来てしまった金曜日、夜。今日はいつもと違うのだ。今日こそは必ず返してもらうのだ。後ろにいつものお供、雑巾、箒、チリトリ、水たっぷりのバケツ。もちろんバイト最優先でさっさと済ませて今後こんなことのないようにしなければならない。私としても毎度毎度のバイト時間、多忙な高校生を引っ張り回すなんてあまりしたくはないからね。さて、準備は出来た。セメントス先生に今日は随分やる気だねえと褒められたけどその理由を言えるわけもなくへへへと笑って誤魔化した自分とも今日でサヨナラなのだ!


「よ、よし」

 いつもの弱々しい掛け声ひとつ、魔王のお城に乗り込んだ。こんなところで負けてはならぬのだ私よ。普段通り女子の棟を上から順番に、それから共同スペースは素通りして男子の棟へ。ここまでは問題もなく、誰とも出会うことなく掃除は進む。5階も予定時間までにしっかり磨きあげるとここからが本番とエレベーターの前で腕組みして覚悟を決める。それから大きく深呼吸をして乗り込み4階へと降り立った。
 ガガガガ、小さいながらに夜の廊下にはエレベーターの扉の音が響く。薄暗い間接照明、今日は残念なことに月が出ていなくていつもより暗いけどやっぱり爆豪くんが部屋の前の壁に身体を預けているのを見つけ私は駆け寄った。この前までの私だったらそんな爆豪くんを放っておいて掃除を始めるんだけど今日は用件を先に言っておけば流石の私でもそれから先忘れやしないとようやく考えついたのだ。遅いって?知ってる知ってる。


「爆豪くん今日こそ返してもらうからね!」

 ハイッと大きく彼の前に手をやった。いつもここまでは完璧なのだ。そこから何故か話を逸らされたり掃除を先にしろなんて言われて忘れてしまうのだ。…我ながら情けない。でも正直ここまでしておいて問題の学生証を返してもらえないのは私が悪いのではなく爆豪くんがそもそも返してくれないのが悪いのである。その結果いつも忘れさせられている自分のドン臭さには見ないふりをして、と。
 「ん」だけど今日は違った。爆豪くんがポケットから手を出したかと思うとそこには私が求めていた学生証があり、私の手の上に落とされる。意外と簡単に私の元に戻ってきたそれにポカンとしたのは当然のことで今まで何で返してもらえなかったのかと問いたくなった。……いや、本当に忘れていただけなのかもしれない。


「あ、ありがとう」

 ああ、でも本当に良かった。呆気ない終わりだった。前回までは爆豪くんもウッカリしていただけなのかも。悪いように言ってきて失礼だったのかもしれない。魔王じゃなかったんだ。そうだよね、ヒーロー科だもん。私の後輩だもん。見た目通り少し意地悪だったけど素直に話を聞いてくれる人で本当によかった、なんてついでにハンカチも返ってきたことにホッと安堵したその瞬間だった。


 ――ドン!


「…へ、」

 耳元で大きな音が鳴りパチクリと目を見開いた。視界が一点、いつの間にか爆豪くんが近い。私の横には爆豪くんの手が伸びていてそれが後ろの壁を叩いている。彼の動きが素早過ぎていきなりのことに目が完全に追うことができなかった。
 ……どうしてこうなってしまったんだ。ハッと息を飲んだものの声が出ない。ついでに爆豪くんの大きな身体によって視界を遮られてしまった所為で個性で操っていた力が途切れ、彼の後ろで掃除用具が静かに廊下に降り立つのを確認しながら唯一手元にある学生証をギュッと握りしめ彼を見上げた。無言のまま見下ろす爆豪くんは何だか怖いし何を考えているのかよくわからない顔だ。怒っている、んだとは思うけど私にはその理由がさっぱり分からない。
 だって私、何一つ悪いことなんてしていない。むしろ怒られるべきは爆豪くんの今までの行動全てなわけで、この場においては私がお説教してもいい立場なのに。なのにどうして。――どうして、その目がとっても怖いのか。


「あのう、…爆豪くん?」
「あの野郎は何だ」
「”アノヤロウ”?」

 さっぱり聞き覚えのない単語だった。あの野郎?いつの、何の話をしているんだ。眉根を寄せてしまったものの思い返しても私が爆豪くんにあの野郎と形容されるような相手と連れ立って歩いた記憶はない。というか爆豪くんと会うのはこの前のバイト以来だしそれから先怪しげな人と歩いたことはない、けれど。
 見間違いじゃないかと問いたくなったけど如何せん爆豪くんの表情は硬いまま。もしかして敵が私の近くにいたのだろうかとも思ったけどそれはさすがに話が飛躍しすぎか。なんてぐるぐる考えているもののただ一つ分かることは取り敢えずあれだ、ここで冗談でも言ったらぶん殴られそうな雰囲気だっていうこと。あの野郎。…あの野郎、ねえ。早く考えつかなきゃと思えば思うほどさっぱり分からないのにそれが向こうは気に食わないのか額に皺が寄っていく。気の所為であってほしいけど耳元でボッと何だか嫌な音が聞こえてくるようだった。感じ取れた身の危険にさらに記憶を辿っていく。


 …あ、もしかして。

 ようやく思いついたのはこの前の電話の時に会話に乱入してきたクラスメイトのことだった。授業に遅刻したら代返しあう仲の彼とは母校を一緒にしているという共通点があったけどせいぜいそれぐらいで、この前も問題を解いたらアイス奢ってくれたっけ。いやでもそれは確かに携帯で喋っている時に声が聞こえたとは言え、それだけであの野郎呼ばわりするような人にならないような気がするんだけど。でもそれが当たっているかどうかを確認しなければ分からない。そうじゃなきゃきっとこのままの状態から爆豪くんは逃してくれないのだろう。


「この前の、電話の人?」
「……」
「あの、それならクラスメイトだけど。もしかしてこの前煩くて怒ってるのかな?ならごめんね。そう言えばそのあと電話も切れちゃって謝るの忘れてたね」

 なるほど、それなら話が分かる。一応通話口を抑えたとはいえ喧しかったのかも。いやもしかすると会話を聞いて雄英にバイト行ってることがバレたら不味いんじゃないかと気を遣って切ってくれていたのかも。なら悪いのは私だ。いやあ、あの時どうしてすぐ爆豪くんに電話しなかったんだろうね。私の配慮が足りなかったんだ。
 悪いと思った時は謝りなさい、とこれは私が大事にしていることだ。だからこれに関してだけは完全に私が悪いとしてもう一度謝ろうと顔を上げたとき、見たことのない爆豪くんの顔に虚を突かれ言葉を発することはできなかった。口を開けたまま、どことなく顔を赤らめた爆豪くんを誰がこんな間近で見ようと思いましょうか。え、私なにか間違えたこと言った?え、私なにか突拍子もないことを言っちゃった?不安になったものの爆豪くんはそれに対し何も言わない。その代わり急激に怒りが収まったんだと思う。今にも殴りかからんといった態度がすっかりなりを潜め、やがてぽつりと小さく呟く。


「…彼氏とかじゃ、ねえんかよ」
「え、何でそんな話に?居ないし、むしろこの前の電話の時に彼氏じゃないかと疑われたぐらいなんだけど」

 突拍子もない話題をするのは爆豪くんの方だ。訳のわからないまま取り敢えず否定し、そうすると彼は「そうかよ」と言った後黙りこくる。そのまま様子を伺ってみれば爆豪くんは私から離れずるずると真反対の壁に背中を預けてくったりと座りだした。いや、本当にどうしてそんな話題になってしまったんだ。個性で近くにあったバケツが爆豪くんに当たらないよう移動させながら爆豪くんに近付くけれど彼の顔は完全に下を向いてしまったのでこれ以上何も見えることはなかった。…残念ながら、耳がほんの少し赤いのはこの暗闇で隠すことはできなかったけれど。え、待って。これ、どういうことなの。


「爆豪くん?」
「こっち見んな」
「…あ、うん。じゃあ掃除するね」

 待って。待って、待って、待って。今のどういうことなの。今のはどういう意味なの。爆豪くん、どうしてそれ以上喋ってくれないの。残念ながら彼はそこから完全に沈黙を貫き話すことはなく、だけど私は悲しきかなバイトの身。掃除はしておかないと。一声かけて自分の両頬をパチンと叩く。未だドキドキしている心臓には気付かない振りをし、個性を使って再度持ち込んだ掃除用具を動かし始めた。

 コトン、コトン、コトン。サッサッサッ。


「……」

 気まずい。
 非常にきまずい。

 箒が私の意思を汲んだのか明らかにまっすぐ動いてくれないしバケツもさっきから水をこぼしてばっかりだ。動揺が個性に出ている。やばい。これじゃ見事に汚くなる一方である。だけど早くしなくちゃ。爆豪くんにさっきの意味を問いかけたいけどそれはそれで怖いと思う自分もいてどうにかこうにか掃除を続けていく。やがて時間を大幅に過ぎた頃、ピピッと時計が鳴ったのを聞いて今日は時間通りに終わらないことを覚悟した。いや、これは明日に回そう。今日はもうそれどころじゃない。くるりと振り返るといつの間にか復活していた爆豪くんがエレベーターに乗っている。また今日も送ってくれるらしい。


「ありがとう」
「……」

 頭を下げするりとエレベーターの内に入り込むとガガガガ、音を響かせエレベーターが閉まっていく。私が3階ではなく1階のボタンを押したことで今日の掃除が終わったことはわかったらしい。何も突っ込まれないまま下に降りていく間私は思考を巡らせこの状況をどうしたらいいのか考えていた。さっきのはきっと見間違いだったんだ。だって爆豪くん普通になってるし。うん、私の気のせいだ。彼がもしかして私のことちょっと興味あるんじゃないかという推測はきっと間違いだったんだ。これまで頭を撫でてくれたことも、何だかんだ送ってくれたことも。私の友達を彼氏か何かなのかと問いかけ、不機嫌になったことも全部全部。


「おい」

 だから、今振り向いた彼が今に人を殺すんじゃないかと思ってしまえるほどの目つきを見て確信した。やっぱり私が何かしでかしてしまったから怒っていたんだと。殺られる。ギラギラと睨んだその先は敵ではなく私だ。1階に降りたその先、エレベーターは1度開かれ、時間が経過した所為でまた閉じている。逃げなければ。早くそこで開くボタンを押して逃げなくちゃ視線に殺されてしまう。そう思えるほどに重たい空気だった。
 伸ばされた手が肩にかかったら最後、私は全力で逃げてやろう。そこまで決心して爆豪くんの挙動を観察する。だけど次に放たれた言葉に、私は盛大に、ポカンと目と口を開くこととなる。

「次はいつ来んだ」


憐れな運命ちゃんに

名前をあげよう


 個性で浮かせていたものが全て床にぶちまけられた。主にバケツ。主に雑巾。ああ、早く片付けなくちゃ。ああ、はやく染み込んでしまう前に雑巾で拭いておかなくちゃ。そう思うのに彼の視線から逃れることができない。さっきの私の推測はあながち間違いではなく、そして逃げたくても逃げられないのは私はいつの間にやらもう捕まっていたからなのだ。
 認めてしまえば単純なこと。結局私はただたださっきの爆豪くんと同じく口を開いたまま何も話せることなどできやせず、やがて「また、電話します」と力なく返事をするだけで精一杯だったのです。
fin.
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