「きっもちわりーんだよホモ野郎!」

 どうしてこんな男に惚れてしまったのか今となっては自分にすら分からなかった。まさに文字通り水を浴びせられて目が覚めた、初恋にも似た淡い感情を抱いたいつかの相手はもういない。

「坂口、真冬に水はやりすぎ。ウケる」

 周りでそれを眺めていた連中が囃し立てる様にして笑った。自分に水を浴びせた張本人である坂口はといえば馬鹿笑いする周りからは一線引くように、決して笑ってはいない。静かな怒りを称えたその瞳をこちらへとよこしたまま、坂口は極めて物静かな口調でこう言い放つ。

「変態野郎。二度と俺に近寄んなよ」

 雪が降って無かったのがせめてもの救いだと言えたか。

――ああ、またか……

 と、決まってここで目が覚める。もう何年も前の事なのに未だに鮮明に夢に見てしまうのはやはり忘れられない事だからか。暗黒もいいところな高校時代、卒業してすぐに地元を離れたはいいがこの時の体験が元で自分に自信が持てなくなってしまった。そのせいで就職は滑るし未だに友人と呼べる友人もいないし恋人なんて勿論にいない。

――今日もまた憂鬱な面接だ

「おはよう、あざみ。今日もとびっきり美しいよ君は……」

 うっとりとした表情で悠は水槽の中の亀を見つめる。唯一の友人と言えばこの亀くらいか。この時ばかりは何もかも忘れて夢中でいられる至福の時である。今朝見た夢の事等も忘れて。

 電車に揺られながら背後にいる男子学生たちの会話に耳をすませた。

「おとといのコンパ、最悪でさぁ」
「マジで」
「ブスばっかだし、おまけに途中会話弾まねえでやんの。ブスならブスらしくもすこし会話で頑張れッつーか」
「マジ? 今度俺に回してよ。俺ブス専なんよ」
「それ今の彼女に失礼じゃねーか」

 不愉快極まりない会話であったがどこからどこまでが真実なのか、本音なのか――どことなく過去のあの生々しいイジメの記憶を思い出してしまい、眩暈がした。

「え? 何? 声が小さくて分からないよ」

 面接は、一言で言えば最悪だった。

「もう一度名前言ってくれる?」
「あ……、か、柏木謙哉といいます。すみません……」

 面接官達の視線も質問も嫌で嫌で、もう一刻も早く抜けたくなった。落ちたってかまわない、ここから逃げたい。
 後半からはほとんどマイナスになりそうな事ばかりを言い、逃げるような足取りで帰って来た。

「もう俺駄目だよ、あざみ……」

 家に帰ると、謙哉は早速こんな自分を慰めるべく立ち上がる。クローゼットを開けると謙哉は早速こさえたばかりの洋服を取り出して袖に腕を通す。邪魔なズボンを脱ぎ棄てて謙哉は短めの丈のスカートを履いた。ウィッグを被ればもう完璧だ。鏡の前に立ち、完璧すぎる女装にしばしうっとりとした。

――ああ……、どうして俺は男なんだろう……

 女として生まれていたのなら坂口だって拒む事も、嫌悪感を持たれる事も無かったかもしれない。じゃあ死んで女に生まれ直すか、と言われればそれもまたどうかと思うのだけど。鏡の前で一回ターンを決めるとスカートがひらりと舞って、一層自分が世界一可愛い女の様に錯覚させた。

――勿体ねえな……脚もこんなにすらっとしてて細いし白いし……

 鏡に張り付いきながらどうしようもない事だと謙哉はため息をついた。しかし面接で叩きのめされたせいだろうか、その日は気分がどうにも落ち着かず、普段ならば自分の女装姿を眺めて満足するだけなのに外に出てみようなんていう馬鹿な思いつきをしてしまった。

 誰でもいいから、見て欲しかった。今にしてみれば本当に思慮が浅いというか、気持ち悪いと批判されてもおかしくない考えで、誰か殴ってでも止めてくれればと思う。

 しかし生憎今の自分は独り身で、恋人はおろか友達と呼べる人間ですらいないのだから止める人間などはいない。謙哉は自分なりに学んだメイクを施して、女物のブーツを履いて外へと繰り出した。

 近頃は背が高くてすらっとした女性が多いせいか、どちらかと言えば細身で、男にしたら平均的な背丈の謙哉ならば違和感はさほど無い。違和感どころかスタイルだけ見れば美人の女の部類に入っているに違いない、とショーウィンドーに映し出された自分を見ながら謙哉は思う。

 ブーツのかかとを鳴らしながら街中を歩くごとに得も言われぬ優越感が込み上げて来て、謙哉はその快感に酔いしれた……そうやって何時間も目的も無く徘徊し、さすがにヒールで長時間は疲れて来た――謙哉は足に痛みを覚えてふらふらと駅のベンチに腰掛けた。

――い、いてぇ……女はこんな不安定な履き物でよく何時間も歩いていられるなぁ……

 痛みと疲労感に同時に襲われ、そこでようやくと言ったところか、途端に虚しさが込み上げて来た。悔しさにも似た苦い涙がじんわりと目頭に滲む。

――何やってんだろう、俺……

 本当に馬鹿らしくなってきて、今にも泣き出してしまいたかった。泣いたら負けだ、と押し寄せて来る涙をぐっと堪えて謙哉は天井を仰いだ。電燈に羽虫が集るのが目に入った。

――でも女装すると、違う自分になれる気がするんだよな

 それに今日はナンパまでされてしまったし、しかし声を出せばばれると思って咳き込むふりをしながら逃げ出してしまった。それもまた思い返せば返す程消したくなる記憶の一部として込み上げて来るようで、謙哉は大きく溜息を吐いた。

「おう、ねーちゃん」

 俯いていると突如声を掛けられた。びくっとして謙哉はバッグを握り締めながら身を縮みこませながら恐る恐る声の方を振り返る。

「キャーワイイじゃねえか、おぅふっ」

 前歯の無い口元を覗かせながら中年の男がにやついている。男の年齢は五十代にも見えるし六十代にも見えるし、酒に酔っているのか焦点の定まらない目つきに赤ら顔だ。

 謙哉は顔を青ざめさせながら、あたふたと戸惑うばかりだ。逃げようにも疲れ切った脚は踊っているようにふらついてうまく機能してくれないでいる。

「デヒヒ。ちょっと酔っ払っちゃったよ〜ん。ンググ。隣失礼しまぁす」

 酔っ払いは酒臭い息を吐きながら呂律の回らない喋りをして、謙哉の横に無理やり座り込んでくる。

――まずい……

 こんな時に限って周囲に誰もいないのだから助けを求めようにも叶わない。というよりも自ら望んで人気の無い場所へとやってきたのだから当然か……謙哉は声を詰まらせながら何とか逃げ出さねば、とばかり思う。

「どうした姉ちゃん、涙目で。彼氏に振られたか? お?」
「い、イエ……あの、自分はですね」
「声低いねぇ、姉ちゃん。酒焼けか。今からオッサンと飲み直すか? ゲハ、ゲハハ。そこのオーロラで、朝までな。グボボ」

 オーロラというのはこの辺りにある安いラブホテルの事だ。

「あ、あの、あの。申し訳ないのですが、その」
「いやぁ、別嬪さんだねぇ姉ちゃん。俺のタイプだわぁ。ゴホォ」

 言いながら酔っ払いは謙哉の肩に手を回してきた。

「ひっ……」

 酒臭い生温かい息がもわっと謙哉の顔面に迫る。

「なっ、ちゅーしよ! おっさんとチューしよ! 一回だけでいいから!」
「や、やめてくださぁい、俺男なんですけど」
「男? まあ何でもええんじゃ、こんな可愛い子性別なんて関係あるか」

 じたばたと抵抗するも虚しく一回どころか五、六回、それもうち三度は舌まで入れられた。思わずぺっぺと吐き出してしまった。

「おぼこいのぉ、兄ちゃん。なぁ兄ちゃん、キスまでした仲や、どうせなら続きもやっちまおうか。ゲホホ。ほれ、ちょっとここ触ってみ」

――や、犯られる……

 謙哉がもはや死に近いそれを覚悟して尚更逃げようともがく。酔っ払いは謙哉を力ずくで手籠めにしようと上にのしかかってきた。

「ひ、ひやああ! ひゃめて! も、もうこんな事やんないから真面目に心入れ替えるからお願い触んないでぇえ」

 暴れる謙哉の服に手を掛けながら酔っ払いは訳の分からない事を叫び始めた。

「待たれいっ!」

 ふと、若い男の叫び声がした。その声に待ったをかけられて酔っ払いもさすがにマズイと思ったのかこれ以上の事を中断して一度背後を振り返る。謙哉も謙哉で涙で歪む視界の中、声の主を探す。

「おなごが嫌がっておるーではー、ないか、この不埒者め、いっく」

 こちらが酔っ払いなら助けに来たあちらもどうやらそうらしい。まだ若い、見ようによっては学生にも見えるのだが私服姿なので判別が出来ない――酔っている辺りから酒の飲める歳ではあるのだろうが、男が足元をふらつかせながらこちらを指差している。

 男は武士でも気取っているのか刀に見立てたビニール傘を構えながらふらふらとまた何か呟き始めた。

「のぉさばる悪をなんとするぅ、天の裁きは待ってはおれぬ〜、この世の正義もあてにはならぬっ……ぬーむぁ……うぃっく」

 男もまたべろんべろんに酔っ払っているのか呂律の回らない口調でビニール傘を出鱈目に振り回しながらこちらへとおぼつかない足取りで近づいて来た。

「何だコラァ、若造がー。俺はなあ、このお姉ちゃんだかお兄ちゃんが泣いてるから介抱しとるんじゃい。苦しいって言うから服脱がしてやっただけじゃろが、それの何が悪い」
「我が剣を受けよ! 貴様のような愚者にぃい、この聖なぁる刃は見きれまぁ……あいっ!」
「あ?」

 意味の分からない事を言いながら男はビニール傘を真っ直ぐに構えたかと思うと、呼吸を整え始めた。意外と堂に入った構えは、何か心得でもあるのかと期待してしまう程だ。
 酔っ払いも手の読めない男の動きに少し警戒しているようだ。

「アバンストラーッシュ!」

 叫びながら振り降ろされた男のビニール傘が酔っ払いの肩へと命中する。が、ぺちっと叩く様な音を残すばかりで大したダメージも無く、ビニール傘は虚しく風を切るだけだった。

「なめとんのかワレ、こんなもん痛くもかゆくも……」
「やっぱこれやーめた!」

 男は飽きた様な表情を浮かべたかと思うと傘を背後に投げ捨てた。

「みねうちじゃ、安心せい」

 言いながら男は今度はふらつく足取りながら両手は拳法の様な構えを取った。

 これはいわゆる酔拳、と呼ばれるものだろうか?

 ジャッキーチェンでも気取っているのだろうか、形だけならば拍手を送りたいほどに立派なものだ。ちなみに本当の酔拳は実際に酒を飲んで酔うものではないらしいのだがとにかく……、男は出鱈目にしては随分と気合の入った間合いの取り方で、怯みつつも迎撃姿勢を取る酔っ払いの隙を見て懐に飛び込み始めた。

「と、見せかけてイオナズン!」

 酔っ払いが反撃に出ようとしたのを見計らって男は足払いかけた。普通に汚い、と謙哉は思った。おっ、と言いながらふらついた酔っ払いの隙をついて男は更なる攻撃を加え始めた。

「ベギラゴン!」

 今度は右手で平手打ちをかました。

「マヒャド!」

 ついでに持て余した左の手でもビンタを食らわせる。

「くらえ! とどめのメラゾーマ!」

 今度はすかさず股間を蹴り上げる。酔っ払いはあらぬ攻撃方法にすっかり翻弄され、挙句急所を蹴られ、股間を抑えて蹲った。

「MP切れじゃああ、今日のところは勘弁してや、らぁああ、ぃっく、うい」
「こ、こンの野郎……っ! つ、使い物にならなくなったらどうしてくれん……くそっ!」

 酔っ払いはよろめきながらやっとの思いで立ち上がり、何度も背後を顧みながらも撤退していった。その場に残された男がすっかり震える謙哉の方へと向き直った。

「大丈夫ですかぁ、お嬢さん」
「あっ……」

 謙哉はすっかり怯えきってしまって声すら出せずにいる。男が吐き気を訴えて謙哉の横に倒れ込んでくる。

「あ、あの」
「名乗るぅう、ほどの、者じゃございません。大友といいます、宜しくお願いします。おええっ」

 口元を押さえて大友というその男は一つ嘔吐くような姿勢を取った。思わず謙哉が肩を支える。肩を借りようと大友が謙哉に向かって手を伸ばすと、そのはずみで謙哉の取れかかっていたウィッグが完全にずるりと取れるのが分かった。

「あっ」

 瞬間、大友は完全に素面に戻ったらしく手の上に落ちて来た長い髪のウィッグと、謙哉の顔とを交互に見比べて目を丸くしていた。

「……はれっ? あ、頭が……」

 謙哉は大友の言葉に事態にようやく気が付いたのか自身の髪を抑えている。

「こ……これは……あ……あっと」
「え? え? えっと……綺麗なお兄さん?」

 大友が小首を傾げながら問うと謙哉はウィッグを掴んで無言でその場から駆け出してしまった。お礼も言わずに……。

「ちょ、ちょっとお兄さん!? お兄さぁん!?」

 振り向く勇気も無かった。相手は酔ってはいたもののばっちり顔を見られてしまった。もうあの周辺には行けない……その日はすぐに風呂に入って何も考えないようにして眠った。

 次の日、謙哉はまた別の会社の面接に赴いていた。昨日の事は極力、考えないようにしておいて、謙哉はひたすらアクセルを踏み込んで車を飛ばした。

「君、秘書検定なんて持ってんの!? すっごいね、めずらし」

 随分とフランクな面接で驚いてしまった。事務員の募集だったので、それなら人と顔を合わせなくて済むかと思い応募に至ったのだがやはり男の事務員は珍しかったらしい。オフィスに入るなりあからさまに「男?」というような視線を向けられた。

 面接官に現れたのは自分とそんなに大差が無い様に見える若い男でこちらも驚かされる事となった。背の高い、スマートな体型に端正な顔立ちの割に今風のくだけた喋り方で、面接自体は堅苦しさなど微塵も無かった。

「でさぁ、聞いてると思うんだけど……事務だった女の子が結婚で辞めちゃってねぇ、その欠員の募集で……」
「は、はぁ」
 そこからしばらくは面接官が一人で喋りとおしているだけで謙哉はほとんど何もしなかった。勝手に喋って勝手に終了したらしい、面接した部屋を出る。

「じゃ、じゃあ御選考の程宜しくお願いします……」
「採用の場合は二、三日以内に連絡しますので」
「はい」

 もう一度頭を下げて事務所を出ようとしたところ、ここの事務員だろうか……小柄で茶髪の、派手な顔立ちの女性が一人と、まだ若そうな男性社員が一人。こちらには気付かずに女性の方が扉を開けた。

「まぁた変な事言ってる。どうせヒナちゃんの作り話でしょそれ」
「違いますってホントなんすよ、ゆきのさん! 俺が酔っ払いから助けた美女が男だったんですって」
「そのオチも嘘臭いけど、ヒナちゃんが酔っ払いを退治するってのも嘘くさいわ〜」
「いやー、マジっすよ。俺の華麗な格闘さばきでこう暴漢をばっさばっさと……」
「じゃあヒナちゃんうちの弟と戦ってみる? 空手部エースだけどね」

 女性は若々しい喋り方をしているが、実年齢がよく分からない。見た目も若くは見えるのだが実際のところいくつぐらいなのだろう……と、それよりも問題はもう一人の男性社員だ。

 赤っぽい茶色の髪に、まだあどけなさの残る目元にそこまで高くない身長、彼こそ昨日自分を酔っ払いから助けてくれた大友と名乗ったあの青年じゃなかろうか……、謙哉は思わず息をのんだ。どうか、こちらを見ませんように――と祈る隙すら与えられず大友はすぐに正面を見た。

「あ」

 ほぼ同時に声が出た。

「……この人! この人っすよ、ゆきのさん! うっそ! 何でこんなとこに……」
「あーっ!わあーっ!」

 謙哉が叫びながら大友にしがみついて口を塞ぐ。

「……し、知り合いなの?」

 面接官だった男が首を傾げた。ゆきのも目を合わせて同調したように首を傾げる。

「さぁ……何かよく分かんない。ヒナちゃん、それよりあんた早く営業出なくていいの? 今日午前中納品たくさん無かったっけ」
「あ! そうでしたっけ。じゃあ行ってきます! あとそこの綺麗なお兄さんも!」

 大友が去り際にそう言い残して忙しなく事務所を後にする。残された者達は皆当然ポカンとしているばかりだ。

「な、何!? 何なの、あんたらどういう関係!?」

 ゆきのと呼ばれた小柄な女性が満面の笑顔で食いついてくる。面接官だった男も一緒になって謙哉に詰め寄った。

「ちょ、ちょっと。俺にも一から教えてよ、一体全体」
「い……いやぁ、あのう」
「もういいや、君合格ね? さっき言ったように明後日から早速出社よろしく。で、何なの?」

 二人から壁際に追い詰められながら謙哉は困り果てたように天井を仰いだ。とりあえず、合格はできたみたいです――今晩母親に電話報告しなくちゃと思いながらまずはこの状況から上手に抜け出す術を教えて欲しかった。








とりあえずスランプを脱却すべく気晴らしに好き勝手。
女装ネタは前々からやってみたかったんですが、
今日奇遇にも女装で盛り上がったので運命を感じずにはいられず執筆に…
ちなみにドラクエの呪文を唱えながら殴り飛ばすのは
はだゲンのコラが元ネタです。おっナイスデザイン









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