ぼくのおとおさんは、おさかなやさんをしています
おさかなをさばくおとおさんは、とてもかっこいいです
ぼくはおとおさんをそんけいしています
しょうらいはおとおさんみたいになりたいです
                        よしなが こうき





「光輝は大きくなったら何になるんだ?」
「パパみたいなお魚屋さん」
「そうか。魚好きだもんな。今週の日曜こそは、水族館、行こうな」

 そういえばクラスで一番もてる杏里ちゃんは、魚が食べれないから光輝くんとは結婚したくないと言っていた。魚を食べないと、強くなれないんだと言い返したら「女の子だから必要無い」と返されてしまった。

 待ちに待った日曜日、光輝はそれぞれ父と母から手を引かれながら町はずれの水族館へと赴いた。寂れた水族館にはいつも客がまばらにしかおらず、しんと静まり返っていて、せっかくの休日だと言うのにほとんど人もいない。家族連れなんて自分たちしかいない事の方が多かった。みんな郊外に出来たばかりの水族館へと行ってしまってここはほとんど見捨てられた場所なのだ。

 それでも光輝はこの、人のほとんどいない水族館の空気が大好きでたまらなかった。

 元々内向的で人ごみの苦手なせいもあるのか光輝にはこの場所がお気に入りだった。ペンギンもいないしイルカのショーもない、綺麗な熱帯魚なんてほとんどいないけれど。

 どちらかといえばグロテスクで、不細工な深海魚たちで溢れかえる薄暗いこの空間が光輝にとってはどんなにカッコイイ鮫や愛らしい魚たちよりも心を躍らせた。

 父は休みの日になると光輝にせがまれてこうやって水族館へと行ったりもしたし、他にも自分が出演している魚の解体ショーを光輝に見せてやったりもした。

 母に抱かれながら、光輝は魚をさばく父の事を心の底からかっこいいと思っていた。ある日父は釣りから帰ってくるなりに、「面白い物を見せてやるから」と言いニっと笑った。
 父の置いたクーラーボックスに光輝が興味深そうに小走りで近寄った。面白い物、の言葉に目を輝かせながら光輝がクーラーボックスを開けるように急かした。

「ほら」

 父が蓋を開けると、なみなみと注がれた水面がまず目に入った。

「どこに入れればいいか分からなくてさ、ひとまずここに泳がせておいたんだが」

 バシャンと一つ水の跳ねる音がして、光輝は目を丸くして中にいるそれを覗きこんだ。

――魚、だった。それだけでは至って普通なのだが、その魚はまるで墨汁の中にでも浸ったみたいに真っ黒だった。目ばかりが血の様に赤く、そして魚にはもう片方の目が無い。よく見たら背びれも無いし、恐らく畸形の魚なのだろう――その異様な姿に光輝はわっと悲鳴を上げて後ずさる。やがて光輝がわんわんと泣きだしたかと思うと母親に泣きついた。

「ありゃ、おかしいな。光輝、お前こういうの好きだろう」
「ちょっとあなた……、一体何なのそれ」

 光輝が異様な泣き方をするので流石の母も驚いてしまい、ボックスの中を覗きこむ。覗きこむやすぐに顔を歪めて、彼女は小さくおののいた。

「ヤダ……何なの、これ」
「凄いだろう? こんな魚見た事無いよ。ひょっとして新種じゃないかな、なんて」
「それにしたって、薄気味が悪いわ。真っ黒で赤目、それも片目しか無い魚」
「珍しいじゃないか。さすがに食べるのには抵抗があるけど、少し飼ってみるのもいいんじゃないか」
「止してよ! あたし面倒なんて見ないわよ」

 嫌悪感をあらわに彼女は叫んだ。

「――あ〜、まあ明日職場の奴らに見せてやるくらいならいいだろ?」
「いいけれど、私何もしないから貴方が勝手に準備してよね。ほら光輝、泣かないのよ」

 その日の晩、光輝はおかしな夢を見た。自分が深海の底に沈む夢。薄暗い、静かな海の底なのに呼吸ができた。光輝は先の見えない深海の淵を彷徨う。途中、何度となく気味の悪い魚たちとすれ違った。

 ふと、自分の足元をぬるりと何かが動くのが分かった。巨大な魚だ……光輝は身構えて足元を見た。

 あの、父が釣った、畸形の魚がいた。真っ黒い身体をぬるりと動かして、深紅の目が暗い海の底、残光を残して揺れ動く。悲鳴を上げると口から酸素が気泡となって溢れ出た。

――助けて、助けて!

 必死でもがきながら浮上しようと試みる。が、巨大な黒い魚が足元を纏わりついて離れてはくれない。赤い目と、焦点が合う……また叫んだ。届かない悲鳴は泡となって舞い上がるばかりで、光輝は抵抗も虚しく深い海の底、あるいは巨大な魚の口の中。それを確かめるすべも無く沈んでゆく自分の身体を知った。

 夢から覚めた後、光輝は父にあの魚を逃すように訴えた。

「光輝までそんな事、言うのかい。何でだ? 別に悪い事してる訳じゃないさ」
「けどダメなんだ。怒ってるんだよ、そのお魚さん」
「怒ってる? どうして」
「夢に出てきて、僕を食べようとした」
「ははは。怖がりすぎるから夢にまで見てしまったんだな」

 父は笑うばかりで相手になどしてくれなかった。父の持っていたバケツがぽちゃんと水を一つ跳ねあげた――。

 それから幾度となく、あの魚の夢を見た。父は何故かその魚に魅入られたように、結局彼を逃そうとはしなかった。魚も魚で、母が特に飼育に関与せずとも寂れた水槽の中で図太く生き残り、死ぬ事も無かった。

「やっぱりお前、新種なのかな」
「貴方、捨てるって言う約束でしょ? 光輝が怖がるのよ……」
「どうして。光輝、見に来るといいさ。何もしないよ」

 光輝は首を振って、決して近づこうとはしない。ある日の解体ショー、いつものように父が取れたての魚をさばいている。光輝は何となく気乗りしなくて、嫌々母に連れられてやってきたようなものだった。

 父がさばくのは、活きのいい取れたての魚だ。魚はまな板の上でピチピチとその身を躍らせながら包丁が入るその瞬間を待つ。

「――光輝、見てごらん。パパがさばくよ」

 もう何度も見て来たから、知っているよ……と内心光輝が思いながら顔を上げると、そこにいたのは父では無かった。包丁を持っているのは、父なんかじゃ無い。魚の顔をした人間だった。いや、人間なのかも疑わしい――とにかく、魚だった。

「お、おかあさ……」

 まな板の上にいるのは……考えるのも恐ろしかった。あの黒い、赤い目をした片目の魚が跳ねていた。魚の片目が、僕を、光輝をじっと睨んでいる。

「――お母さん!」

 光輝が叫ぶ。包丁が振り降ろされる。

「やめさせて、ねえやめさせてよ!」

 訴えも虚しく、刃が魚に突き刺さる。悲鳴が轟いた。次いで、魚の黒い身が割れて、赤い血がどろりと溢れだした。瞳と同じ色をした、人間のものと近しいそれは次から次へと溢れ出ては止まりそうも無い。

 血生臭い匂いがつんと鼻について、光輝が口元を抑えながら裂かれた魚をもう一度見た。黒い魚の姿はどこにもなく、代わりにそこにあったのは先程から姿が忽然と見えなくなった父の顔だった。

「お父さん!」

 厳密には、顔だけが父の物で、身体はあの黒い魚そのものだった。

「お父さん! お父さん! お父さんが死んじゃうよ!」

 その言葉を最後に、光輝は気を失った――。目を覚ますと、父はちゃんとそこにいて、母も心配そうに自分を覗きこんでいた。

「……ごめんな、光輝。お前があんなに怯えるなんて思わなくて。……あの魚は捨てたよ、これでもうお前が悪夢に悩まされる事も無い」

 申し訳なさそうに父がそう言って、光輝はそんな父と母と抱き合って泣いた。だけどそんな事があってから数日後、父はみんなでお酒を飲んでくる、と言ってその日の晩は家にいなかった。

 帰りが随分と遅く、母と二人して心配していた時にその電話が入った。父はお酒を飲んだまま自転車を運転していた事。当然、捕まって尋問されたが、その自転車が盗品だった事、酒を飲んだままだった事――父は警官を殴り飛ばして、逃げてしまった。

「……あ、あの人がそんな事するはずないじゃないですか」

 今にして思えば本当にそうだと思った。
 父はどちらかといえば気の小さい、優しい男だ。そもそも自転車を盗む様な事だってやらない、酒を飲んで我を見失っていたにしたって、そんな事をした日には潔く謝ってくれる筈だ……。母は、自分の耳を信じなかった。

 その日以来、父と母の間には喧嘩がたえなくなり、あとはもう説明するのも煩わしい程の家庭崩壊だった。父は職を失った事で荒れ、ある日の晩母を殴った。その事が心の枷となったのか、自ら命を絶った。

――それからほどなくして、あの魚が戻ってきた

「何で……」

 高校から帰った光輝が、古く、何もいないはずだった水槽の中に生き物の気配を感じたのだった。苔むしていて、薄緑の水槽の中にはいつの間にか水があって真っ黒いあのいつかの魚が揺れていた。

「父さん、なんだね?」

 何故かそう思った。

――分かったよ、父さん。そうやって戻って来てくれると言うなら、僕はもうキミを拒絶したりしないよ……

 水槽に触れると懐かしい感覚がした。とうさん、と力無い声で呼ぶとそれに応じるように魚が跳ねた。

「……ヌシ?」

 素っ頓狂な声で、教え子の片倉が聞き返す。あれから何年も時が過ぎて、光輝は生物学を教える教師になっていた。昔に願っていた魚屋は止めておく事にした。

「ああ。……父さんが釣ったのはひょっとしたらその海の主だったのかな、とか、守り神様だったんじゃないか――いや或いは、その逆の悪鬼だったのかもしれないね」

 読みかけの文庫にしおりをして、光輝が本を閉じた。片倉は半信半疑といった顔つきのまま、肩をすくめて大袈裟に笑って見せた。

「まったまた……センセったらそうやって俺の事からかうんでしょ」
「――嘘じゃないさ。その証拠に、今片倉が手を置いているそのテーブル。そこに置かれている水槽には例の魚がいる」

 は? と片倉が驚きながら背後を振り返った。苔しか見えない汚れた水槽を見て、片倉がもう一度光輝の方を見た。

「よしてよ。何もいないじゃん」
「よく見ればいい。いるよ」
「やめとく……」

 ぶるっと身震いするように、片倉が身を縮みこませる。

「それよか先生、今日もやってくれるんでしょ。俺最近さぁ、もう先生とのセックス以外考えられなくてもうテスト勉強も身につかなくて」
「――止めろよ、学校で」
「いいじゃん。誰も見てないよ……」

 片倉が性急に光輝のシャツの下に手を滑り込ませながら、背中に手をまわした。

「……魚が見てるよ」
「馬鹿言うな、なんもいやしねえ」

――いるんだよ、あの水槽には今も……だって僕には今もこうやって見えてるんだから

 薄汚い緑色の向こう側、赤い残光がすっと移動するのが見えた。

「先生……ハァッ、熱くてくらくらしてきたよ……ぅ、っ」

 規則的な運動から徐々に狭く、浅くなっていくその律動に光輝が何度か小さく喘いだ。片倉が動く度に光輝が微かな吐息を漏らし、片倉の腰に脚を回してその限界の時を誘う。光輝の太股に片倉が爪を立てる。

「なあ片倉ァ……、あの魚は初めっから関わっちゃいけないものだったんだろうな。たまたま僕達の元へやってきただけで、本当なら違う人の元へ行っていたのかも」
「何言ってんすか先生……意味わかんねっす」
「そうか、ならそれでいいぞ……は、はは」

――ねえ父さん……、僕たちは初めから呪われていたんでしょうね。あの魚に。見初められた、とでも言えばいいのか。僕が生き続ける限りあいつはまた捨てても僕の元へとやってくる。父さん。僕ももうじきそっちへ行くよ……その水槽の中に、僕も沈む日が来るんだ

 水槽の水がまたばしゃんと飛沫を上げたのだが、猿の様に行為に夢中になっている片倉は気が付かなかったのだろう。













そいじゃあ、さよーなら。