「おはようさん、名字」
「おはよう。珍しいね、朝練無いのに」
「俺は神出鬼没ってやつじゃき」
「どうせただの気分でしょ?」
「さて、どうだかのう・・・」


目の前の男はにやりと笑った。
マフラーでほとんど隠れているから、口角しか見えないんだけど。

でも確かにこの隣に座っている"仁王雅治"という男はよく分からない。
気分屋すぎて掴みどころがないのだ。
彼に関しての質問をしてもはぐらかされることも多いし。
・・・まぁ、防寒対策しすぎて着膨れしているところをみると、かなりの寒がりなのだろうということは分かるけど。
コートを脱ぐ衣擦れの音が、まだ二人しかいない教室に響いた。



乾燥唇




「相変わらず外は寒いのう・・・ほれ」
「ぎゃっ!」


いきなり左の頬が冷たくなった。
まるで大きい氷のようなものの正体は、仁王の冷め切った手。
ポケットに入れて歩いていたくせになんでこんなに冷たいの!



「ぎゃってなんじゃ、ぎゃって・・・。もう少し色気のある声は出せんのか」
「急にそんな手をくっつけられたら誰でもこうなるって!」
「ほおか?」
「そうです!」



まったく・・・と小さくこぼして、目の前のプリントにかかる。
今の私は生憎、仁王にかまっている暇はないのだ。
大量に"遅刻厳禁"や"二人乗り禁止"などを書かされる漢字プリントが3枚。
これを朝早くに来て一時間目の始まりまでに提出しなければいけない。
理由は私が今学期に5回も遅刻をしてしまって、遅刻指導の対象になってしまったからだ。
もうすでに右手の横の部分が真っ黒だよ・・・。

・・・・・・あれ、"遅刻"ってなんだっけ、"の"なんて文字あったっけ。
あぁ、だんだんとゲシュタルトが崩壊してきているのが分かる。



「のう」
「何?」
「お前さんの唇のここ、切れとるぞ」
「えっ・・・・・・あ、本当だ。」



いつの間に切れていたんだろう。
けっこう切れていたみたいで、唇の左端から血が滲み出していた。
言われて意識し始めるとだんだん痛くなってきて、じわーっと唇が熱くなっていく。
うぅ・・・さすがにリップクリーム塗らなきゃ耐えられないかも。

横にかけていた鞄からポーチを取り出して見てみる。



「あれ?おかしいなぁ・・・」
「どうしたんじゃ」
「うーん、いつも入れてるはずのリップが無い・・・」
「どんくさい名字のことナリ。家に置いてきたんじゃなか?」
「どんくさいって失礼な!でも家では使ってないからそれはないと思うんだけど・・・うーん・・・・・・」



折りたたみのくしや目薬、百均で買ったピンくらいしか入っていないポーチの中にはいつものリップが、なぜかこつ然と姿を消していた。
物が少なすぎて探しようのないポーチをいくら探っても無い。
おかしいなぁ、と首をひねっていると仁王が自分の鞄を開けていた。
ガサガサと彼も何かを探した後、「あったぜよ」と私に何かを見せてきた。



「・・・リップ?」
「名字のじゃないけどな。俺のでも使いんしゃい」
「えっ!いいよ、これくらい舐めれば――」
「むしろ悪化するがいいのかのう?」
「うっ・・・」



悪化するのは嫌だ。
でも仁王が普段使っているやつを使うのは、その・・・。
嫌というわけじゃなくて恥ずかしい。
仁王は気にしてないかもしれないけど、私にとったら彼との間接キスは重大なことだ。
片想いの相手との間接キス・・・、そんなの出来っこない。
しかしこのチャンスを無駄にしてもいいのだろうか?

もんもんと頭の中で葛藤を続けていると、痺れを切らせたのか、片手でぐりんと私の頭を45度くらい回転させてがっちりと固定してきた。



「俺が塗ったるけぇ、動くんじゃなかよ。」
「えっ!いいです、遠慮しておきます!!」
「遠慮なんてしなくてよか。俺たちの仲じゃき」
「ただのクラスメートでしょうが!」
「ほらいくぜよ〜」



ぴとり、とリップが当てられた。
唇の形にそって斜めっている、そのいかにも今まで使われてきたことを語るかのようなクリームの部分は、今私の唇の上を滑っている。
だんだんと頬に熱が集まってくるのが分かる。

目の前の綺麗な彼の瞳が、私の唇をじっと見つめていることに恥ずかしさを感じ始めたときに、リップクリームは離れてしまった。



「できたナリ」
「あ・・・りが、とう」
「礼は飲み物がいいのう」
「誰が買うか。」
「くくっ、冗談じゃよ」



少しでもときめいた私を殴りたい。
無駄に顔はいいんだから、この男は・・・。

クリーム部分を出したままのリップ持ち、仁王は席を立つ。
どこかへふらふらしに行くのだろうけど、リップくらい置いていっても・・・。
不思議に思っていると、彼は教室の扉の前で立ち止り振り返った。



「名前、」



すーっと、さっきまで私の唇を滑っていたリップが、仁王の唇の上で滑っていた。

その光景が信じられなくて、私の体は完全に固まっていた。
つっこみを入れることも、怒ることも恥ずかしがることも全て忘れたかのようにその姿をじっと見つめている。
彼は二回ほど唇を合わせた後、朝に見たときよりも怪しげににやりと微笑んだ。



「間接キス、ごちそうさま」



そういい終えると、鼻歌を歌いながら去っていった。

・・・今のは何なの?
私の思考回路は完全に麻痺していた。
急に名前で呼ばれたかと思えば、あんなこと・・・・・・。
いったい何の為にされたのか分からない。
今まで普通に友達として接してきたのに、どうして?
ただからかわれただけなのか、それとも――。


私は結局そのことが頭から離れず、プリントがほぼ白紙のまま一時間目を迎えた。
そして、なくしたはずのリップクリームが、仁王の机から出てくることを私はまだ知らない。





End



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