れないし。あー、そうそう、起きたら利用者んとこ名前記入忘れずにね。あと体温計も……ってもう寝てる? 早っ」 奈々子はベッドの上で死んだように眠る有沢を見つめながら呟いた。横になった途端、嘘のように頭痛が消えて代わりに強烈な眠気が襲ってきた。痛みと引き換えなら、それでもいいと有沢は押し寄せて来る眠りの誘いに乗った。 ――夢? 目を覚ますと有沢は自分の部屋に居た。いつも目にする、見慣れた風景。そして自分は部屋のベッドの上で寝ている。 ――こんなところで寝てる場合じゃない 「勉強、しなくちゃ」 身体を起こそうとするのだが腹部辺りに何かが蹲っていて、起きる事が出来ない。その塊はもぞもぞと動いたかと思えば、有沢の方に向かってきている。 ――猫、か犬か? 違う、これは紛れも無く人だ 陰りを帯びていたその塊の輪郭がはっきりと浮かび上がるにつれて、そいつが人間であることを知った。そいつはこちらへ向かい、手を伸ばした。 不思議と恐怖心等は無く、有沢はその手を頬に受けた。添えられた手は非常に冷たく、まるで氷のようだ。有沢は次第に見えて来たその人物の顔を見た。 「雛木……」 名を呼ばれて雛木はニッコリと笑った。それまで逆光ではっきりと見えなかった筈なのに、雛木と分かるや否やそれは意志を持ったように、雛木としてそこに存在していた。 端正な唇を歪めて微笑む雛木の顔はそれこそこの世の者とは思えない程に美しく、妖艶でもあって同時に薄気味悪くもあった。雛木は愛しげな表情で、有沢の髪を撫でたかと思うと耳元で何かを囁いた。 「 」 「え?」 はっきりとは聞きとれなかった。瞬きをしながらもう一度問いただしてみるが、雛木はやはり妖しげな微笑を口元に称えたままその烏の羽根を思わせる程の黒い瞳でこちらを捉える様に見つめて放さない。 「――ねえ」 雛木は、今度は聞きとれるほどの声でそう言った後、無邪気らしく笑った。 「してくれる?」 雛木の瞳にはまるで野猫のような狡猾さが潜んでいて、一旦捉えた獲物を掴んで離そうとしない敏捷性があった。そして、彼の言葉にはまるで神経性の毒でもあるようだった。雛木の言葉に刺された有沢は、脳の髄まですっかり毒によって侵されてしまったのだろうか。魅入られたように自分から雛木を求めた。左頬あたりに雛木の豊かな黒髪が少し触れ、こそばゆい。 「うれしい……」 嬉しそうにそれに応じる雛木は、有沢からの口づけを何度も受けた。馬乗り状態になって、今度は雛木から有沢と接吻を交わした。何度も角度を変えながら、互いに舌を絡ませながら、呼吸するのも忘れ、夢中で何度も唇を貪り合った――、ふと有沢は全てに疑問を覚える。ようやく毒が抜けて来たのかもしれない。 上に重なった雛木の両肩を掴んで自分から離す。 「どうしたの?」 「今、俺、何してた……」 雛木は小首を傾げながら不思議そうな顔をしている。普段と変わらない、愛くるしい笑顔で雛木は続きを催促するように有沢の制服の肩を引っ張った。 「何、って。変な事聞くんだね。一から話そうか?」 そう言って雛木はクスクスと蔑むようにして笑った。 「……お前、一体誰だ? 雛木? 雛木、なのか……?」 雛木でなければ、こいつは何だと言うのだろうか。自分で吐いた台詞に有沢は戦慄を覚えた。自分の上で雛木、だと思われるその人物は平生と何ら変わりのないあどけない笑顔を浮かべながらその問いには答えない。 よくよく見れば、その大きな瞳は断じて笑ってなどいなかった。 「何言ってるの? 僕じゃ無かったら、誰?」 「……やめてくれ」 今目の前に居る、この、雛木の姿をした雛木では無い別の何かが嬉しそうな顔で有沢の背中に手を回す。逃れようにも身体がベッドと一体化したように離れてくれそうにない。 「――どうして? 僕はもっと有沢くんと仲良くしたいのにな……」 有沢に身を預けながら雛木が猫撫で声で囁いた。気付けば、白い筈の壁に錆が浮かんでいる。それは赤茶色で、錆と言うよりは血を引きずった跡にも見えた。いつしかそれは壁だけでは無くまっさらなベッドにも伝染してゆく。 少しずつその染みのような赤錆が浮き上がるごとに、何かの軋む音がどこからともなく響き渡ってきた。金属音のようなそれは悲鳴にも聞こえて、有沢は耐えきれなくなり耳を塞いだ。 「有沢くんはさ……クラスのほかの人たちとは、違うんだよね。どう違うのかな? 説明するのはむつかしいけど……。けど、有沢くんって、決して人に媚びないし、周りの低レベルな会話に合わせて馬鹿な事言わないし、何かねすごく、賢い人だと思うんだ」 「やめてくれっ!」 情けないほどに泣きそうな声で訴えるも、今度は天井から血のような赤い液体が壁を伝って溢れて来るのが見えた。ビチャビチャと水をはね上げる音を残しながら、有沢はそこで誰かに名を呼ばれるのを聞いた。 「……くん」 有沢は今度はちゃんと保健室のベッドの上で目が覚めた。天井を見て一安心すると、有沢すっかり荒くなってしまった呼吸をまずは整えようとする。 「有沢くん……」 「――っ」 思わず上半身を起こしてその声の主に凍りついた。自分はまだ夢の中にでもいるのかと勘繰ってしまった。 「凄くうなされてたみたいだけど、大丈夫?」 「雛木……お前、何でここに」 知らずのうちに、シーツを強く握りしめながら有沢は心配そうに顔を覗きこむ雛木を見つめ返した。そして雛木の傍にはやはり、あの黒い鞄が置かれている。 「ちょっと風邪気味だったから。そしたら隣で有沢君が苦しそうな顔してたし……」 そう言う雛木は本当に心配そうな顔をしていて、今しがた夢で見たような邪悪さの欠片さえ感じられない。やはり夢は夢だ、と自分に言い聞かせるようにして有沢は額に浮かんだ嫌な汗を指先で拭いとった。 「顔、真っ青だよ。平気?」 そう言って心配そうに有沢を見る雛木は本当に心配している風に見えた。雛木は有沢の額に手を伸ばすと熱が無いか確かめている。途端に先程の夢での出来事を鮮明に思い出し有沢は思わずのけぞった。未だ唇を重ねたあの感触が生々しいほど残っている。驚いて手を引っ込めた雛木を見て有沢は思わず申し訳なくなってしまった。 「……あ、ごめん。汗かいてるし、気持ち悪いかなって……」 咄嗟に口から出た言い訳だった。アレはあくまでも夢の中での出来事だ。 それにしても、何であんなにリアルな夢だったのだろう。 「ううん、大丈夫」 途端に気恥しくなってしまい雛木からわざとらしく顔をそらした。雛木は隣のベッドに腰掛けた。枕を手繰り寄せると雛木は一人枕と戯れ始めた。その姿は本当に無邪気そのもので、先程見た夢が益々信じられなくなる程だった。 二人の間から、会話が無くなる。どこから聞こえるものか蛇口から水滴がポツリと落ちる音が一つ聞こえた。 「保健室の先生、いないみたいだね」 「らしいな」 「――今、二人きりだよ」 その言葉に大袈裟なまでに反応してしまい、有沢は雛木を見た。当然なのだが雛木の方は何の意識もしていないようで枕を抱きかかえたまま天井をボンヤリと眺めている。そこから何を言えばいいのか分からなくなってしまい、有沢は適当な理由をつけて教室に戻る事ばかりを考えていた。 「そうだ、有沢くん! こうやってお話しするの、初めてだね」 「……そうだっけ?」 今度は枕を投げて遊びながら雛木が楽しそうに言う。そうは言われても、元より口下手な有沢にとってほとんど話した事の無い相手だ。おまけに先程見た夢のせいで更に彼への警戒心が強まっているのだからもう手の施しようがない。 「有沢くんってね、初めはちょっと怖い人かな? なんて思っちゃったんだ」 「……」 「みんなと違うって言うか。ほら、有沢くん、友達も多いのにいつもみんなの輪の中に入らないしさ。あんまし笑わないし、怒ったような顔してたから……って、何か失礼だね。僕ってば」 枕を抱きかかえ、両足を子どものようにふらふらさせながら雛木が笑い笑いに言う。 「僕馬鹿だから何て言っていいのか分かんないけど。有沢くんはね、みんなと違うんだなって思ってたの。みんなみたいに僕を甘やかしたりしないし、冷静って言うか、客観的にものを見れる人なんだね」 「――そんな事無いよ」 「ううん。僕はそう思うよ。それに有沢くんって僕と違って背も高くてカッコイイから、羨ましいよ。有沢くんと、もっと仲良くなりたいなぁ」 どこか聞き覚えのある言葉に胸の奥がざわめいた。雛木の顔と、ベッドに置かれた黒い鞄を見比べながら有沢はごくん、と唾を呑んだ。近くで見る黒い鞄はペちゃんこで、中身などとても入っているとは思えなかった。なのに、雛木は何を守っていると言うのだろうか。 「俺、平気んなってきたから教室戻るよ」 「もう戻っちゃうの?」 そう尋ねる雛木の顔は本当に寂しげで、邪推などは一切感じられない。 「ああ。授業聞きもらしたら流石にヤバイしな」 「そっか。僕ももう少ししたら戻ろう、っと。ね、有沢くん」 有沢は足を止めた。雛木は真っ直ぐに淀みの無い目でこちらを見つめながら言う。 「続きはまた今度だね」 その言葉が何を指しているのか、有沢は尋ね返す気力すら沸かなかった。 - - - - - - - - - - 奈々子さんと奈々さんは関係ないよ! 全然違う人だよ! あたんめぇだけど。 この頃の雛木氏はおとなしいなあ。 今でこそぶっ殺すだの豚野郎だの 悪罵ばかり吐くような子だけども。 神話とかの化け物で美人な女の姿をしつつ 近づいた男をバックンみたいな化け物には セイレーンとかローレライとかリリスとか ハーピーとかいっぱいいいるんだけど 単純に響きが好きだったのでラミアにしました。 ←前 次→ |