「ただいま戻りましたー」
「戻りました!」

U−17合宿も無事終了し、裕太と一緒に久しぶりに帰った聖ルドルフ学生寮の玄関を潜ると、そこには待ち構えていたように懐かしい顔が並んでいた。

「やあ観月、裕太。合宿お疲れ様だったね」
「おかえりだーね!んで、合宿どうだった!?」
「おいおい柳沢、観月達だって疲れてんだしさ。今日は休ませてやれよ」
「弟くん、お兄さんには勝てたのかい?」

木更津に柳沢、野村は寮生だからわかるとして…何故か赤澤まで顔を揃えている。合宿の話が聞きたくてわざわざやってきたのだろうか、暇人め。

「裕太くん、相手をして差し上げなさい。僕は荷解きをしたので部屋に戻りますよ」
「ちょ、観月さん!俺一人で相手するんスかぁ!?」

3年生4人に囲まれた裕太を置いてさっさと自室へ向かおうとすると、足止めのつもりなのか、柳沢と木更津に先回りされて廊下を塞がれてしまった。

「ちょっと君達、邪魔ですよ」
「まぁまぁ、ちょっと待つだーね。観月の話も聞きたいだーね!」
「そうだよ。色んな選手のデータ取ってきたんだろ?少しでいいから聞かせてよ」
「あっ俺もそれは興味あるな!青学のゴールデンペアはどうだったんだ!?」

データという言葉に反応した赤澤も参戦し、最早収拾がつかない状態だ。というか赤澤はさっきまで今日は休ませてやれ、と言っていたくせに…この変わり身の早さはいかがなものだろうか。

「ああもう、帰って来るなりうるさいですよ!後で資料を作りますから大人しく待ってなさい!!」

ぎゃあぎゃあと騒ぐ3人を一喝し、塞がれた進路を無理やりこじ開けて自室へと向かう。
観月に怒鳴られるのも久しぶりだなー、なんて呑気な声が聞こえてきたものだから、思わずこめかみを押さえることとなった。





やっとのことで自室に戻ると、ふぅ、と一つ息を吐いた。

「全く…戻ってきて早々、なんて騒がしいんだ」

だけどあの喧しい声を少しだけ懐かしく感じてしまう辺り、僕もあいつらに染まってきているのだろうな、と思う。…それはそれで恐ろしくもあるが。

肩に掛けたままの重たいバッグを降ろして、部屋の中を見渡すと、学習机の上に手紙や葉書がいくつか置かれていた。
片付けてから出たはずだから、不在の間に届いたものを寮監がまとめておいてくれたのだろう。
一つひとつ手に取って確認してみたものの、待ち焦がれた人からの手紙はそこには混ざっていなかった。

「…期待はしてませんでしたけどね」


ミョウジ先輩への気持ちを綴った手紙を出してから、早いもので半年が経った。

ポストへ投函した時は初夏の日差しが心地よい季節だったのに、今ではもうコートにマフラーがなければ過ごせない。
それでも山形の厳しい寒さと比べれば、こちらの冬は随分と温かいのだけれど。


あれから色々あった。


自信を持って臨んだ都大会では青学・不二周助に屈辱的な敗北を喫し、コンソレーションでは氷帝の跡部から1セットも取れずに敗退。また振り出しに戻ったつもりでやろうと決めて、このまま高等部へ進学することを決めた頃、U−17合宿の誘いを受けた。
正直に言うと何故僕が、という気持ちはあった。都大会で消えた選手に声が掛かるなんて、普通に考えたら異例なことだろう。全国へ駒を進めた学校にはもっと相応しい選手がいるのだから、と辞退することも考えた。
それでも良い経験になるから、と合宿に参加して…代表に選ばれることはなかったけれど、同世代だけではなく高校生たちのデータまで取れたのは大きい。このデータは来年以降、聖ルドルフの躍進に繋がる貴重なものとなるに違いない。


…そしてその間、ミョウジ先輩からの連絡は一切途絶えていた。


最初の頃こそ、今か今かと毎晩電話を待ってみたりもした。電話が欲しいとは書いたけれど、もしかしたら手紙で返事が来るのかもしれない。そう思って毎日寮の郵便受けを覗いてみたものの、見覚えのある癖字を目にすることはなかった。夏休みに帰省した時、会いに行こうとしたこともあった。しかし、実際に行動に移すことはしなかった。

悟ってしまったのだ、この気持ちは僕の一方通行だということを。

もしかしたら先輩も同じ気持ちなんじゃないか、なんて淡い期待はもちろんあったさ。あの人はいつだって僕を信じてくれて、頑張れと背中を押してくれたから。
好意を持ってくれていると勘違いしない方がおかしいじゃないか、そんなの。けれど今ではもう、そんなものは跡形もなく消えてしまった。

だって同じ気持ちならば、すぐにでも答えをくれたっていいはずだ。未だに何の音沙汰もないということは、そういうことなのだろう。


いつまでも考えていたって仕方のないことだ。気持ちを切り替えるためにも、まずは洗濯物でも片付けてしまおう。そう思ってバッグのファスナーに手を掛けたところで、コンコン、とドアをノックする音が響いた。

「はい、どなた…」

どなたですか?というこちらの返事を待たずして、ドアは勝手に開かれた。その向こうに立っていたのは、さっき置き去りにしてきたはずの赤澤だった。

「おう、荷解きしてるとこに悪いな」
「悪いと思うなら返事を聞いてから開けてもらえますか?」
「相変わらず細かいなぁ、お前は。そんなんで合宿所の共同生活は大丈夫だったのか?」
「…思い出したくもありません」

プライバシーも何もあったもんじゃない日々を思い出して口を噤むと、赤澤は何を想像したのか大口を開けて豪快に笑って見せた。そっちこそ、相変わらずデリカシーもなければ上品さの欠片のない無骨さだ。

「ところで何か?用事なら手短にお願いしますよ」
「そうそう、寮監からの預かりものがあるんだ。今朝速達で届いたから、急用じゃないかって」
「速達?一体誰から…」

そこでやっと赤澤の差し出した封筒に目をやり、ハッと息を飲んだ。その薄ピンク色の封筒は、いつもミョウジ先輩が使っていたものと同じ色だ。ひったくるようにして受け取り表書きを確認すると、確かにあの人の字で『観月はじめ様』と宛名が書いてあった。

少し丸みのついた、癖のある文字。もう期待は捨てようと思いながらも、ずっと待っていた手紙だった。

「すまん観月、そんなに大事な手紙だったのか!?どうせもう帰って来るから大丈夫かなーと思って…」
「赤澤、内容を確認したいので外してくれませんか」
「あ、ああ。わかった、悪かったな」

僕の剣幕に驚いたのか、慌てて謝罪する赤澤の言葉を遮って背を向けた。人が出ていく気配と、ドアが閉まる音を確認してから丁寧に封を切る。半年ぶりの連絡に、先輩は一体何を書いてきたのだろうか。

中身を取り出すと、入っていたのは便箋が一枚だけ。以前は何枚も書いて送ってくれたのに…ということは、内容は余程短いということだ。
今更あの告白に対しての"ごめんなさい"が送られてきたのだろうか。恐る恐る半分に折ってあった便箋を開くと、そこに書かれていたのはたったの一行。


『拝啓、はじめくん お久しぶりです。元気ですか?近々会いに行きます。』


「…どういう事でしょうか、これは…」

会いに来るということは、まだ望みは捨てないでいいという事なのか?そして会いに来るって、一体いつですか先輩。
まるで要領を得ない半年ぶりの手紙に思わず脱力した僕は、額に手を当ててだらしなく座り込んでしまった。



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「なあ観月、昨日の手紙は一体何だったんだ?」
「しつこい。何でもないと言っているでしょう」

翌日の放課後、早くU−17合宿のデータを整理したくてHR終了と同時に席を立つと、そこへ赤澤がやってきた。
どうやら昨日の様子を訝しんで探りを入れに…というか、尋問するためにわざわざ早く来たらしい。
柳沢と約束があるらしく一緒に寮へ向かうことになったわけだが、あの手紙は何だ誰からなんだ、と先程からうるさくて仕方がない。

「何でもないにしてはおかしいんだよなあ、今日のお前」
「…うるさいですよ」

首を捻る赤澤に言い返すことができたのは、その一言だけだった。…確かに今日の僕はおかしい。
数学の授業で当てられた時にはありえないような凡ミスをしてしまったし、ぼんやり歩いていたら廊下の何もないところで転ぶし、話しかけられても気付かないことが多々あった。

クラスメイトは合宿の疲れが残ってるんだろう、と納得してくれた様子だったが、テニス部の連中はそうはいかない。
昼休みには噂を聞きつけた木更津・柳沢・野村がやってきて、散々僕の失態をからかって帰って行ったし、職員室前で偶然会った裕太には心配されてしまった。

そして昼休みの会話に参加していなかった赤澤は、どうやら昨日の手紙に原因があると気付いているらしい。普段は察しが悪い癖に、どうして気付いて欲しくないところに気付くんだよバカ澤め。

「差出人って確か…ミョウジナマエさん、だったか?」
「なっ…何を勝手に見てるんだ君は!!」
「仕方ないだろ、目に入ったんだから。ナマエ、ってことは女からだろ?もしかして彼女か!?」
「違います。あと勝手に呼び捨てるんじゃない」
「何だよー別にいいだろ、たまには恋バナしようぜー」

勝手に並んで歩く赤澤と連れ立って、そんな実りのない会話をしながら昇降口で靴を履きかえる。

こいつと恋愛の話をするなんて冗談じゃない…とは思ったものの、よく考えてみると相談相手としては悪くない気もする。交友関係も広いし、本人は自覚がないようだがそこそこ女子生徒には人気がある。何度か告白を受けたことがあるらしい、と柳沢が言っていた。

昨日の手紙の意図を、第三者に聞いてみるのもいいかもしれない。

「…赤澤、あの手紙のことがそんなに気になりますか?」
「そりゃーもう。観月はあんま自分のこと話さねぇし、未だに謎な部分多いしな」

赤澤は余程気になっていたらしく、瞳を輝かせていた。
あまり気が進まないが一人で考えていても答えは出ないし、赤澤は軽薄そうに見えて口の堅い男だ。他の連中に話してしまう心配もないだろう。
寮まで歩く道すがら、僕と先輩の間にあった出来事を話して聞かせるとしよう。

「では教えて差し上げましょう。あれは転校前の学校でお世話になっていた女子テニス部の先輩からで、地元にいた頃はずっと2人で一緒に練習をしていた相手です。
こちらへ来てからも連絡を取り合ったり、手紙のやりとりがありました。そして都大会の前に僕から好きだと告白して、それからは連絡が途絶えていたところへ届いたのが昨日の手紙です。
僕はてっきり振られたんだと思っていましたが、しかし約半年ぶりの連絡だった昨日の手紙には『近々会いに行きます』と書かれていました。
この内容からするに、彼女の僕に対する気持ちはどういったものだと考えれば良いのでしょうか。そして近々、とはいつなのか。どう思う、赤澤?」

息も吐かぬ勢いで語る僕に、赤澤は目を丸くしている。どう思う、と投げかけた質問の答えは返ってこない。

「…どう思う、赤澤?」
「えっ!?あー、えーと…何つーか、観月も恋とかするんだな!」
「質問の答えになってませんが」
「いやー、軽い気持ちで聞いたのに込み入った事情が出てきたから驚いちまってさ!悪いな!!」
「もういいです、別に最初から期待してませんからね」

笑って誤魔化そうとする赤澤に溜め息を吐くと、肩をポン、と叩かれた。

「まぁ、でもさ!また手紙が届いたんだし、会いに来るって言うんなら嫌われてはいないと思うぞ」
「それは僕だって思いましたよ。もっと別の答えを期待していたのに…これなら君に話した意味がないじゃないか」
「そんな事言われてもなぁ…じゃあ他の奴にも聞いてみるか?柳沢とか木更津とか」
「勘弁してください、一瞬で噂になるに決まってる」

あの二人は歩くスピーカーみたいなものだ。尾ヒレがついた全く別の話が広まって、好奇の視線に晒されるに違いない。
そんな状況を想像して眉間に皺を寄せると、赤澤も同意見のようで苦笑いを零している。と、そこに軽快なリズムの着信音が鳴り響いた。

「悪い、俺だわ」
「どうぞ、僕にはお構いなく」

出るように促すと、通話ボタンを押した途端に大きすぎる声が僕の耳にまで入ってきた。どうやら電話の相手は柳沢のようだ。どうせすぐに寮に戻るというのに、一体何の用事だろうか。

「え?…男子寮の前に知らない女子?…誰か待ってるっぽい?…ふーん、誰かの彼女じゃねえの。…おう、わかった。じゃあそろそろ着くから後でな」
「…電話でもうるさいですね、柳沢は」
「あー、やっぱ聞こえたか。見かけない女子が寮の前にいるとかで、寮生みんなで騒いでるらしいぜ」
「ばっちり全部聞こえましたよ。全く、よくそんな下らないことで騒げるものですね」
「いやいや、気になるだろ。顔よく見てこい、出来れば誰待ってるのか聞いてこい!だってさ」
「別に止めやしませんけど、失礼のない程度にしてくださいね」

そんな会話をしながら角を曲がると、聖ルドルフの学生寮が目に飛び込んできた。そして門柱にもたれて、ぽつんと立っている人の姿も確認できる。
あれが柳沢が電話で言っていた人物だろう、確かに僕も見たことのない顔だ。ロングコートのボタンを上から下までしっかり留めているせいで、どこの制服かもわからない。聖ルドルフでは学校指定のコートを着用する生徒が大半だから、もしかすると他校生だろうか。ならば見ない顔なのも納得だ。

「…なんか、声掛けられる感じじゃねぇな」
「止めておきなさい、ご迷惑でしょうし。さっさと中に入りますよ」

もう随分長い事待っているのか、手袋をしていない手を擦り合せて温めているようだ。ソワソワと腕時計を気にしている様子から、余程会いたい人がいるのだと推測できる。
そんなところに見ず知らずの男が声を掛けるのは、どう考えても野暮というものだろう。そこを運悪く待ち人に見られたりしたら、妙な誤解を与えかねない。ここは気にしない振りで通り過ぎるのがベストだろう。

そう思って顔も見ずに足早に通り過ぎようとすると、いきなり後ろから腕を引っ張られた。

「わっ!?ちょっと赤澤、いきなり何を…え?」
「えーと…お久しぶりです、はじめくん」
「え…え?ミョウジ先輩!?」
「はい、ミョウジ先輩です」

強く引かれたものだからよろけてしまって、文句を言ってやろうと振り返る。するとそこには、先程まで今か今かと誰かを待っていたはずの女子生徒が、僕の腕を掴んで立っていた。そして赤澤は彼女の後ろで、呆けた顔をして突っ立っている。

つまり噂の彼女の待ち人は僕で、その正体は何とミョウジ先輩だったのだ。

予想もしなかった展開に、きっと今の僕は赤澤と同じく呆けた顔をしているに違いない。だってまさか『近々会いに行きます』というのが、手紙が届いた翌日のことだなんて普通は思わないだろう。
…そうか、そういえばこの人は普通じゃなかった。いつも突拍子もない行動で僕を驚かせては、その度に楽しそうに笑っていた。そういう人だった。そしてそういうところも、彼女を好きな理由のひとつだった。

「その…しばらく見ない間に、随分と髪が伸びましたね」
「うん、高校に入ってから伸ばし始めたんだ」
「似合ってますよ、とても」
「そうかな?はじめくんに褒められれるとなんか照れるね」

素直に感想を言うと、照れたような笑みを浮かべる先輩。その笑顔に聞きたいことは山のようにある。


半年も連絡を寄越さなかった理由は?
その間どうしていたのか?
今になって会いに来た理由は?
大体今日は平日なのに学校はどうしたんだ?
それから…好きだと告げた、その答えは?


だけど質問がありすぎると上手く言葉が出ないもので、口をついて出たのは今はどうでもいいような話題だった。いや、どうでもよくはないのか。
最後に会ったのは去年の冬に帰省した時だから、約1年前。あの頃はショートカットと言って差し支えない長さだったのに、今では肩の少し下まで伸びていた。

実家の姉たちもそうだったけれど、女性というのは髪形が変われば雰囲気も変わるものだ。先輩もその例に漏れず、活発な印象が強かった以前よりもぐっと大人びた雰囲気を纏っている。まじまじと見なければミョウジ先輩だと気付かない程に、だ。

要するに綺麗になったのだ。好きだからという贔屓目を抜きにしてもそう思えた。

そんなに変わった理由は何だろうか。
ああ、そういえば恋をすると女性は綺麗になるんだとも姉さんが言っていたな。ということは、先輩も僕の知らないところで別の誰かに恋をして、わざわざあの告白を断りに山形から会いに来たんだろうか。

ああもう、分からないことだらけだ。そのせいだろうか、悪い結果しか想像できない。


「あの、ミョウジ先輩!色々と聞きたいことが…」
「ちょーっと待ったぁ!早まるな観月!!」
「「うわ!?」」

その"分からないことだらけ"な状態を解消すべく、先輩に詰め寄ろうと一歩踏み出す…と、完全に存在を忘れていた赤澤に遮られてしまった。僕も先輩も、赤澤の馬鹿みたいな大声に驚いて肩がビクッ、と跳ねる。

「何です赤澤、部外者は黙っていて頂けませんか?」
「いや、俺は別に構わないんだがな。…後で苦労するのはお前だと思うぞ」
「どういうことです?」
「どういうって、アレ見ればわかるだろ。ここで続けていいのか?」
「…アレ?」
「まぁ、もう遅いかもしれないけどな」

嫌な予感がして、赤澤の指差した方向を振り返る。そこは寮の階段の踊り場にある大きな窓で、寮生たちがこちらを見ようとぎっしり鈴生りに顔を並べているのが見えた。
先頭は柳沢・木更津・野村のテニス部補強組の3年生。その後ろに裕太、それから他の部の特待生たち…誰もが興味津々といった表情で、ニヤニヤと嫌な笑みを浮かべている。

「なっ…!?何でもっと早く言わないんですか、このバカ澤!!」
「ひっでぇ言い草だなオイ!それより早く逃げた方がいいんじゃないのか?」
「…そうします。行きましょう、先輩」
「あっ、うん!えーと、アカザワくんだっけ?ちょっとはじめくん借りるね」
「どうぞどうぞ、好きなだけお貸ししますんで!」

何でお前に貸し出されなくちゃいけないんだ、とは思ったものの…今は一刻も早く寮を離れたい。赤澤の言葉は聞かなかったことにして先輩の手を引くと、そこへまたもや観月!と馬鹿でかい声がした。今度は何だと振り返れば、赤澤が見慣れない自転車を引いて立っている。

「俺のでよければ使うか?」
「一応聞きますが…何故君の自転車がここに?」
「そりゃー今朝ここまでチャリで来たからだな!」

悪びれもせずに言う赤澤は、自転車通学の許可をもらっていないはずだ。普段ならば寮生管理委員として苦言を呈するところだが、この緊急事態にそんなことを言っている場合じゃない。

「今回は見逃しましょう。ですから…」
「おう、それで貸し借りナシってことだろ?」
「んふっ、わかってるじゃないか」

得意げに笑う赤澤から自転車を受け取り、サドルに跨る。先輩も慣れたもので、何も言わずとも僕の肩に掴まり荷台に腰掛けた。東京へ来てからは学校も近いし、駅だって徒歩圏内だから自転車に乗る機会なんてなかった。久しぶりのペダルの感触に最初は少しふらついたものの、その後は滑らかに走り出した。

まるで山形でミョウジ先輩と過ごした日々に戻ったような、そんな気がしてしまう。だけどあの頃にはもう戻れない。


この自転車の様に前に進むためにも、先輩の気持ちと答えを聞かなくてはいけない。それを思うと、冬の空気がより一層冷たく感じられた。





((2014.08.17 / 2015.01.05加筆修正))
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