17-1.冥府より



 一体何が起きたのか、即座には理解できなかった。剃刀でざっくりと切り裂かれたような痛みが走ったかと思うと、けどそれはすぐに収まって今はひたすら身体が寒い。目の前が暗い――鼓動はとても速かったけど、でも気持ちは何だか穏やかでいるのだから不思議であった。

「ナンシーちゃんっ!……おいっ、おい!?」
「創介く――」
「ふざけんなよっ、なぁふざけんなよ!? 放せよオイッ、この馬鹿ぁっ!」

 創介の声が響いてきて、それで「ああ」と思った。ああ、自分の身体はきっともう――緩やかに奈落へと滑り落ちる意識の中、透子は漠然と死ぬという事を悟っていた。
 残る意識の中に滑り込んできた創介のやけにうるさい声で、自分がもう助からないのは分かった。だが……、透子は薄れ行く視界の中で、もう一度少年を見上げた。

――この子を助けないと、

 それから、少女は祈った。死への恐れからではなく、この子が救われるようにと。少年へともう一度その指先を伸ばすが、とても届くような距離ではない。

――何してるの、僕。逃げるのよ、早く……

 自分の魂はいかように扱われようが構わなかった、だが……沈みかけていく中で、そう何度も祈り続けた。……。

 意識が浮上する感覚の後で、透子は何故かその場に横たわる自分の姿を見た。

「……え?」

 そんな自分の傍らで、泣き叫んでいる創介とそれを押さえ込むミミュー達の姿があって……現実味のない光景に目をぱちくりと見開いていると、すぐその隣に近づく気配に透子は慌てて振り返った。

「……、きいちゃん?」

 そこに立っていたのは、小学生当時の、あの時の姿のままの……透子は瞬きもしないで制服姿の彼女を見つめたのだった。そしてその問いかけに、きいちゃんはちょっとだけ笑顔を浮かべてから一つだけ頷いた。

「そっか」

 何故かそれが、それだけの仕草が、今の透子にとっての全ての答えのように思えた。

「私……、死んじゃったんだ」

 きいちゃんは答えなかったけど、だけど今度はちょっと寂しそうな顔をして笑った。

――ユウを救えなかったのね、私

 そう思うと悲しくて死んでも死にきれないが、かくも運命とは受け入れるべきものなのだ。多分。透子はふっと少しだけ息を吐いて、あの頃の姿のままをしたきいちゃんをもう一度だけ見つめた。

「ねぇ、きいちゃん。……私、きいちゃんに会えたら言わなくちゃいけない事があったのよ……」

 彼女はそんな透子の心中をも受け入れるよう、黙って耳を傾けているばかりなのであった。



「――何で……!」

 創介が、ヒロシの胸倉を掴みながら叫んだ。唇が自然とわなわな震え出していた。浴びせてやりたい言葉はいくつもあったのだがまとまらずに只舌の上を踊るばかりなのであった。

「……ネクロノミコン……」

 拳を握り締め、茫然と佇んでいたセラがぽつりと呟いた。

「セラ?」
「……僕を呼んでいたのは君……なんでしょう?」

 誰に言うでもなく、セラが呟いて足を進め始めた。

「セラ、危ない!」

 言いかけて創介が近づこうとするとすぐに地響きが起きた。街全体、いや恐らくは世界全体が激しく揺れている。

「くっそ、次から次へと!」

 創介が頭に乗っかった小石やらを払いのけながら顔を上げると、空と地平線との距離が著しく近くなっていた。

 さっきまでは見えていたはずの建物や施設が瞬時にして消滅し廃墟と化し、代わりに真っ赤な空が周囲を支配している。そして、不自然なまでに赤い色をした空が延々と広がっていた。

「い……」

 木々は一瞬にして枯れ木となり、荒地がところどころに作られていた。それはまるで、ベクシンスキーの絵画で描かれる荒廃した世界のような風景だった。

 這いつくばったままで周囲を見渡すと、あらゆる色彩の失われた滅びの世界がそこにはあった。現世と、あの世が繋がったような退廃した光景。見渡す限り……それは『地獄』と呼んでいいだろうか。

 地獄。その言葉に、創介はさっきのセラの問いかけを不意に思い出した。罪人が向かうべき場所、それはつまり……言葉を失っていると矢継ぎ早に、さっきは足を止めていた筈のゾンビの群れが次々とほぼ半壊したそのバリケードやら、瓦礫やらを乗り越えてこちらへやってこようとしているのが見えた。

 夥しい死者の群れに混ざり、先ほどの巨体ゾンビ達もコントロールを失ったように、まるで壊れた玩具のような雑な動きを見せ始めた。

「あーあ、地獄の門が開いたのかな?」

 雛木が独り言のように言い捨ててから、ざっと前に乗り出した。

「門どころか地獄に落とされたんだよ、きっと」

 ミミューの補足に、創介が戦いたように呻いた。

「地獄……」
「そうだ」

 ミミューがはっきりと頷いた。

「この世は罪人だらけだ……」

 その言葉に、創介は何か無数の意味を感じる。目を細める創介に、ミミューは更につづけたのだった。それがまるで、何かの贖罪であるかのように。

「罪を犯した事のない人間なんていないよ。人間誰かしら、生きていくうえで大なり小なり罪を犯し重ねていくものだよ――ただ、それに気づかない人間というのが一番幸せなのかもしれないね……」
「……俺達が罪人だって、そういう事?」

 珍しく創介の頭が働いた。あんまり嬉しい閃きではないのだけれども。ミミューはそれで目を細めつつ頷いた。

「そうだ。だから――地獄に落ちたんだ。……僕達は」
「馬鹿言うなよ……じゃあ、ナンシーちゃんが……ナンシーちゃんもそのせいで?」
「必然だったんだ。僕らがここへ落とされたのは」
「……い、いい加減にしろよ!」

 いよいよ聞いていられなくなり、創介がミミューの胸倉に掴みかかる。彼の言いたい事は何となくだが理解できた。そしてセラが先に言っていた、その言葉の意味も。こんな時に言い争いをしているべきではない、というのはよく分かっていてそれでも何か言い足りないでいると、雛木が入り込んできた。

「あー、もううるさい。そういうの後にしてくんない?……まったくもー、あんまりお人よしが過ぎるのも考え物だね。ここまで来ちゃったもんは仕方がないから、僕やるよ。やったげるよ。まずあのデブは僕が仕留める、臭いったら無いよ! ったく! 僕の美しい身体に臭いがうつるんだっての」

 雛木が颯爽と叫ぶや否や、有沢がその隣にさっと並んだ。

「手を貸す。……仲間を喪って、大人しくしていられる気分じゃないからな」

 問題は巨体ゾンビだけではなかった。

 ちらと目を移せば、個性豊かなゾンビ達もお出迎えである。一番初めにそれに目をつけたのはミミューだった、彼は持ってきていた弾薬を手にした。

「なっ、神父……どこへ」
「ゾンビの群れどもは僕が引き付けるよ!……ほらほらおいでっ、こっちだよ!」

 意を決したようにミミューはフェンス越しでがしゃがしゃやっているゾンビ達の気を引こうとラジオを大音量にして流し始めた。

「神父っ……」

 創介が振り返りざま叫ぶと、隣にいたヒロシが呟いた。

「……死ぬ気か……」
「――え?」

 その、聞き捨てならない言葉に思わず目を見開いたのちに創介がヒロシの顔を見上げる。見上げたヒロシは悔しそうな顔で親指の爪を噛み締めていた。

「……くそっ! ネクロノミコン、僕はここにいるぞ! どうして僕を狙わない!?」

 ヒロシの叫びがほとんど空洞と化した周囲に山彦となって虚しく木霊した。創介が何とか手を突いて起き上がりながら視線を揺り動かした。

「な、なあ。あのガキがネクロノミコンでいいんだな?」

 ヒロシの腕を引いて尋ねるとヒロシはゆっくりと頷いた。

「……そうだ。ユウくんの魂とすっかり同化している――」

 後半の方はほとんど独り言のようで、よく聞き取る事が出来なかった。創介が改めて正面を見ると、既にセラは少年と正面から向かい合う形になっていた。

「……セラ」

 七色に輝くバリアの中で、セラと灰色の少年は互いに対峙し合う――そこは、きっとセラだけが近づく事を許された聖域なのだった。






加筆多めかな。
お気づきかもしれませんが
みんな罪人なんですよこのパーティーはね。
創介だけのほほんとしてるけど、
ミミューもそうだし双子もそうだし
雛木も有沢もセラもだねえ。
ナンシーちゃんは殺人まではしてないけど
自責の念に駆られているというね。





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