言い渡された命令だが、メルティングマンは『殺してはいけない』との事である。生きたまま回収し、尋問する事が目的だと言っていたがスミルノフはそうじゃないだろうと言葉の裏にあるものを察知していた。きっと――、あわよくば客寄せのゲテモノとして高額で売り込むつもりでいるのだろう。スカーレットはそういう女だ、金儲けになりそうな話には人道的問題なんぞは差し引いてでも食らいつく。
アンネと共に警備をしていたのは、人通りの多いJ地区だった。この通りを初めとし、比較的高級店が軒を連ね、最終的には街の果てでもあり象徴ともされる『黒蜥蜴の館』へ辿り着くようになっている。
別部隊の護衛からスマートフォンに連絡が入ったのは午後八時――本格的に街も活気づいてくる時を見計らうかのように、その報せが緊張を走らせた。想像していたよりも随分とあっさりとその尻尾が掴めた事に薄ら寒いものを覚えなくもない。
いや、スカーレットの事だ。わざと何か餌を撒いていたのかもしれないがともかく……アンネが緊張を孕んだ様子で電話に応じた。
『すまない、至急っ……アンネ、すぐにでも助けが欲しい――こいつは俺らが思っている以上に――』
「――? どうしたんだ、一体そっちで……」
『ッ――くそ、何だこいつ、――』
酷いノイズと共にかき消されたが、一呼吸置いてから凄まじい悲鳴がアンネの耳に届けられた。がさがさとした音質の呻き声の後、その子機ごと破壊されたのかガッと雑音を残しその通話は一方的に途切れてしまった。
「ど……どうしたんですか、一体?」
「……、緊急事態が起きたみたいだね。エリアはI地区の七番、あそこを見張っていたのは全部で三人。一人は恐らくもう駄目だ」
アンネの言った内容より、その静かな声質にむしろぞっとした。しかし、スミルノフはごくりと唾を飲み下した。
「ただちに向かいますか? 罠の可能性もあります、俺達をここから動かす為の」
「勿論それについても危惧しているさ。……だから動くのは僕達二人だけだ、すぐに応援を要請してここを見張らせておく。しっかりと準備を整えておいてくれ、少しだけ動くぞ」
位置はここからやや南西寄り。どちらかと言えば人々で活気づくこの周辺よりも静かな、夜の闇が濃い場所だ。この街では少し位置が違うだけでも、別世界に迷い込んだようにガラリとその顔を変えてしまう。
異変が起きたその辺りは、耳が痛くなるほどの静寂に包まれていて驚いた。
さっきまでの歓楽街特有の賑やかしい喧騒は一切消え去り、けばけばしいネオンライトは闇に塗り潰され、まるで違う生き物に取って代わったかのようになってしまっていた。
足を動かすほどに、闇の気配が濃くなった。目が慣れるのを待ちながら動き、アンネの背を守るようにしながらスミルノフは静かに追いかけた。
「……何だか酷い匂いがするな」
「この辺は下水が張り巡らされていますから、それもあるのかと」
今でこそ厳しく罰せられるが、つい最近までは飲食店が腐った食い物や賞味期限の切れた飲料をを付近の川に流していた事があった。処分にかかる金銭を出し渋り、食品類は細かく刻んで袋に詰めて出所が分からぬように投棄していたとの事であった。
勿論それらが漏らす臭気は尋常ではなく、飲食店は経営を差し止めさせられた結果、客も遠のき店を畳む事となった。夥しい量の腐敗品は細かく千切られていたのもあり、全てを回収するのは不可能と見なされてしまったようだ。
壁と壁の隙間へと進むと、やはり人気はなく静寂と闇だけが横溢していた。
アンネの背中に従い、歩き続けた。極度の緊張感と強烈な臭気からか、疲労感も倍に感じられてしまう。全身からは汗が吹き出し、煙草で汚れた肺(このサロへ来てからというものの、煙草と酒が許されるようになり刑務所内ではやめていた煙草をまた吸い始めてしまった)が一気に悲鳴を上げる。
対するアンネは平然と歩き続け、やがてその足を止めた。立ち尽くす彼に追いつき、声をかけたが彼の向こう側に見える景色に口をつぐんだ。
「……アンネ……」
「――ああ……」
分かっている、とばかりにアンネが小さく頷いた。一層生臭い空気が覆い被さってきたかと思うと、もはや馴染みつつあった赤い染みに呼吸を忘れて凝視する。血液の塊は既に固まりかけの状態で、そここに飛び散った血の跡は酸素に触れて変色し始めている……。
「全員やられている。もう口を利けそうな者はいない」
つまり三人とも全員、死んでいる。
ばらけた四肢は、一応三人分の顔があるのを確認できた。真ん中に見世物のように置かれた首は、三人の中では一番若くアンネとも親交があった護衛の青年だ。虚ろに開かれた目元、血の気の失われた生気のない顔。無念そうな表情。――出かかった声を飲み込まざるを得なくなった。
「酷いですね、これは」
「あまり見ない方がいい、君はすぐに気分を悪くする」
指摘の通りに、ミゾオチの辺りが何かに押し潰されたようにぐっと苦しくなってきた。漂っていた異臭に混ざり、強烈な血生臭さが鼻腔を突いては胃袋を好き勝手に揺さぶった。
「――それよりも出てきたらどうだ、そこにいるのは分かっているんだぞ」
「っ……!」
アンネの威嚇するような声に、スミルノフも慌てて懐の拳銃へと手を伸ばした。自分達の背後から、それは姿を見せた。強烈な臭いと何よりもその全貌に圧倒され、スミルノフは冷や汗がじっとりと滲むのを認めた。
気味の悪い笑い声が聞こえてきたかと思えば、そいつは憚る事もなく闇の中に佇んでいた。
崩れた顔面、めくれ落ちた皮膚と共に付着するねばねばの液体。溶け落ちた顔には、もう耳も瞼も唇も見当たらない――頭の上からつま先まで、コールタールを浴びたかのようなグロテスクな見た目。歩くたびにネチョネチョと不快な音を立てながら、そいつは笑っているようにも見える表情のまま、ゆらゆらと近づいてきた。
(これがメルティングマン……先に聞いていた通りの……)
見た目だけではなく、その歩き姿もなんとも言えない気味の悪さで、まるで骨がないかのような独特の歩み方。滑稽と言えば滑稽だが、笑い飛ばす気分にはなれそうにもない。ゆったり体と手足をくねらしながら、メルティングマンは片手に犠牲者の者と思われる手首を持ちながらその全貌を現した。
「見た目に圧倒されるなよ、スミルノフ。先にやられた彼らはこの見た目に圧倒されて隙を突かれたに過ぎない。……所詮は何の技術もない見てくれだけの相手だ、僕達が負ける要素はないんだ」
アンネの声が、酷く心強かった。そのくらい、現れた怪物の姿にスミルノフは恐慌をきたしていた。この世の醜悪さという醜悪さを全てかき集めたかのような不愉快さだ、まるで蛇やゴキブリを見た時のような生理的嫌悪感を煽ってくる……。
メルティングマンは怯え竦むこちらを見透かしているのかどうなのか、持っていた手首に齧りつくと、歯を立てて食らいつき始めた。クチャクチャとわざとらしいくらいの音を立てながらメルティングマンはかつての仲間のものと思われる肉身を美味しそうに頬張った。
話にあった通り、知的な部分は何もないように見えた。
本能のままに動くだけの野生動物と何ら変わりがないと思い込むようにすると、気持ち悪さよりも怒りの方が沸々と込み上げて己を支配してくる。
(その通りだ、挑発しやがって……!)
頭に血が上りそうになったが、アンネがそれを片手で制する。そのまま、一歩前に出たかと思うと彼は刀に手をやった。メルティングマンそのとろけた顔をにやつかせたが、奴の方から距離を縮める事はしない。
げっげっげっ、と奴の出しているのであろう気味の悪い笑い声がこちらにまで響いてきた。
「何がそんなにおかしい?――僕の間合いに入っているのに無防備だな、それともまさか望んで斬られたいのか」
構えから言ってアンネは一瞬で片付けるつもりなのだろう。メルティングマンの手首を切り落とすつもりか、それともどこかしらの部位を傷つけて怯ませるか――だがこの妙な違和感と胸騒ぎは何だ――スミルノフは固唾を飲み、その目を細めた。
――どうして奴が動かないのか……そうだ……恐らく……
しまった。どうしてもっと早く気付かなかった。
スミルノフが慌てて叫び、アンネを止めたが恐らくもう間に合わないだろう。奴の方がほんの一秒、早かった。
「……アンネ、下がれっ!!」
「!?」
アンネが刀を抜くよりも僅かに早く、メルティングマンの口から血による毒霧攻撃が噴射された。赤い闇が、アンネの視界を支配する。……人肉を齧っていたのはこれが狙いだったわけだ、少し考えれば分かる事だったのにこんな稚拙な罠に引っかかるなんて! スミルノフは自身が気付けなかった事にせよ、冷静なアンネさえも奴のペースに最初から乗せられていた事にせよ――ともかく情けなくなった。
「……くッ……」
「アンネ!!」
アンネが血液を浴びせられた目を押さえながら後ずさった瞬間、メルティングマンは奇声と共にアンネの首を片手で押さえつけた。噂にあるように『人力を超えた怪力の持ち主』というのもどうやら真実なようだ、アンネは壁際に撥ねつけられ、あっという間にその弾みで刀を落とした。
時が異常なまでに早く進んでいる。
まずい。これ以上、もう一秒たりとも奴に与えるわけにはいかない!
「くそ、この化け物がっ!」
スミルノフが叫びながら引き金に手をやったが、メルティングマンは今度はアンネの頭部を鷲掴みにした。その馬鹿力に身を任せた戦法か、アンネの身体そのものを自らの盾にしようと引きずり出した。
もはや戦略も何もない、力任せの攻撃。体格の差でも恐らく、武器を持たないアンネとこいつとでは歴然とした差が生まれる。
メルティングマンはアンネの首に腕を回した状態のまま、可笑しそうに笑った。スミルノフの、引き金にかけた指がすかさず動きを止める。
(駄目だ、撃てない!)
アンネに命中させずに、確実に奴だけに被弾させる自信などなかった。アンネは潰された視界に目を閉じ、奥歯を噛みしめている。
視覚と共に武器も奪われた彼は、あっさりと、他愛もなくその戦闘能力を封じられた。メルティングマンは、やがてアンネの身体ごとこちらに向かって放り投げてきた。彼の身体がスミルノフに勢いをつけてぶつかり、二人はそのまま地に背中を預ける事となった。
「あっ……!」
共倒れになると、背中に既に絶命した『元仲間』のヌルリとした感触があった。同時に一層強い血の匂いが覆い被さった。どこの部位を敷いたのかは想像したくもなかったが、ともかく粘着質な感触が背中を湿らせた。
ゲッゲッゲッゲ、と蛙を思わせるような声でメルティングマンが笑い声を飛ばし、そんな自分達を見て勝ち誇っているのが分かった――。
「アンネ、アンネ! しっかりして下さい、まさか両目とも……」
ひとまずアンネの細身な体躯を起こすと、アンネの視力は回復したのか……いや。そうではないようだった。
だが、彼はすっかり覚醒していた。
覚醒だなんて聞こえのいいものではないかもしれない。むしろそれは、退化かもしれない。アンネは血に濡れた片目を見開くと、忌々しげに奴を見据えていた。――心臓の音がやかましい。スミルノフは自分の心臓がみっともないくらいに鼓動を響かせているのを感じ、同時にアンネに恐怖心を抱いた。
覚醒ではない。だが、昏迷でもない。……アンネは自らの精神を死神に『貸して』いる。狂気に身を沈めている……。
「――笑、うな……」
「あ……アンネ、早く、早くあいつを……」
ダメだ。
スミルノフは思ったが、的確な言葉が出せないでいる。ダメだ、ともう一度叫びかけた瞬間には、アンネは立ち上がりざまに相手の懐へ飛び込んでいた。
「何がおかしいんだ、この化け物が!!!!」
アンネは武器を拾わなかった。メルティングマンの肩を掴むと、その顔ではなく同じくとろけかかった腕を狙い拳を浴びせた。腕にダメージと共に痺れを貰ったメルティングマンは、間抜けな悲鳴を上げたのちに背後の壁に背をぶつけた。
剣術では見られなかった動きだが、俊足の一撃であるのには変わりがない。狙いも確実だった。――スミルノフはまた、さっきこの化け物と対峙した時とは別の圧倒に言葉を失った。
「……おい、笑ってみろよもう一度……」
「あ、アンネ……」
アンネはやはり刀を持たず、今度はその溶けた顔面めがけて拳を浴びせていた。グチョリ、と何かが潰れるような嫌な音がした。組織の崩壊したその身体は脆いのか、メルティングマンの頬にくっきりと殴られた痕跡が残った。アンネの拳が残った肉を削ぎ、歯列が露出したのがこちらからでも見て取れた。
「笑え! 笑えって言ってるだろうがッ!!」
素手での格闘を見たのはこれが初めてだった。――いや、と考えを改めた。これは格闘じゃない、これでは単なる……人語を解さない筈のそいつが、アンネの殺気に委縮したようにすっかり戦意を失くしているのが分かった。ヒィ、ヒィ、と獣じみた泣き声が漏れてくるのが分かった。
「アンネ、もう……もうやめろ……」
「立て! まだ終わってないぞ、立つんだこの化け物!」
ほとんど嬲り殺しでしかない光景に、もはや怪物側に哀れを抱く程であった。先の殴打によるダメージも残っていたが、スミルノフは何とかして残る力を総動員させて起き上がった。背中に受けた打撃がのしかかり、骨が軋み悲鳴を上げたのが分かった。
「さっきみたいに僕に血を浴びせるがいい! 造作もない事だろうが、貴様にとっては! やれ、やれよクソが、クソ野郎!!」
――ああ、何て事だ。アンネめ、相手に心を折られてしまったか……
一度敵に心をやられたらもうお終いだ、その場の恐慌に飲まれ蝕まれて……見ていられず思わず目を伏せた。耐え難い痛みに、自分自身が巻き込まれたかのような苦痛を覚える。
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とてもおガチな香り。
ペーシュンみたいな、俺、セッススに興味津々です!!
みたいな何か若さ特有のそれと違うガチっぽさが……。
ていうか千秋くんだしょ??
緒川くんのお友達、ここで何してはるんやろな?
ところで毒霧攻撃って今時通じるのかな。
プロレスでよくある卑怯な技よね。